第三話 鬼の子
鳳凰院と帝を奪還されたことで、清和義朝は一転して朝敵となる。決戦では、篁重季討ち取るが、多勢に無勢。捕縛され斬首となる。
長子朝頼は流罪、幼子牛若は蔵馬山で監視生活となり自らが“鬼の子”であるという噂と向き合い始める。牛若の内に芽生えた異形の自覚は、静かに未来への火種となる。
暁が京を照らすころ、やわらかい春風が桜の香りを運んでくる。義朝は心地よいはずの朝に一人、してやられたという思いから自らを詰り、笑っていた。鳳凰院と帝が、篁家の手に渡ったのである。野菜を内裏宮へと届ける役人に扮した篁家の武士が、野菜の中に潜ませていた女用の衣を鳳凰院に羽織らせ、何食わぬ顔で内裏から出ていったというのである。そのとき帝もまた眠りこけたまま連れだされたというから、まんまと鳳凰院と帝を奪っていったその鮮やかすぎる手口と、なされるがままであった自分を、義朝は、笑う他なかった。
「朝敵となるは我らであったか……院宣と、鳳凰院によって偽造された勅が、今日中に下されようぞ」
「父上、かくなる上は腹を括りましょうぞ。勝てば内裏様を取りかえせまする。目の前で血が流るることと相なれば、さすがの内裏様とて、今度こそ検非違使や篁どもを朝敵とお認めあそばすでしょう」
「ともあれば、これは好都合か」
義朝は大音声で笑い、手勢を率いて六原へ向かうことを決めた。彼の許には、藤咲氏が治める地方荘園から集められた武士も加わり、総勢百五十名の軍勢が集まっていた。武士の棟梁である義朝の評判から、武士は彼を慕い、忠義を尽くすことを誓っていた。
「六原にて篁清季を討つ! 己ら! 某に続けい!」
百五十人の武士が南門近く、六原へと進んだ。 百五十人の武士が南門近く、六原へと進んだ。
篁清季はいつ襲撃があっても良いように、迎撃の構えを敷いていた。
「やはり現れよったか。この速さ、さすがは義朝殿だ。嘆かわしい。離れてしまったことが……真、嘆かわしい」
「父上、屋敷の中にお戻りください。鏑矢が飛んでまいります!」
「馬鹿者、逆賊討伐軍の長たる者、敵に
背を向けてはならぬわ」
「ならばここに居てくださりませ。この重季めが、相手を致します」
「良かろう、重季に弓を与えよ! 白色の駿馬も忘れるな!」
双方ともに、ここで相まみえることを望んでいた。
睨みあいののち、先に動いたのは義朝であった。軍勢の中からただ一人、栗毛に跨って進みいでた。黒を基調とした甲冑に、黄金の兜が輝いていた。
「音にこそ聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは東御曹司、東国武士団棟梁、清和兵部司義朝なり! 腕に自信がある者は進みいでよ。一騎打ちにて手あわせ願う!」
そう言うと義朝は弓を弾き、矢を放った。その矢はまっすぐ清季の横で翻る篁家の赤旗を射ぬいた。
これは相手を挑発しながら、自らが名ばかりの存在ではないことを知らしめるという、武士が戦の前に行う慣わしであった。
儀礼として、その挑発に応えることが、相手方の作法である。それを知る重季は、父の清季から弓を受けとり、白馬に跨って躍りいでた。
「やぁやぁ音にこそ聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは検非違使大尉、篁判官重季なり! 朝敵清和義朝を、内裏様の命により討伐いたす! 覚悟せい!」
重季は弓を引き、鏑矢を射た。その矢は義朝の栗毛の足元に刺さり、驚いた栗毛は暴れまわった。
義朝は手網を引きながら「どうどうどう」と呟き落ちつかせると、弓を悪来太郎に渡し、槍を受けとった。
重季もまた弓を弟の宗季へ渡し、槍を手にとった。
馬上での一騎打ちは、如何に相手の槍を恐れずに最後まで体を逸らさず、槍を向けつづけられるかという度胸勝負であった。
義朝は「はいや!」と叫び栗毛の腹を蹴り、駆けだした。それに続き、重季も「やぁ!」と叫び白馬の腹を蹴った。
