軋む檻、転換点の予兆
ユイが島に来てから数日間、奇妙な膠着状態が続いた。ユイは精力的に取材活動を行っていた。役場にも何度か訪れ、開発計画の資料を閲覧したり、担当者である俺や田辺課長に話を聞いたりしていた。俺は意識的に彼女との接触を避け、あくまで業務上の対応に徹した。凪との約束があったから、というよりも、彼女と向き合うのが怖かったからだ。ユイも、無理に俺にプライベートな話を持ちかけようとはしなかった。だが、廊下ですれ違う瞬間、交わされる視線には、言葉にならない多くの感情が込められていた。気まずさ、探るような眼差し、そして、共有する過去の重みからくる、微かな痛みの色。
凪は、ユイの動向を常に気にしていた。図書館での仕事中も、窓から外を眺めている時間が増えたと、同僚のパート職員がこぼしていた。俺に対しては、以前にも増して過敏になり、少しでも帰りが遅くなると、どこで何をしていたのかを執拗に尋ねてきた。「ユイさんと会ってたんじゃないでしょうね?」という疑いの言葉が、毎日のように繰り返された。
そして、ユイに対する妨害工作も、より巧妙かつ執拗になっていた。ユイが予約していた取材相手が、直前になって「都合が悪くなった」とキャンセルしてくることが続いた。ユイが借りていたレンタサイクルがパンクさせられていたこともあった。宿には、深夜に無言電話がかかってくるようにもなったという。犯人は分からない。だが、その背後に凪の静かな執念があることを、俺は確信していた。凪は、決して自らの手を汚さない。だが、彼女の言葉や視線は、時に人を動かす力を持つ。特に、海斗という「駒」を失うことを恐れる、島の古い人間関係の中では。その巧妙さが、凪の恐ろしさであり、また、彼女を憐れに思わせる要因でもあった。彼女は、そうするしか自分たちの「聖域」を守る術を知らないのだ。
「海斗くん、あの女、まだ島にいるの?」
凪は、ユイのことを変わらず「あの女」と呼んだ。その声には、剥き出しの敵意が込められている。
「さあ…知らないよ」
「早く島から出て行けばいいのに。鬱陶しい。海斗くんも、そう思うでしょ?」
同意を求めるような凪の視線から、俺は目を逸らした。何も答えられない。凪の放つ負のオーラが、部屋の空気を重くする。この息苦しい檻の中で、俺はただ耐えるしかないのだろうか。いや、本当にそうなのか?心のどこかで、何かが変わり始めているのを感じていた。それは、ユイの存在がもたらした、小さな、しかし確かな変化だったのかもしれない。
そんな中、佐伯の調査は決定的な局面を迎えようとしていた。彼は、シズが死の直前に、本土の出版社に何度か電話をかけていたという記録を掴んでいた。そして、その電話番号が、ユイの勤める出版社の代表番号と一致することを突き止めたのだ。シズは、ユイ、あるいはユイの同僚の誰かに、何かを伝えようとしていたのではないか?それは、島の不正に関する告発か、それとも、五年前のあの夜に関する何かか…。
さらに佐伯は、過去の島の広報誌などを徹底的に洗い直し、俺が高校生の時に、島の写真コンテストで入賞していた事実を発見した。「相葉海斗」の名前と、俺が撮った汐凪島の風景写真。それは、俺があの夏、常にフィルムカメラを持ち歩いていたことの客観的な証拠となった。そして、ミサキの証言と合わせ、佐伯の中で一つの仮説が確信へと変わっていった。「あの夏」に撮られたフィルムが、現像されないまま、今もどこかに存在するのではないか? そして、そのフィルムには、シズの死の真相に関わる決定的な瞬間が写っているのではないか?
