深まる影、蘇る記憶
佐伯悟という男が島に現れてから、汐凪島の空気は確実に変わった。それは、じわりと染み出してくるインクの染みのように、目には見えにくいが、確実に広がっていく変化だった。開発計画への期待や反発といった表層的なざわめきの下で、もっと深く、暗い何かが揺り動かされ始めている。そんな予感を、俺――相葉海斗は感じずにはいられなかった。
佐伯は精力的に動き回っていた。日中は開発計画の取材と称して役場や工事現場に顔を出し、夕方になると島の古老や、シズと生前関わりのあった人物を訪ね歩いているようだった。彼が特に時間を割いているのは、シズの遺品整理を手伝ったという数人の女性たちへの聞き込みだった。その粘り強さは、単なるジャーナリストの好奇心だけではない、何か個人的な執念のようなものを感じさせた。
「佐伯さん、また来たのかい。もう話すことなんてないよ」
港近くの小さな家に住む、元漁師の妻である老婆は、うんざりしたように言った。佐伯はそれでも、穏やかな笑みを崩さずに上がり框に腰かけ、世間話から巧みにシズの話題へと切り込んでいく。
「シズさん、晩年は何か心配事でも抱えていたようなご様子はありませんでしたか? 例えば、誰か特定の人物を気にしていたとか…あるいは、何か書き物を熱心にされていたとか」
「さあねえ。シズさんは昔から、島のことを何から何まで背負い込むような人だったからねぇ。心配事なんて、いつだってあったんじゃないかね。書き物? さあ、どうだったかねぇ…」
老婆は多くを語ろうとしなかった。島の人間は、よそ者に対して、特に「過去」を探る者に対して、口が重くなる。それは長年の島の習わしであり、一種の自己防衛本能なのかもしれない。
佐伯は、シズが生前、島の因習や過去の出来事について独自に調査し、記録を残していたらしいという感触を得ていた。それは、彼が本土にいる頃から抱いていた仮説でもあった。シズは単なる島の長老や民間療法師ではなく、島の暗部を知る「記録者」でもあったのではないか。そして、その死は、何かを公表しようとした矢先の出来事だったのではないか。佐伯がシズの死にこだわるのは、彼女が追っていた別の不正事件に、彼自身も間接的に関わっていた過去があるからかもしれなかった。シズの死によって、闇に葬られた「何か」があるのではないか、と。
佐伯の調査は、島崎ケンジにも及んだ。あの夏、俺たちと共に岬の断崖にいた漁師の息子。今は寡黙な青年となり、父親の跡を継いで黙々と漁に出ている。その背中には、どこか影が差しているように見える。
佐伯は、漁から戻ったケンジを港で待ち受けた。船から降りてくるケンジの顔には、疲労と、そして慢性的な諦めのようなものが浮かんでいる。
「島崎さん、少しだけいいかな。五年前の夏の夜のこと、思い出してほしいんだ」
ケンジは、佐伯の顔を睨みつけるように見た。その目には、警戒心と、そして触れられたくない記憶に触れられたことへの苦痛が滲んでいた。
「…何の話だ」
「潮見シズさんが亡くなった夜のことだよ。君も、あの岬にいたはずだ」
「事故だろ。警察もそう言ってる」ケンジは吐き捨てるように言った。その声には、自分自身に言い聞かせているような響きがあった。
「本当にそうかな?」佐伯の声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。「何か、不自然なことはなかったか? 誰か、おかしな動きをしていた人間は? 例えば…人の影とか、誰かの叫び声とか」
ケンジは顔を歪め、唇を固く結んだ。彼の脳裏には、あの夜の混乱した光景が断片的に蘇っていた。松明の炎、怒号、誰かがよろめく影、そして、崖下に広がる暗い海…。暗闇の中で、何かが落ちる、鈍い水音を聞いたような気もする。だが、それは靄がかかったように曖昧で、確かな形を結ばない。
「…知らねぇ。俺は、何も見てねぇ」
そう言うのが精一杯だった。佐伯はそれ以上追及せず、「そうか、分かった」とだけ言って立ち去った。だが、ケンジの心には、重い錨が下ろされた。封印していたはずの記憶の蓋が、こじ開けられようとしている。その恐怖と、真実を知りたいという微かな衝動の間で、彼の心は揺れ始めていた。夜、一人で酒を飲む量が増えた。
一方、島の開発計画は着実に進んでいた。リゾート建設予定地とされる、島の南側の丘陵地帯では、測量のための杭が打ち込まれ、重機が入るための仮設道路の工事が始まっていた。その場所は、かつて島の聖域とされ、古い祠があった場所だと古老たちは言う。シズも生前、その土地の扱われ方について、役場に何度か意見を言いに来ていたらしい。開発推進派は経済効果を強調するが、反対派は島の魂を売り渡す行為だと息巻いている。
俺は役場の職員として、測量に立ち会うこともあった。草木が刈り払われ、赤土が剥き出しになった土地を見るたび、言いようのない不安感が胸をよぎる。何か、掘り起こしてはならないものを掘り起こしているような、そんな感覚。工事の騒音が、まるで島の悲鳴のように聞こえることもあった。
凪は、島の変化を極度に嫌っていた。
「あの音、うるさい」工事の音が風に乗ってアパートまで届くと、彼女は顔をしかめて呟いた。「どうして、島をこんな風に変えちゃうんだろうね。昔のままが、一番いいのに」
その言葉は、単に島の景観を惜むものではない。変化は、彼女が必死で守ろうとしている「過去」との連続性を断ち切り、未知の未来、つまり、コントロールできない状況をもたらす。それが、凪には耐えられないのだ。
彼女は、俺が役場で開発計画に関わっていることにも、不満を隠さなかった。
「海斗くんも、あんな仕事、手伝わなければいいのに。もっと、私たちのことだけ考えててくれればいいのに」
「そういうわけにはいかないよ。仕事だから」
「…ふーん」凪は不機嫌そうに黙り込む。そして、夜になると、俺の行動を細かく詮索するようになった。「今日はどこに行ってたの?」「誰と話したの?」「役場のあの女の人と、最近よく話してるみたいだけど、どんな関係なの?」その質問は、心配を装いながらも、俺を縛り付けようとする鎖のように感じられた。俺が曖昧に答えると、彼女はしばらく黙って俺の顔を見つめ、そして小さくため息をつく。その沈黙が、何よりも重かった。
俺と凪の間に漂う空気は、日増しに重くなっていた。静かなる来訪者・佐伯の影と、変わりゆく島の現実が、俺たちの築き上げてきた虚ろな平穏を、内側から蝕み始めていた。