第六話 棟梁の後継者
場内に潜ませた小悪鬼が祓われたと知った義仲は焦燥し、ついに総攻撃を仕掛ける。しかし背後に義家の軍勢が潜んでおり、背後の警戒を余儀なくされる。
結界を失くした鬼門城内は乱戦となり、歳綱副将軍は鬼の童子と一騎打ちをし、叶麻呂大将軍は、翁面の青龍を顕現し鬼を一網打尽にする。
戦後、鬼門城では叶麻呂大将軍が没し、東国情勢は新たな局面へ入る。諸将は談義の末、流罪となった清和義朝の嫡男・朝頼を棟梁として擁立する構想を打ち立てる。
義仲は焦っていた。童子によれば、鬼門城に入りこんだ小悪鬼が祓われたのだという。その死に際には、神の力にも似た強い光明力を感じたらしい。
義仲が思いうかべたのは、かの老人の存在みであった。もはや思うように体を動かすことすらできなくなった老人が、祈祷をし神の力を借りれば、強大な力を持つ鬼をも祓う存在に化けるのである。悪意の権化である鬼の存在を嗅ぎわけるには、悪意を理解しながらも、それに染まらない芯の強さがなくてはならない。ただでさえ、今は戦の最中である。鬼門城を破る矛である北斗七星の効果も相まれば、城内には、外から注がれた悪意が満ちていることは容易に想像がつく。それを退け、鬼の存在を嗅ぎわけるというのは、叶麻呂大将軍という男が仲間を信頼し、魔の者を憎む善の化身であるからということがよく分かった。
義仲は腹心の光雪を本陣へ呼びだし、命令を下した。
「鬼には頼れぬ。攻めろ」
その命令に、光雪は「諾」と言わなかった。
「北の藤咲氏どもが、南下してきています。今攻めれば、背を襲われます」
「鬼共々、鬼門城を攻めるのだ。陥しさえすれば、藤咲どもなど敵ではない」
「さりながら……」
「諾と言え! 背後に潜む義家に恐れることもなかろう。ここで諾と言わねば、そなたを斬りふせる!」
鬼気迫る脅しに、光雪は「諾」と言った。
義仲、童子らは手勢を率いて鬼門城の前へ姿を現し、攻撃を開始した。
鬼門城は弓で迎撃した。鬼の大群が鬼門城へと侵入するのは、築城されて以来、初のことであった。
だがしかし、昨晩の内に、鬼が一匹忍びこんでいた事実は叶麻呂大将軍によって周知のこもとなっていた。それはつまり、もはやこの城に結界は存在しないことを、全員が承知したことを意味していた。
城内に混乱はなく、裏切りや逃亡の気配もない。ただあるのは結束と、朝廷のために戦うという強い志であった。
数百の武士が城内で刀や薙刀、槍を振るって鬼を殺していた。ある者は鬼に心臓を突きさされ、首をもがれる。またある者は鬼の背を辻斬りにし、別の鬼に兜ごと頭をかち割られる。
猛者たちは強靭な肉体を持つ鬼に、類まれなる精神と鍛錬された武芸で争い、一進一退の攻防を演じるに至った。
巨勢載足は体に傷を負ってもなお、城内で指揮を執りながら、自らも太刀を奮って戦った。彼は乗馬しながらの戦いが得意であったが、不本意ながら出世し、今や刀を振るうことはなくなっていた。しかし日々の鍛錬は忘れず、流鏑馬や袈裟懸けのみならず、剣の腕も磨きつづけていた。
彼は鬼を十五匹も斬り、祓っていた。しかし鬼の剛腕で足を砕かれ、家来に助けられるがままに後方へ下がった。退きながらも彼は闘志を失わず、何度も「戦え! 戦え!」と叫びつづけていた。
退いた彼は、叶麻呂大宮司や歳綱少宮司が控える、隠された部屋に入った。祈祷により、神々の御加護を求めていた。
巨勢載足は甲武吉國ほどではないにしろ、貴族的な祀には懐疑的であった。太古の昔に於いて、朝廷の勢力拡大に際して殺した敵の神や、それを祀る人々の霊魂を鎮めるという意味では、必要なものだと信じてはいた。しかし戦の最中に於いて、城の主と城代が奥に篭っているというのは、倒せる敵も倒せなくなる悪手であるように感じていた。
そんな載足の心中を察してか、歳綱副将軍は説明をした。
「そこに神にも等しい力があると信じる者は、死をも恐れずに戦うことができよう。我々の祈祷の力のお陰で敵が退けられたと思わせられたならば、我々は戦の勝利の価値を、更に高めることができる」