両者は雄叫びを上げながら、接近した。猛者である義朝は兜の面から尖った眼光を光らせ、威圧しつづける。重季もまた武士としての名誉に賭け、この一撃で死ぬことを恐れずに槍を構えつづけた。
両者の槍は正面からぶつかり、すれ違いざまに両者は同時に落馬した。
先に立ちあがったのは義朝であった。鎧の重さなど知りつくしており、脚力は常日頃から鍛え上げていた。一方の重季は鎧の重さに耐えかねて、なんとか振りかえり、義朝が振りかぶった槍を受けとめるのが限界であった。何度も振りかぶる義朝の槍を抑えきれず、重季は体勢を崩し、背面から倒れこんだ。
義朝は次の瞬間、重季の槍を振りはらい、腰の刀を抜いて重季の首を一刀両断した。
義朝方の武士は沸きたった。「えいえいおう!」と勝鬨を上げる中、返り血を浴びて汚れた顔をそのままに、義朝は叫んだ。
「内裏様を拐った逆賊、篁清季を討ちとれい! 掛かれい!」
百三十の義朝方の武士は六波羅御殿へと乗りこみ、清季の命を奪おうと襲いかかった。しかし多勢に無勢であった。清季方の二百の武士は、御殿という高所から地の利を活かした矢の雨を降らせた。そうして時間を稼いでいるあいだに、別働隊として動いていた五十の検非違使が内裏宮を襲い、十名の義朝方の武士と藤咲頼秀を殺害した。そして六原へ戻り、六波羅御殿を襲う義朝方の背後を襲ったのである。
「父上! 背後から敵にございます!」
「斥候の光延はどうした!」
義朝は背面を奇襲されることを警戒し、甥の清和光延に十騎のみ率いらせ、周囲を走らせていた。しかし報せはないばかりか、光延の姿はなかった。
もしやと思い義朝が目を凝らして六原御殿を眺めたとき、彼はすべてを察した。
「多勢についたか、光延め。背後を取られては……どうしようもないわ!」
戦いの趨勢は決し、義朝は逃走を決意した。残った手勢を率いて南門から京を抜けだし、東を目指した。
清季は六波羅御殿にて鳳凰院や帝を御守りすることに成功したのち、厳命を下した。
「朝敵を必ずや捕らえよ! 清和義朝、義平親子を逃すでないぞ!」
京から逃れる義朝らを、検非違使は追いつづけた。検非違使は慣れた手つきで馬を駆り、徐々に距離を詰めてくる。義朝配下の武士は背面撃ちで矢を放ち、巧みに検非違使やその馬を射殺した。やはり武芸の差は顕著で、検非違使が放つ矢は常に前を狙いながら放てるというのに、なかなか当たらない。近づけば脱落し、また近づけば脱落する。
しかしやはり、多勢に無勢であった。
悪来太郎は義朝の横につき「殿をお任せあれ!」と叫んだ。義朝は目に涙を浮かべながら「御免!」と叫び、先を急いだ。
悪来太郎は数騎を引きつれて最後列へ下がり、そのまま踵を返して突撃した。
「我こそは悪来太郎義平なり! 死にたい者から出てまいれ!」
悪来太郎義平はすれ違いざまに三、四人を斬り殺し、槍が弾かれた後は体当たりしてまで検非違使を馬から叩きおとした。
「流石は古の怪力、悪来の名を冠する方じゃ!」
「悪来太郎殿に続けい!」
数騎が体当たりで敵を倒した。馬に蹴り殺される危険を犯しながらも、馬の脚を斬り、追撃の壁としての役割を果たした。
「道は狭い! 己ら! ここで皆殺しにするのだ!」
「御意!」
七、八名で三十名余りを殺した。しかし狭い道で壁として機動力を失えば、矢で射抜かれることは必定であった。矢を体に浴びながらも、力尽きるまで悪来太郎ら殿は、御役目を全うし、果てた。
悪来太郎らが稼いだ時間は、義朝らが行方を眩ませるには十分な時間であった。道を分け、山中に入って獣道を行き、果てには下馬して道なき道を歩いた。山伏や獣に出くわせば、威嚇し、退ける。まだまだ棟梁としての覇気を失ってはいなかった。義朝はまだ諦めてはいなかった。近畿を抜けて東国へたどり着けば、再起はできる。しかしながら、義朝の中には懸念があった。それは京に残した由良御前と朝頼、牛若の安否であった。
