プロローグ
潮騒の音は、五年前と変わらない。寄せては返す、単調なリズム。だが、あの夏から俺の世界に流れ込んできたものは、決して洗い流されることはなかった。それは澱のように心の底に溜まり、凪いだ水面の下で静かに腐臭を放っている。
相葉海斗、二十二歳。俺は今、汐凪島で生きている。東京の喧騒も、学生という猶予期間も、もう遠い。島の小さな役場に勤め、海を眺める高台のアパートで、潮見凪と共に暮らしている。傍目には、穏やかな島の青年と、病弱だった過去を乗り越え静かに暮らす女性、そんな風に見えているのかもしれない。そう見えるように、俺たちは努めてきた。
だが、それは巧妙に作り上げられた虚像だ。俺と凪の間には、あの夏の日に交わされた、血と秘密の契約がある。共犯という名の、見えない檻。互いが互いの監視者であり、看守。この歪んだ共生だけが、俺たちをこの島に繋ぎ止めている。
窓の外から、断続的に金属的な打刻音が響いてくる。港の方で行われている改修工事の音だ。不規則で、時折、甲高く神経を逆撫でする。島にリゾート施設を誘致するという計画が持ち上がり、島は今、期待と不安の狭間で揺れている。役場の観光課に所属する俺は、その渦中にいる。説明会、測量、本土の業者との打ち合わせ。忙しなく動き回る日々は、過去を振り返る暇を与えないようでいて、その実、変化を告げる槌音が、封印したはずの記憶の扉を執拗に叩く。時折、あの工事の音が、遠いサイレンのように聞こえることがある。罪を告発するサイレンか、あるいは、逃れられない過去からの呼び声か。
「海斗くん、どうかしたの? ぼうっとして」
背後から、凪の声がした。振り向くと、彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。色素の薄い髪、大きな瞳。五年前の儚さはいくらか薄れ、今は穏やかな落ち着きが漂っている。心臓の病状も安定し、島の小さな図書館で手伝いをしている。
「…いや、なんでもない。少し、考え事」
「仕事のこと? 無理しないでね。海斗くんがいなくなったら、私…」
凪は、そっと俺の腕に触れる。その仕草は自然で、頼りなげに見える。だが、その指先に込められた、微かな、しかし確かな所有の意志を、俺は感じ取ってしまう。彼女にとって、俺は世界の全てであり、絶対に手放してはならないものなのだ。その重さが、時折、鉛のように俺の肩にのしかかる。
凪と二人でいるこの部屋の空気は、凪いでいるようでいて、どこか澱んでいる。窓を閉め切っているわけでもないのに、いつも微かに湿ったような匂いがする気がする。俺たちは、決して触れてはならない過去の傷口を互いに庇い合いながら、虚ろな平穏を守っている。だが、その平穏が、いつまで続くのだろうか。
押し入れの奥深く、古い布に包まれて眠っている、あのフィルムカメラの冷たい感触を、俺は思い出していた。シャッターを切る代わりに、俺が選んだあの夏の結末。フィルムは現像されることなく、暗闇の中で静かに時を刻んでいる。それと同じように、俺たちの時間も、あの夏から本当は少しも動いていないのかもしれない。
『夏凪フィルムと初恋サイダー』の続編です。