歳綱副将軍は祭壇へ一礼し、甲冑に着替えた。そして指揮を執るべく乱戦の最中へと入っていった。
「もうひと踏んばりじゃ! 援軍は近い! 耐えよ!」
その声は城内の味方を大いに鼓舞した。歳綱副将軍は自ら薙刀を振るい、味方を鼓舞しつづけた。
火が着き、荒れる城を義仲は山中から見ていた。本当ならば自ら突撃し、敵を斬りころしたいという思いがあったが、本陣を動くことができない理由があった。
「金刺様より早馬にござりまする!」
側仕えが東側から走る馬を見つけ、叫んだ。
「伝達にござりする!」
「見つけたか!」
「いいえ、金刺隊にて数日前より山中に潜んでいた義家方を捜索中にござりまするが、未だ発見ならず!」
「風のように消えたと申すか! 探せい!」
義仲は、背後の山中に潜んでいるはずの河内八幡太夫義家の軍勢が、見つけられずにいた。戦上手な義家ともあれば、それがいかなる奇策であるか読めず、鬼の背後を攻められては困るため、軍勢を動かすことができなかった。
「見えない敵のため、手勢の大半を進められぬとは……!」
そのまま日が暮れだし、義仲は、完全に義家の手玉に取られているような気分であった。
このとき、義家は完全に下山しており、城の東側まで後退していた。義家は深夜の内に、叶麻呂大将軍より送られた密命に従い、戦が佳境の時を迎えるまで、静かに息を潜めていた。
叶麻呂の秘策など知る由もない義仲は、叶麻呂の腹の中を探ろうとするも、八方塞がりであり、どうしようもなかった。
黄昏時、叶麻呂の腹の中がついに理解できた。城内で翁おきなの面を付けた青龍が大暴し、鬼を次々と祓っていた。
「あの光明力の強さ、神々に守られた人を傷つけず、魔の者のみを祓うのであろう。鬼の大半を鬼門城という檻に閉じこめたのならば……一網打尽というわけか」
敵ながら天晴れであると思った。乾いた笑いさえ出てきたが、日が暮れる前には、さすがの義仲であっても恐怖を感じるほどにまで追いつめられていた。背後より、多くの魑魅魍魎が現れ、義仲の軍勢を襲いだしたのである。
義仲は逃げる他なかった。人は荒御魂の神々には勝てない。どんな強者であっても、所詮は神々に生かされているに過ぎないのだ。
義仲に見捨てられた城内の鬼どもは、残り数十匹という数にまで減らされていた。童子は全身を人の返り血で染めながら、高笑いをしていた。囲まれていてもなお、人を殺す快楽に心が満ちており、自らが祓われる恐怖など微塵も感じていなかった。
追いつめた武士どもも、疲労と鬼が見せる狂気とも言える高笑に、戦意を消失していた。しかし歳綱だけは刀を鞘から抜きとり、童子の許へと近づいた。
「童子よ、今宵が最初で最後の機会。手あわせ願う」
「御託はいい。鬼を城に閉じこめ、神の力で皆殺しとは、ちょこざいな。さすがは人間、卑劣だ」
「そなたほどの剛腕の者と戦えるならば、卑劣という誹りも些事にすぎぬ」
「その心意気、猛者のものだ。鬼に横道はない。正々堂々と戦おうではないか」
童子は鬼どもの中から一匹、前へ進んだ。
誰も手出しをしようという気配はなかった。先に動き、隙を見せた方が死ぬというのが、その場にいた誰もが直感的に理解していた。
先に動いたのは童子であった。童子は大人三人分の大きさの腕で、金棒を振りおろした。風が切れる音がし、瞬きの間に床を叩きわった。しかしそこに歳綱はいなかった。歳綱は童子の間あいに飛びいり、床すれすれの体勢から居直り、腕の健を斬った。そして瞬く間に飛躍し、童子の丸太のような太首を刎ねた。
鬼らは蜘蛛の子が飛びちるように動きだした。童子の死など関係なかった。緊張感が抜けた腑抜けの武士どもを殺したくてうずうずしていたのだ。
鬼は武士どもとの死闘の果てに、数の差で祓われた。
義仲らは無念の撤退を行っていた。魑魅魍魎はその背を追わなかったが、追跡の魔の手は迫っていた。再び姿を現した、義家の軍勢である。
戦を今か今かと待ちのぞんでいた義家の武士どもは血気盛んに突撃し、疲れを知らない駿馬が、ジリジリと迫っていた。