武士の女、武士の子であることを鑑みれば、身内の戦に伴って死ぬことになったのだとしてもなんら不条理ではない。そうして人を殺し、名も顔も知らぬ女子供や病人、老人でさえも不幸にして、勝ちとった土地や富を自らのものとしてきた。自らや身内の明日のために、多くの命を永遠に屠ってきたのである。
ただ、抗えと思った。勝てるかは分からない。だが、妻や子には抗うだけの意志と力があると、義朝は信じていた。
数日、東へ向けて進みつづけた義朝は、東国の入口に当たる廿楽城に入った。義朝は、ようやく追跡から逃れられると思った。
しかし城に入ったのち、すぐさま城主の紀古春に捕らえられた。
「紀殿、某を捕らえるのは何故か」
「御辺が朝敵であるからに他ならぬ」
「何を申されるか。征夷大将軍に仕える身として坂東武者と共に戦ってきた御辺が、たかが書状に記された文字に従い、仲間を捕らえると申すか! 何故かような汚名を着せられたか、何故鳳凰院に弓を引いたのか、考えもせなんだか!」
「よくよく考えいたし申した。しかして、御辺を朝廷へ返すと決めたのじゃ。お許したもう。所詮、某らは田舎武者。朝廷の命に従わねば……そうせねば、某らも緑奥藤咲氏どもの様な、蝦夷もどきの外道に成り下がってしまう……!」
「そうであろうとも、某とて武士の誉があるのだ!」
義朝は押さえつける武士三名に勝る力で、暴れだした。そして紀古春の首に掴みかかり、へし折ろうとした。
しかし、疲労困憊の体では紀に叶わず、床に叩きつけられた。
「お見それいたした。誉れのため抗うお姿、当しく武士の鑑なり……! なれども、某とて武士。忠義のために御辺を殺しはせぬが、院宣に従い必ずや京へ送りかえす!」
義朝は生まれて初めて、抗いきれなかった。帝や朝廷のための戦に生涯を捧げた義朝の人生は、朝敵として終わろうとしていた。敗けることではなく、朝敵の烙印を押されたままその汚名を雪げず終わることが悲しかった。
「その涙、某は忘れませぬぞ義朝殿。ようよう……休まられよ」
義朝の身柄は京へ送られた。そして鳳凰院の院宣により、朝敵として首を刎られた。
清季は、義朝と義平の首を確認した。そして京に怨念による災いが振りかからないよう、供養しようという話で纏まりつつあった。だが鳳凰院は、それを拒んだ。
「こんな外道など、その辺の道端に捨ておけば良かろうものを」
貴族は怨念を恐れ、さすがに今度ばかりは鳳凰院に同調することはできかねた。
「乙麻呂、そちもそう思うであろう? のう?」
「麻呂は、義朝のみならず朱雀上皇をも祀るべきかと……此度のことも、鬼門たる東北より降りかかりし厄災なれば……致し方なきことかと。かかる惨事に見舞われるなど……二度と御免でおじゃる」
乙麻呂の言葉に貴族は「そうでおじゃる」と総じて同意した。
「左様か」と言い、鳳凰院は頷いた。清季は安堵した。だがその安堵も束の間、清季は憤怒した。
鳳凰院は鼻の下を伸ばしながら「由良御前はどうするのじゃ?」と言いだしたのである。鳳凰院は未亡人となった由良御前を夜の伴にしたいのだと、言っているのである。
「坂東武者の怒りを買わぬよう、丁重にもてなす他なきものと存じ奉りまする」
「清季、そんなこと分かっておるわ。さりとてそれだけでは、義朝という朝敵があまりにも報われすぎというもの。そうであろう?」
「鳳凰院様、由良御前は東国にて行われた、百人の美女の頂点を選ぶ催しによって、頂点に選ばれし女性。誰もが見惚れる美貌にござりまする。美女は国を傾け、無用な争いを生む根源にござりまする。古くは殷の妲己、三国の貂蝉、そして唐の楊貴妃がそれに当たりまする。由良は政の中枢からは遠ざけるべきと存じ奉りまする」
「それもそうであるな……女装し救いだされるなど二度と御免じゃ。由良も三十七と、歳を取りすぎておるしのう。蔵馬の寺にて囲い、清季、そちが監視せよ」
「承知仕りました。さすれば、倅も同様で良ろしゅうござりましょうや」
「良いはずがなかろう、戯けが。首を取るのじゃ」
「義朝は当代きっての英傑。その御子の首を取れば、坂東武者が京へ雪崩込み、百鬼夜行の再現となるやもしれませぬ」
