変わりゆく島、変わらない檻
汐凪島の役場は、港を見下ろす小高い丘の上にある。古びた二階建ての建物で、潮風に晒された壁にはうっすらと錆が浮いていた。俺の所属する観光課は、島の将来を左右するリゾート開発計画の担当部署であり、最近は特に慌ただしかった。
「相葉くん、この前の説明会の議事録、まとまったかね?」
上司の田辺課長が、分厚いファイルを手にしたまま声をかけてきた。
「は、はい。今、最終確認を…」
言葉が少しだけ詰まる。普段の業務ではほとんど意識しなくなった吃音だが、ストレスがかかると、こうして不意に顔を出すことがあった。特に、開発計画のように、島民の意見が真っ二つに割れるような案件に関わっていると、精神的な負荷は大きい。
先日の説明会は荒れた。本土の建設コンサルタント会社「八潮開発」の担当者、田所という男が提示した計画は、島の自然の一部を犠牲にするものだったからだ。経済的な恩恵を期待する賛成派と、島の景観や静かな暮らしを守りたい反対派。怒号が飛び交い、収集がつかなくなる寸前だった。俺は、その間でただ曖昧な笑顔を浮かべ、資料を配ることしかできなかった。
「ふぅ、難儀なこった。どっちの言い分も分かるんだがなぁ」田辺課長はため息をついた。「とにかく、あんまり根を詰めすぎるなよ。相葉くん、最近顔色が悪いぞ」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
役場の窓から見える海は、今日も変わらず青く広がっている。だが、港には工事用の重機が並び、防波堤の一部が真新しくなっている。島の風景は確実に変わりつつあった。この変化は、島にとって吉と出るのか、凶と出るのか。そして、俺たちの「秘密」にとって、それはどんな影響をもたらすのだろうか。
仕事を終え、役場を出る。夕暮れの空気が、火照った頬に心地よかった。まっすぐアパートには帰らず、俺は少し遠回りをして、島の南側にある海岸線を歩くことにした。ここは開発計画の影響を受けない、昔ながらの風景が残っている場所だ。
白い砂浜、浸食された奇岩、そして打ち寄せる波の音だけが響く。五年前、凪や、そしてユイと三人でサイダーを飲んだのも、この近くの防波堤だったか。あの頃の、無邪気で、何も知らなかった夏の記憶が、不意に蘇る。胸の奥が微かに痛み、喉が詰まるような感覚。ユイの屈託のない笑顔、弾けるサイダーの泡…。眩しくて、目を細める。あの夏は、もう二度と戻らない。遠くから、港の工事の音が微かに風に乗って聞こえてくる。それが、現実だ。
ふと、海に向かって大きく息を吸い込む。潮の香りと、微かな磯の匂い。ここに来ると、ほんの束の間だけ、あの息苦しい檻から解放されるような気がした。吃音を気にすることも、凪の視線を意識することもない、自由な感覚。だが、それも長くは続かない。陽が落ちれば、俺はまたあの部屋へ、凪の待つ檻へと帰らなければならないのだ。
アパートに戻ると、凪が夕食の準備をして待っていた。テーブルには、島の魚を使った煮付けと、ひじきの煮物、味噌汁が並んでいる。
「おかえり、海斗くん。疲れたでしょ? 今日は遅かったね。誰かと一緒だったの?」
何気ない口調だが、その問いには、俺の行動を探る響きが確かにあった。
「ああ、ただいま。いや、少し残業で」
嘘をついた。海岸で時間を潰していただけだ。
「そう。無理しないでね」凪はそれ以上追求せず、穏やかに微笑んだ。「さ、食べよ」
二人で食卓を囲む。凪は、今日図書館であった出来事などを、穏やかな口調で話してくれた。最近借りられていった本の種類、新しく入った絵本のこと。その声は優しく、日常の些細な出来事を語る彼女の姿は、どこからどう見ても普通の若い女性だ。
「そういえばね、海斗くん」凪がふと思い出したように言った。「昔、海斗くんが夏休みに来てた時、よく灯台まで競争したよね。海斗くん、いつも私に勝たせてくれた」
そう言って、凪は悪戯っぽく笑った。俺は曖昧に頷きながら、味噌汁をすする。凪の語る「昔話」は、時々こうして、都合よく美化されていることがある。俺が競争で手を抜いたのは、彼女の心臓に負担をかけないためだった。それを、彼女は「優しさ」として記憶している。あるいは、そう記憶したいのかもしれない。俺たちの関係は、そんな小さな歪みの積み重ねで成り立っている。
食事が終わり、後片付けをする俺の背中に、凪が問いかける。
「ねぇ、海斗くん。今日、役場に変わった人、来なかった?」
「…変わった人?」
「うん。なんか、本土から来た人みたいだけど。色々と嗅ぎ回ってるって、図書館に来たおばあさんが言ってた」
凪の言葉に、俺の心臓が微かに跳ねた。まさか。
「さあ…別に、いなかったと思うけど」
また嘘をついた。昼間、田辺課長と話している時に、見慣れない男が役場のロビーをうろついていたのを覚えている。鋭い目つきをした、四十前後の男。観光客にしては、どこか場違いな雰囲気だった。凪に話すべきか一瞬迷ったが、彼女を余計に不安にさせたくなかった。…いや、違う。彼女の過剰な反応が怖いのだ。
「ふーん、そっか。ならいいんだけど」
凪はそれ以上何も言わなかったが、その声には、どこか探るような響きがあった。彼女は、俺たちの「聖域」を脅かす可能性のあるもの全てに、敏感なのだ。
その夜、俺は久しぶりに、あの夏の夢を見た。岬の断崖。松明の炎。狂気に満ちた島民たちの顔。そして、俺の手によって闇へと消えていった、シズの最後の表情。飛び起きた時、全身は汗でぐっしょりと濡れていた。隣で眠る凪の寝息だけが、時計の秒針の音と共に、静かに部屋に響いていた。