義仲は背を討たれるのは武士の名折れだと思い、光雪に今生の別れを告げ、殿を務めさせた。
光雪は山中に布陣し、谷や川を天然の要害としていた。それを悟った義家は行軍を停止し、大音声で叫んだ。
「何故逃げられるか、鬼頭の鬼武者どもよ」
「此度の戦に敗れた故にござる。さりとて逃げるは恥と思い、ここで殿を務め、死を賜りたく。ここで武辺者と名高き蠱毒と相まみえるなんぞ、重畳至極なり」
「殊勝な心掛け、この義家、痛みいった。なればここで一騎打ちをし、武辺者として雌雄を決しようではないか」
「腹蔵なく申しあげる。一騎打ちは武士の誉れなれども、かような誉れでは飯は食えぬ。我らは生きるため、山楼に篭もりて鍛錬を重ねる田舎武者なり。ここで某が下山することもなければ、御辺が頂上へ辿りつくこともない。我が主、鬼頭義仲が山楼へ帰着する時を稼ぐべく、ここで大いに暴れて御覧に入れようぞ」
「相分かった。さすればこの義家、八幡の名において神仏の加護でそなたら鬼武者を祓う。そして、蠱毒の名において、清和の御門葉に仇なす毒を誅し、末代まで呪い奉らん」
義家の軍勢は山を登り、攻めた。
鬼門城に於ける戦と同じく、この野戦もまた激戦となった。多くの武士が死んだ。山は義家によって陥落するも、時間稼ぎという御役目を果たした金刺光雪は主の後を追って、山中へ逃れた。
鬼門城へ戻った義家は、そこで死屍累々とした城内の有様に「南無八幡大菩薩」と唱えることしかできなかった。だが、坂上叶麻呂大将軍の葬儀に於いては、激しい嗚咽で、何の言葉も出てこなかった。清和義朝同様に東国の要であった大人物を失い、心から哀悼の意を表するばかりであった。
「歳綱副将軍、これよりいかが致すのか。鬼門城の結界は破れ、いつ北から敵が雪崩こみましょうや」
「敗れた結界は北のみである。これは此度の戦にて、敵の攻めいりし方角が北であったことより、其は明らか。鬼は既に亡く、我らが敵は、今や緑奥藤咲氏のみである。これ、討ち果たすべきと存ずるが、その時期は何時に致すべきか。和主の意見を聞かせてはくれまいか」
「恐れながら申しあげまする。事を構えるは時期尚早につき、今しばらくお待ちくださりますよう。少なくとも、東の逆賊を討ちはたし、武士並びに軍馬に休息を与えて、来年の春の収穫を済ませたのちに、出陣なさるべしと心得まする」
「某も、そう思う。此度は緑奥藤咲氏の面々も御味方として戦に加わってくれ申したが、彼奴らとてこちらを討ちたかろう。春を待たずして、雪中に南下し攻めてくるのではないか」
「さりとてこちらは今すぐに北上とは参りませぬ」
「難儀よのう……。彼奴らとて、我らと同じく一枚岩ではなかろう。つけ入る隙を探すまでぞ」
義家は北の憂いと、城の片付けの一切を歳綱へ任せ、自身は歳綱の命に従って東へと赴いた。
数日かけての行軍であったが、落伍者が出ないよう、急がずに進んだ。その判断には、東で小鷹城を攻める多治比濱鳴から届いた書状に記してあった、偽計の成功が関わっていた。どうやら多治比濱鳴は西へ使者を遣わせる振りをして、大軍を維持するための米を送るように記した書簡を、敢えて大庭景虎方の斥候に掴ませたようである。その信憑性を高めるべく、武士に服装を変えさせては、入れかわり立ちかわり何度も各地の陣に入れさせる等の細工も施したらしい。
大庭景虎は、生粋の戦好きであったがために、そのような偽計を見ぬけなかった。正々堂々、坂東武者らしさを矜持とした男に、騙しあいを矜持とする貴族の戦は分が悪かったのである。
義家が到着したとき、戦線は膠着していた。
「良くぞ景虎を相手に、ここまで持ちこたえなさりました」
「大将軍の恩顧に報いるは、吝かではない。殿が友とした義朝様のためとあれば、それも同じこと」
「我が方の軍勢と合わせれば、総勢九百。小鷹城に残るは二百。無論、増援の見こみもなくば、緑奥藤咲氏も御味方とはなり得ませぬ。一気呵成に攻めたてれば勝てまするが、こちらの兵馬は疲れはててござりまする。加えて、この東国の内乱、発端は棟梁がなきこととなれば……」
