再会のサイレン
日高ユイ。その名前を聞いた瞬間、俺の心臓は大きく跳ね上がり、同時に、冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。五年ぶりだった。あの夏、俺たちが犯した罪を目撃し、何も告げずに島を去っていった、もう一人の少女。
「…ユイ? ど、どうしたんだ、急に」
声が掠れ、吃音が顔を出す。電話口の向こうで、ユイが息を飲む気配がした。
「ご、ごめん、突然。元気にしてるかなって、思って」
ユイの声も、どこか緊張しているようだった。五年の歳月は、彼女の声に少しだけ大人びた響きを与えていたが、根底にある快活さのようなものは変わっていない気がした。
「ああ、まあ…元気だよ。そっちは?」
「うん、私も元気。あのね、海斗くん。今、仕事でこっちの地方の事件を追ってるんだけど…」
ユイは言葉を選びながら、自分が記者として働いていること、そして担当したある隠蔽事件の取材を通して、汐凪島のことを思い出さずにはいられなくなったことを、ぽつりぽつりと語った。
彼女が担当したのは、ある地方の村で起きた、有力者による不正と、それを隠蔽しようとした結果起きた不審死事件だったという。閉鎖的なコミュニティ、外部の人間への警戒心、権力者への忖度。取材を進める中で、ユイは五年前の汐凪島の記憶を、嫌でも重ね合わせてしまったのだ。そして、あの夏、真実から目を背け、何もできずに島を去った自分への後悔が、日に日に大きくなっていった、と。
「私、あの時、逃げたんだなって…。ちゃんと向き合わなきゃいけなかったのに」
電話の向こうで、ユイが小さく息をつくのが聞こえた。
「そんな時にね、佐伯さんっていうジャーナリストの人から連絡があったの。汐凪島のことを調べてるんだって。シズさんのこととか、海斗くんたちのことも…」
やはり、佐伯はユイにまで接触していたのだ。あの男は、どこまで嗅ぎつけているんだ?
「それで、決めたんだ。私も、もう一度、島に行こうって。逃げてばかりじゃいられないから。ちゃんと、自分の目で見て、話を聞いて、そして…記録しなきゃいけないって。記者としても、あの夏を知る人間としても」
ユイの言葉には、迷いを振り切ったような強い意志が感じられた。ジャーナリストとしての使命感と、個人的な過去へのけじめ。それが、彼女を再びこの島へと向かわせている。
「…そうか」俺はそれしか言えなかった。「いつ、来るんだ?」
「明後日のフェリーで行くつもり。…会えるかな、海斗くん」
その問いかけに、俺は即答できなかった。会いたいような、会いたくないような。複雑な感情が渦巻く。
「ああ…仕事が、立て込んでなければ…」
「そっか。…凪ちゃんは…元気?」
「…元気だよ」
短い沈黙が、電話線を隔てて重く漂う。五年前の夏、俺たち三人の間にあったはずの、屈託のない時間は、もうどこにもない。
「じゃあ、また着いたら連絡するね」
「…うん」
電話は切れた。俺はしばらく、受話器を握りしめたまま動けなかった。耳の奥で、自分の心臓の音がドクドクと大きく響いていた。
ユイが来る。その事実は、俺の心の奥底に、微かな、しかし確かな波紋を広げた。恐怖と、罪悪感と、そして、ほんの少しの…解放への期待。もし、ユイになら、全てを話せるのではないか? この重荷を、少しでも分かってもらえるのではないか? そんな甘い考えが、頭をもたげる。だが、それは凪への裏切りであり、俺たちが築き上げてきた(あるいは、囚われてきた)この歪んだ共生を破壊することに他ならない。
凪には、ユイが来ることを話せなかった。話せば、彼女がどんな反応をするか、想像するだけで恐ろしかった。凪にとって、ユイは「奪う者」なのだ。過去も、現在も、そして未来すらも。
二日後、ユイは予告通り、フェリーで汐凪島に到着した。俺は役場の仕事を理由に、港へ迎えには行かなかった。行けなかった、というのが正直なところだ。フェリーが着く時間、俺は役場の窓から、小さく見える船影をただ見つめていた。
ユイはまず、一人で島を巡ったようだった。五年前の夏、俺たち三人が一緒に歩いた海岸線、ラムネを飲んだ防波堤、そして、夕陽が綺麗に見えた古い灯台。島の風景は、部分的には変わっていたが、彼女の記憶の中の夏の眩しさを呼び覚ますには十分だったのだろう。港近くの宿にチェックインした後、彼女は一人、夕暮れの海岸に佇んでいたという話を、後でミサキから聞いた。「なんか、考え込んでるみたいだったよ。昔みたいに、元気いっぱいって感じじゃなかったな」ミサキはそう言って、少し寂しそうに笑った。
ユイが島に来たことは、すぐに凪の耳にも入った。誰から聞いたのかは分からない。だが、その日の夜、アパートに帰った俺を迎えた凪の目は、氷のように冷たく、静かな怒りに満ちていた。
「ユイさんが、来てるんだってね」
凪の声は、感情を押し殺したように平坦だったが、その奥には激しい感情が渦巻いているのが分かった。
「…ああ、さっき聞いた」
「どうして、私に黙ってたの?」
「いや、その…言うタイミングがなくて…」俺の声が詰まる。
「ふーん」凪は俺の目をじっと見据えた。その視線は、俺の心の中まで見透かそうとしているかのようだ。「海斗くん、あの人に会うつもり?」
「…仕事で会うかもしれないけど、別に…」
「会わないで」凪はきっぱりと言った。「あの人は、部外者よ。私たちの邪魔をしに来ただけ。海斗くんが会う必要なんて、これっぽっちもない。絶対に、会わないで。約束して」
その言葉は、有無を言わせぬ決定事項のように響いた。凪は、ユイの存在そのものを、俺たちの「聖域」を侵犯する最大の脅威と捉えているのだ。その瞳の奥に、暗く、粘つくような嫉妬の炎が揺らめいているのを、俺は見逃さなかった。
ユイの再訪は、静かに進行していた島の変化に、新たな、そして決定的な波紋を投げかけた。俺と凪を繋ぐ檻は、外からの力によって、軋み始めていた。そして、その軋みは、破滅への序曲のように、俺の耳にはっきりと聞こえていた。遠くで鳴り続ける工事の音が、まるで運命の到来を告げるサイレンのように、不吉に響いていた。