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夏凪リフレイン、共犯者の檻  作者: もりも理幽
虚ろな平穏と静かなる亀裂
3/12

静かなる来訪者

 翌日、役場のロビーで、俺は再びあの男を見かけた。昨日と同じ、少し着古したジャケット姿。手にはメモ帳を持ち、役場の掲示板に貼られた開発計画の概要図を熱心に見ている。その背中に、声をかけるべきか逡巡する。


「あの…何か御用でしょうか?」


 結局、俺は声をかけていた。放っておくわけにはいかない、という妙な義務感と、早く正体を知りたいという焦りが混ざった感情からだった。


 男はゆっくりと振り返った。年の頃は三十代半ばから後半だろうか。日に焼けてはいるが、都会的な雰囲気も残している。そして何より、その目が印象的だった。全てを見透かすような、鋭い観察眼。


「ああ、どうも。役場の方ですか? 少し、この島の開発計画に興味がありましてね」


 男はにこやかに笑ったが、その目は笑っていない。


「フリーでジャーナリストをしている、佐伯と申します」


 佐伯、と名乗った男は、名刺を差し出してきた。そこには「佐伯 悟」と名前が印刷されているだけで、所属などは書かれていない。


「か、観光課の、相葉です」


 名刺を受け取りながら、吃音が漏れた。しまった、と思う。この男の前で、動揺を見せるべきではなかった。


「相葉さん。ちょうどよかった。少し、お話を伺えませんか? この計画について、島民の方々の生の声を知りたいと思いましてね」


 佐伯の口調は丁寧だが、有無を言わせぬ響きがあった。断る理由も見当たらない。俺は彼を応接スペースへと案内した。古い長椅子とテーブルが置かれただけの簡素な部屋だ。壁の時計が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。


「素晴らしい島ですね、汐凪島は」佐伯は椅子に腰かけるなり言った。「豊かな自然と、昔ながらの文化が息づいている。今回の開発が、その魅力を損なわないか、少し心配でもあります」


 当たり障りのない導入。だが、彼の視線は俺の反応を探っている。


「ええ、まあ…その点は、我々も十分に配慮しているつもりですが…」


 俺は当たり障りのない答えを返す。早くこの場を終わらせたい。


「なるほど。ところで、この島には潮見さんという方が多くいらっしゃるようですが、何か特別な家系なのですか?」


 不意に核心に近い質問が飛んできた。俺は息を飲んだ。


「さ、さあ…昔からの家が多いですから…」


「そうですか。実は私、以前、この島にいらっしゃった潮見シズさんという方と、少しご縁がありましてね」


 シズの名前。佐伯の口からその名が出た瞬間、応接スペースの空気が凍りついたように感じた。時計の音だけが、やけに大きく響く。


「シズさん…ええ、島の長老のような方でしたね。数年前に、不慮の事故で亡くなられましたが」


 できるだけ平静を装って答える。声が上ずらないように、細心の注意を払う。


「ええ、伺っています。残念な事故だったと」佐伯は相槌を打ったが、その目は俺の反応を注意深く観察していた。「確か、あの事故があったのは…五年前の夏でしたか?」


「…はい、そうです」


「奇しくも、相葉さんが本土から帰省されていた時期と重なりますね」


 その言葉は、単なる事実確認のようでありながら、鋭い刃のように俺の胸を抉った。この男は、偶然などではない。明確な意図を持って、あの事件を探りに来ているのだ。なぜ? 誰に頼まれた? それとも、彼自身の意志なのか?


「あの頃は、まだ学生で…夏休みで帰ってきていただけですから」


 声が震えそうになるのを、必死で抑える。


「そうですか。いやはや、貴重なお話、ありがとうございました」


 佐伯はそう言うと、にこやかに立ち上がった。嵐の前の静けさのような、不気味な笑顔だった。彼は何も掴んでいないはずだ。だが、その自信に満ちた態度が、俺の不安を掻き立てた。


 その日以来、佐伯は島のあちこちで目撃されるようになった。開発計画の担当者である田所に接触したり、港で漁師たちに話を聞いたり、あるいは、反対派のリーダー格である古老の家を訪ねたり。彼は巧みに話題を誘導し、島の人間関係や過去の出来事について、情報を集めているようだった。まるで、パズルのピースを一つ一つ拾い集めるように。


 そして、その矛先は、確実に俺と凪に向けられつつあった。


 ある晩、アパートに帰ると、凪がいつもと違う硬い表情で俺を待っていた。部屋の空気が張り詰めている。


「海斗くん。今日、あの本土の男と話したの?」


「…ああ、役場に来たから、少しだけ」


「何を話したの?」凪の声は低く、詰問するような響きを帯びていた。「あの男、シズ様のことを聞いて回ってるって。私たちのことも、何か…」


「別に、何も話してない。ただの開発計画の話だ」


 俺は凪の視線から逃れるように、台所へ向かった。一瞬、言葉が喉に詰まったが、なんとか押し出した。


「海斗くん」凪が追いかけてきて、俺の腕を掴んだ。その指は冷たく、力がこもっていた。「あの男は、私たちの邪魔をしに来たのよ。絶対に、関わっちゃだめ。分かってる?」


 その声には、懇願と、そして命令に近い響きが混じっていた。俺は黙って頷くことしかできない。この檻の中で、俺は凪に逆らうことができないのだ。彼女の平穏を守ることが、俺の罪であり、義務なのだから。


 数日後、佐伯は島の中心部にある宮内ミサキの実家の商店を訪れた。古びたガラス戸の向こうで、ミサキが雑誌を読みながら店番をしている。店の前を通りかかった海斗の姿を、ミサキが一瞬だけ目で追ったことに、佐伯は気づかなかった。


「ちょっと、いいかな」佐伯は缶コーヒーを買いながら、ミサキに話しかけた。「君、潮見凪さんと同級生だったよね?」


 ミサキは一瞬、訝しげな表情をしたが、すぐに無表情に戻った。どこか投げやりな、諦めたような空気。


「…ええ、まあ」


「彼女のこと、少し聞きたいんだけど。それと、相葉海斗くんのことも」


 ミサキはしばらく黙っていたが、やがてため息交じりに口を開いた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。


「あの二人、昔からちょっと特別だったから。海斗くん、いつも凪ちゃんのこと気にかけてたし。…そういえば、海斗くん、昔、古いカメラ、いつも持ち歩いてたわね」


「カメラ?」佐伯の目が光った。


「ええ、なんかおじいさんの形見とか言って。島の風景とか、凪ちゃんのこととか、よく撮ってた。シズのおばあさんも、あのカメラのこと、気にしてたみたいだったけど…なんでかは知らないわ」


 ミサキの何気ない一言。それが、佐伯にとって重要なパズルのピースとなったことを、この時の俺はまだ知らなかった。


 佐伯という静かなる来訪者の出現によって、俺と凪が五年間、細心の注意を払って守り続けてきた虚ろな平穏に、確かな亀裂が入り始めていた。そして、その亀裂から、封印したはずの過去が、生々しい姿で這い出してこようとしていた。


 押し入れの奥で眠る、あのフィルムカメラの存在が、再び重く俺の意識にのしかかってきた。あれは、単なる形見ではない。あの夏の真実と、俺たちの罪を写し込んだ(あるいは、写さなかった)証人なのだ。その冷たい金属の感触が、指先に蘇るようだった。

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