「つまり……如何なさる」
「小鷹城に籠る手勢を打ちくだくより、御味方とすべきと心得まする。誰が棟梁たるか談義致し、和議を結ぶのでござりまする」
「緑奥藤咲氏が北に居る内は、御味方を増やすべきにござりまするな。大庭景虎めが、かかる暴挙に及びたるは坂東武者の信義のため。互いに疲れはてた今、談義致すべきとときであると、我もそう心得まする」
翌日の明朝、伝令は白旗を掲げて城の前に向かった。
「河内義家並びに多治比濱鳴より、和議の申し出これあり。談義の用意は致し申し候。この儀受ける思しめしあらば、構えてお待ち申し上げ候!」
昼になるころには、野営の陣の中で両軍の頭は着座していた。
義家は景虎と面を合わせ、少々不快な気分であった。当然ながら両者の中には敵意があり、景虎は常に義家を睨みつけていた。
「久しいな。睨むのをやめてはもらえぬか。かように睨まれては酒も美味くない」
「此は宴にござらん」
「実にも。少々痩せたか」
「御辺こそ痩せよった。今ならばその首、易易とへし折ってくれようぞ」
話しあいという場所でありながら、いつ誰が斬りかかるか分からない不穏な気配が、漂っていた。
この悪い流れを打破したのは、濱鳴であった。
「この期に及んでのいがみ合いの由、鎮守府の武人である某には預かり知らぬこと。よって腹蔵なく申し上げなん。我らが今敵とするは、北の藤咲氏、西南の、篁清季なり。相違ないか」
答えたのは景虎の隣に座る鎌村幸良であった。
「相違ござらん」
「しからば次代の棟梁は空位としたまま、手を取りあいとうござりまするが、如何か」
「断る」
「は?」
「断ると申し上げ候」
「何故か」
「棟梁なくば纏まらぬ。簡単な道理にござ候えば、ここに御座す大庭愛宕権現景虎殿を我らが君と心得ることのみ、唯一の手を取りあう手建てにござ候」
幸良はあくまで、景虎が棟梁の位に就くことに拘っていた。景虎も幸良という金蔵とも呼べる存在があって初めて、ここまで強気な態度を取れることは、誰の目にも明らかであった。
「憚りながらお聞きいたす。何故、そこまでして景虎殿に拘られるのか。家格は河内家よりも本筋の清和氏から遠い。つまりは格下。個人の武力は互角なれども、手勢の数は少ない。石高も少ない。ご人徳までも、義家様に劣るとお見うけいたす」
「されば、慮外ながらお答えいたす。河内八幡太夫義家殿は、今挙げられたすべてに於いて、清和義朝君の格下。言わば二番煎じにござ候わずや?」
義家は格下の武士である幸良の物言いに、不快感を覚えた。気づけば眉間に皺を寄せ、自分を見る景虎と同じ目で、幸良を凝視してしまっていた。
「ご不興かな」
義家は幸良に問われ、眉間の皺を右手でほぐし、「寝不足にござる」とうそぶいた。
「他方、我が君大庭愛宕権現景虎様は低い家格に候いながら、其の身一つで義朝君に付きしたがい、戦功を挙げられて候。しかして、今や棟梁の候補となりて候。すなわち、我が君には比類なきお志、これあり。義朝君と景虎君にあり、そして義家殿になきは、この一点のござ候」
義家は難儀した。景虎を棟梁にすべきか、戦を再開するか。簡単に決めかねる二択であった。いっそ幸良を殺せば簡単になるか、という考えも浮かんだ。
「幸良に問い候。折衷案として、強きお志をお持ちの御方を戴き申すはいかが候や」
「其は誰ぞ」
「まずは、その儀が罷りなるか否かをお答え頂き候」
「事の次第では罷りなるものと存じ奉る」
「桃紅城に御座す亡き義朝様のご嫡男、朝頼様にござ候。朝頼様は今、篁氏の分家、篁条家の監視下に置かれながらも、清和氏の再興を願いながらしたたかに生きておいでにござりまする。此の御方をお救いいたし御殿として担ぎ奉ることこそ、肝心要と心得申し候。棟梁となるべきは分家にあらざれば、枯れゆくだけの家来でもなきもの。家来はよく一致団結すべしと、某はそう心得まする」
今や敵となった西南の篁家の支配下に置かれた朝頼こそ、真の後継者である。その意見は、幸良の心にも深く響いた。逡巡する幸良へ、義家は続けざまにけしかけた。