「ならば流罪じゃ。朝頼と申したな、十六の男にしてはやけに細く、覇気もない。かような若武者なんぞ、生かしておっても何もできまいな」
「同意致しまする。それ故、可能な限り東国に近づけた配流先とし、坂東武者どもを安堵させることこそ肝要と心得まする」
「ならば……桃紅城の辺りに致そう。廿楽城では、ちと近うて好ましくなかろう。さりとて近場への流罪は、朝頼のみじゃ。鬼の子牛若は、坂東武者の神輿になりかねん。殺せぬのだとしても、京の近くにて見張れ」
「御意にござりまする。蔵馬寺にて、僧兵どもに見張らせまする。万事某が責任を持ち、必ずや東国の武者どもの怒りの矛先が、この京へ向かぬよう、尽力致します」
「そうせい」
清季は、再び安堵した。
清季は細身の朝頼を桃紅城へと流した。どうか生きのびてほしいという思いと、彼は義朝に並ぶ傑物になり得ないという、諦めの気持ちが混合した複雑な思いであった。
それから、まだ幼い、小さくやけに色が白い少年と、それを抱える別嬪を引きつれ、清季は蔵馬寺へと運んだ。
由良御前は目を腫らしていたが、決して涙は見せなかった。武家の妻として、弱さを晒さないという強い意思が感じられた。
「由良御前殿、某はそなたらが大人しく過ごしているあいだは、決して手出しはせぬ。寂しくなればいつでも六原へ使いを出されよ。我が友の正室を、無下には致しませぬ」
「寛大なお心遣い、感謝申し上げます。朝敵と成りはてた義朝めの妻や子など、市中を引きまわされて打首に処されても致し方なき身。贅沢は申しませぬ。ここで慎ましく過ごします」
声の震えもなく、まるで本音のように言いきるその豪胆さに、清季は心の震えを感じた。しかし由良御前の横に立ち、少し青みがかった目でこちらを凝視する少年の手前、由良御前の体に触れるなど、できるはずもなかった。
外では鬼の子と呼ばれていた少年牛若は、頭を丸めて白い袈裟を羽織る大人は自分を恐れず、そればかりか食事や遊びの相手をしてくれることが嬉しかった。
牛若は少しづつ、これまでのことなど忘れていった。幼い少年にとってそれは普通のことであった。
だがそんな牛若を由良御前は次第に、煙たがりだした。次第に父義朝のことすら忘れ、山中で走りまわるただの子供になってしまったことが、残念で仕方なかったのである。
牛若は母を恐れだした。言葉には出さぬが、過去に向けられたことがある目で、自分を見詰めてくる唯一の人物として、彼の中で由良御前は怖いだけの存在となってしまっていた。彼の恐怖を取りのぞくのは、時折現れる、烏帽子を被った貴族の装いの男である。姿を現しては母と二人で部屋に籠るその男を、牛若は自らの父だと思っていた。
「牛若よ」
「はい、中納言様」
「お前は小さい体に似つかわず、体力がある。昨日は半刻の内に蔵馬の山を一周したと聞いたぞ」
「お坊様方が追いかけてくれるので、僕は逃げるだけです。そうしたらたまたま、一週しておりました。中納言様、僕はお坊様方に捕まりません。なので、今度は僕が捕まえようと思うのです。でもお坊様方は皆、目を伏せて、遊びを辞めようと言うのです。どうしてでしょうか」
清季は僧侶どもが、鬼と牛若を結びつけまいとしているのだと分かり、笑った。
「すぐに捕まるからであろうぞ、牛若よ」
「今度は中納言様もご一緒に」
牛若がそこまで言いかけたとき、由良御前が背後から大声で「おやめなさい!」と叫んだ。
「はしたない! 中納言様にご迷惑をお掛けするでない!」
「申し訳ありません、母上……!」
牛若は土下座をした。
清季はいたたまれなくなった。女子供であっても、立場が危うい以上、常に姿勢を低くしていなければならない。戦が終わっても、敗けは続くのである。敗けるというのは、そういうことなのだと、清季はつくづく思った。
清季は「よいよい」と言って笑い、やがて蔵馬寺を後にした。
その日の晩、牛若は夜遅くに寺を出た。由良御前の近くに居たくなかったのである。いつも駆けまわっている山中も、暗ければ何も見えず、まるで別世界へ来たかのような気分であった。