ある日の夕方、役場の仕事を終えた俺を、佐伯が待ち伏せていた。人気の少ない、役場の裏手だった。潮風が、彼のジャケットをはためかせている。
「相葉さん、少しだけ時間をもらえませんか?」
佐伯の目は、いつにも増して鋭く、確信に満ちた光を宿していた。俺は嫌な予感を覚えながらも、彼の前に立ち止まる。逃げることはできないと、どこかで悟っていた。
「…何でしょうか」
「単刀直入に聞きます」佐伯は言った。その声は静かだが、強い圧力を伴っていた。「五年前の夏、あなたが使っていたフィルムカメラ。そして、その時撮ったフィルムは、今どこにありますか?」
核心を突く質問。俺は息を詰まらせた。全身の血が逆流するような感覚。喉が渇き、言葉が出てこない。「か、カメラ…?」という音にならない音が、唇から漏れた。
「そうですか、やはり持っているんですね」佐伯は俺の反応を見て、小さく頷いた。「シズさんは、あなたのカメラのことを気にしていた。そして、彼女は死ぬ直前、何かを告発しようとしていた。日高ユイさんの勤める出版社にも連絡を取ろうとしていたフシがある。…偶然にしては、出来すぎていると思いませんか?」
佐伯の言葉は、一つ一つが重く俺にのしかかる。まるで、見えない壁が迫ってくるようだ。
「もし、あなたが何かを知っていて、それを隠しているのなら…それは、あなた自身を苦しめ続けるだけですよ。真実を話すことが、唯一の解放になるかもしれない。あなたにとっても、そして…潮見凪さんにとっても」
佐伯が、凪の名前を出した。その瞬間、俺の中で何かが切れた。凪を守らなければ。その強迫観念にも似た感情が、恐怖を上回った。
「…俺は、何も知りません。カメラも、フィルムも、もうどこにあるか…」
嘘をついた。だが、声は震えていた。
「そうですか」佐伯は深くため息をついた。「残念です。ですが、私は諦めませんよ。真実は、必ず明らかにします」
そう言い残し、佐伯は立ち去った。彼の背中を見送りながら、俺は全身から力が抜けていくのを感じていた。彼の目は、諦めてなどいなかった。むしろ、確信を深めたように見えた。
アパートへの帰り道、足が重かった。佐伯の言葉が頭の中で反響する。フィルム。真実。解放。そして、凪。
俺は、いつまでこの嘘と秘密を抱え続けるのだろうか。このまま、凪と共に、この檻の中で朽ち果てていくのか。
部屋に戻ると、凪は何も知らない様子で夕食の準備をしていた。その穏やかな横顔を見ていると、激しい罪悪感が胸を締め付ける。俺は、この平穏を守るために、嘘をつき続けなければならないのか。
その夜、俺は眠れなかった。何度も寝返りを打ち、時計の音だけがやけに大きく聞こえる暗闇の中で、考え続けていた。佐伯の言葉。ユイの存在。そして、凪の歪んだ愛情。何が正しくて、何が間違っているのか、もう分からなかった。
そして、夜明けが近づく頃、俺は静かにベッドを抜け出し、押し入れの奥へと手を伸ばした。軋む木の音に、隣で眠る凪が身じろぎした気がしたが、構わなかった。
ひんやりとした、硬い感触。古い布に包まれた、あのPETRI FT EE。ずっしりとした重みが、五年の時を経ても変わらずそこにあった。カメラを手に取った瞬間、あの夏の記憶と共に、薬品と埃の混じった、煤けたフィルムの匂いが、幻のように鼻腔を掠めた。
俺は、このカメラをどうするべきなのか。この中に眠るフィルムは、現像されるべきなのか、それとも永遠に闇の中に葬り去るべきなのか。
答えは出ないまま、ただ、カメラの冷たい感触だけが、俺の手の中で確かな存在感を放っていた。共犯者の檻は軋み、転換点は、すぐそこまで迫っていた。第三部の幕開けを告げる、不吉なサイレンが、俺の耳の奥で鳴り響いていた。