「篁家は京にて更に権勢を高めつつあり、貴族どもの不満も積もりに積もっているとか。篁家打倒の綸旨が下るときあらば、反撃の旗印とおなりあそばすは、朝頼様を於いて、他におりますまい」
その言葉を聞いた濱鳴は「然もありなん」と言って、後押しした。
「その狼煙が上がり候えば、某を朝頼君の近侍とすることを約束なされ。某、義朝君の代には御役目を頂けず、蓄財と鎌村荘の拡張に勤しみまいり申した。それもすべて、いつか現れたる君にお仕え奉りしとき、誰も持ちえぬ真の忠義心を果たす腹であったが故にござりまする」
「真の忠義心とはいかようなものにござるか」
「武士を朝廷や貴族の下働きから、あるべき地位に登らしむことにござる。そのためならば、この幸良。義朝君を見捨てた逆賊たる篁清季はおろか、宮中にてふんぞり返るだけのやんごとなきお歴々にも、弓を引く覚悟にござる……!」
それは当に、志と呼べるものであった。それを叶えるに足る器を探していたのであるということは、その場にいた誰もが理解した。その器と目された景虎は立ちたがり、紙と墨を運ばせた。
「ここに、大庭勢と鎮守府並びに河内勢の和議がなった。我らは即刻、小鷹城を明けわたす。しかして東国を統べて憂いを除き、主をお救いするそのときまで雌伏の時と致そう」
皇紀一八二二年
早春、寒さが少しづつ和らぎ出したころ。
桃紅城にて篁条家に監視される生活を送る朝頼は、労役や篁家の来歴についての教育を強制されていた。そのすべてが、自らの武士としての威厳や、御家の名誉を否定するために行われたのである。
朝頼は十八歳となり、童から男へと変わろうとしていた。そんな彼にとって、桃紅城の城下に住む童や女人から笑われることは、激しい恥辱であった。篁家は父を朝敵とした鳳凰院の手先であり、その篁家と先祖を同じくする篁条家を「殿様」と呼び慕う民たちは、朝頼にとってもはや害虫よりも嫌悪する存在であった。
「いつしか……この恨み必ず晴らしてくれるわ……!」
朝頼は面従腹背の姿勢を貫いていた。表向きは牙をもがれたような態度を取りながらも、生きているあいだに篁氏を滅ぼしてやろうという強い野心を抱くようになっていた。
「そろそろ桜の季節にござりますな、朝頼公。東国は未だ肌寒きことと存じまする」
妙に丁重な言葉遣いを行うのは、朝頼の監視を請け負う桃紅城城主にして近畿の篁条国目代の篁条時勝である。彼は武士としての矜恃を持っており、名門武士の御曹司である朝頼に対する個人的な敬意から、そのような言葉遣いとなっていた。しかし武士の矜恃を持つということはつまり、朝廷への忠誠心を持つということであった。
「労役を終えたのちは、勉学に励んでいただきまする」
「気高き篁氏の来歴についてさらに学べること、恐悦至極にござりまする。篁氏は皇室より臣籍降下なされたことに端を発する名家でありながら、今や畿内や近畿に篁条家を初めとしたその分家をも基盤を築き、皇室や朝廷に最も近いやんごとなき御一族であらせられます」
「左様、秋津洲一兵にござりまする。篁氏宗家の当主、篁清季殿の御一家やその家来衆の一門は、篁家という呼称を用いられまする。これすなわち、すべての篁家の頂点、篁氏の中の篁氏を意味するものにござりまする」
「篁清季中納言は、天下一の武士にござりまする。其は誰もが知るところ。某も、中納言殿のような武士に……あいや失礼仕った。某は朝敵の子にして鬼の子の兄。身に余る夢にござりましょう」
「声を大にして語ることは憚られまするが、朝頼公は精強なる東国武者の棟梁のご嫡男。義朝公は朝敵と相成り申したが、さりとて英雄の御子にござりまする。どうぞ、ご尊厳を失われますな」
「ありがたき幸せにござりまする……!」
朝頼は目に涙を浮かべながら、ひれ伏した。その涙は演技のつもりであったが、そこには父の尊厳を傷つけない武士がいたことに対する、感動も僅かながら含まれていた。自分のことなどどうでもよかった。これまでに受けた恥辱を恥辱と思うのは、偉大なる父の尊厳を踏みにじられてもなお、何もやり返せない自分の不甲斐なさを思いしらされたからである。苦しみのすべては、父が誤解され傷つけられていることへの怒り、その無念を晴らせないことに集約されていた。
時勝がここまで朝頼に目をかけるのは、義朝への敬意だけが理由ではなかった。
「雅子の和歌はいつ詠んでも雅なるものだな。この恋の歌の御相手……真、運命とは残酷なり」
時勝はこの桃紅城を含む篁条を預かる目代である。目代は京に残る本来の領収である国司に代わり、実際に現地の統治を行う者のことである。篁条家は篁家から分家した際に、この篁条の地から名前を取った。篁清季の祖父である正盛の時代から篁条国の目代を担うようになり、時勝は父から世襲し、その御役目を担っていた。
有能且つ信用の於ける者でしか成りたたないこの目代という御役目を担うことを、時勝は誉れであると考えていた。そしてついに、朝敵の御曹司の監視役という任を与えられ、当初は勇みたったものだった。だがしかし、蓋を開けてみれば、ぞんざいに扱えば娘が拗ね、手を抜けば家来衆より諫言を受ける。今となっては、思いの外疲れる御役目だと感じるようになっていた。
「骨の折るることかな」
空を飛ぶ鷺が鳴いていた。気持ちとは裏腹に、空は晴れわたっていた。
「遅れてしまった非礼、お詫び申し上げ奉りまする」
「屋敷の中ならば、かように堅苦しく申さずとも良いぞ朝頼公。今日は某、勉学を施す気になれぬ」
「何故にござりまするか、時勝殿」
「理由は特にあり申さぬが……強いて申さば、良い天気ゆえかのう」
「意味が分かりませぬ」
「其は……当然至極よ」
時勝は苦笑いをした。武士とは言えども、彼もまた人の子。「娘がそなたに惚れておるからだ」などと言えば、娘の恋路は終わり、泣かせてしまう。進展するまで時の流れを待つしかない。これもまた戦であると思った。にわかに可笑しくなった。
「また笑うておられまするが……」
「まぁ良かろう。隣にお座りになって下され、朝頼公。日向ぼっこにお付きあい下さりませ」
東国の動乱が鎮まったという話は、すぐさま太安の京にも広まった。
篁清季はその話を耳にしたとき、まず初めに、存外に早かったと感じた。
「光延殿、今朝の朝議でも必ずやその話が議題に上がろうぞ。某の耳に入っておらぬ話も、伝わってくるであろう」
「すべて書きとめておきまする」
「頼むぞ」
清季このごろ、清和光延を側へ侍らせていた。彼は義朝の乱にて清季に寝返った、義朝の甥あった。表向きは清和氏を篁氏が手中に収めていることを示す、権謀術数の類であるとしたが、本意は他にあった。清季は手元にある義朝の忘れ形見を傍に置き、いつしか大計に用いる所存であった。しかしその大計については、光延当人もまた理解してはいなかった。
「光延よ」
「はい、中納言様」
「其許は、清和氏が朝敵となった砌、例え主たる義朝殿の弓で射殺されようとも、某に味方すべきと考えた。そうであるな」
「仰せのとおりにござりまする。某の謀反の折りも、左様にご説明申しあげましてござりまする。朝敵となった以上、清和氏は追討され申す。かようなことと相成れば、黄泉の国にて先祖に合わせる顔がござりませぬ。なれば、主に背くことになろうとも、清和の家を守るべく動きましてござりまする」
「義朝殿が藤咲の輩に漬けこまれたのち、某は、察した。武士の世を創りあげることに今よりもずっと難儀すると。武士の世とは、貴族や院政など、京中にはびこる金食い虫を討伐し、内裏様を戴き始まる世。のう、そうであろう?」
「某も左様に考えまする」
「なればこそ、義朝殿が謀反をした折り、某は加担して鳳凰院を討とうなどとは思わなんだ。あくまで、政は貴族のやり方を真似しなくてはならず、邪魔者を討伐して終わりというわけには参らん。のちに大きな禍根を残さぬよう……鳳凰院が薨去するまでは待たねばならぬ。よいか光延」
光延は両手を床につけ、「ははっ」とかしこまった返事をした。
「そなたには、死んで貰うぞ。時が来れば……某と同じく……死ぬ他ない」
清季は、意図を読めず困惑する光延へ微笑み、朝儀の場へ向かった。