「これがお坊様が仰っていた、幽世というものか。ともあれば、僕もこのまま……」
誘われる様に森の奥へ奥へと進んでいくと、人ふたり分程の高さから、二つの目がこちらを覗いていることに気づいた。その目は青く、牛若は自分のようだと感じた。そのせいか、不思議と恐怖は感じなかった。
「強くなりたいか」という囁き声が、その目の方向から聞こえた。
「なりたい」
「ならばまた会おうぞ」
「おじさんだあれ?」
「そなたと同じ、人ならざる者なり」
そういうと目は瞬きをする様にして消え、季節外れの涼しい風が吹き、木々がざわめいた。
寺の方向から「牛若様!」と叫ぶ僧侶らの言葉が聞こえた。牛若は心配を掛けていることに気づき、僧侶らの方へと帰った。
「牛若様! 危のうございますぞ!」
「どうして?」
「夜は道を踏みはずして転落したり、獣や物の怪に襲われるやも」
「この蔵馬にもののけがいるの?」
「勿論、ここは霊道がございます故、多くの人ならざる者がおります。結界により山の外へは出られませぬが、言いかたを変えれば、山は危険極まりないのです。さぁお早く寺へ」
牛若は、あの青い目の存在が人ならざる者であるならば、他の誰とも異なり、目が青く肌が白い自分は何者なのだろうかと、疑問に思った。
あの青い目の正体はなんであろうかと、牛若は常に考えるようになっていた。食事も遊びも、学問にさえも身が入らず、その姿はまるで何かに取りつかれたかの如きであった。
読経の最中、牛若は思いだした。少し前まで、自分は鬼の子と呼ばれ忌みきらわれていた。あの巨体は、やはり人間ではないのだろうと、牛若は思った。
「牛若様、突然読経をやめるなど、どうしたのですか」
和尚は尋ねた。彼は僧侶らの中でも徳が高い人物であり、僧侶らが朝敵の子である牛若を人間扱いし育てるのは、彼の方針に従っているからであった。
「仏門に帰依する者として、読経は続けなくてはなりませんよ、牛若様」
なおも黙りこむ牛若に、和尚は尋ねた。
「何か、悩みを抱えているのですか」
「和尚様、僕は鬼の子なのですか」
「なんと……誰がそんな戯言を」
「自分で気づいたことなのです。山で、青い目の巨体を見ました。僕と同じ青い目です。そして風と共に消えうせたのです。人ではありません」
「そうですか……あなたの前にも現れたのですね」
そういうと和尚は僧侶らへ読経を続けるようにと伝え、牛若と二人で御堂を出た。
「牛若様、ここには鬼が出ます。しかし不思議なことに、災いを齎すことはなく、ただこの山に現れては、消えていくのです。幼きころ、拙僧の前にも一度だけその姿を現してくれたことがあります」
「鬼の前にのみ現れるのではないのですか。和尚様の目は黒いです」
「何故、拙僧の前に現れたのかは分かりません。気まぐれでしょうか。なにはともあれ、拙僧が申し上げたいたいのは、鬼であっても、そのすべてが悪しき存在ではないということです」
木々がざわめいて落ち葉が舞う中、和尚は、しゃがんで牛若に向きあった。そして「貴方様は鬼の血を引く鬼の子です。さりとて、拙僧ら共々、仏を信じる仲間にございます」と告げた。
蝉時雨のやかましさが、遠くへと引いていった。自分はやはり鬼だった。しかし、そんなことはどうでもいいと思えるほどの温かさを感じた。牛若は、和尚に屈託のない笑顔を見せた。
和尚は安心した。彼は正真正銘、人の子であった。そもそも朝敵の妻である由良御前やその子である牛若の尊厳が保たれているのは、仏門に帰依しているからという高尚な理由ではなかった。それは建前であった。
和尚は清季から、由良御前や牛若の身に何かがあれば、蔵馬寺を取りつぶし、僧を殺すという脅しを掛けられていた。和尚はそのため、安心していた。牛若が心を病み、死ぬことはなくなった。寺は、首の皮が一枚、繋がったのである。
東国では有力武士により、火花が散ろうとしていた。棟梁の義朝亡き今、鬼門城にて甲武新羅丞吉光は、頭を抱えていた。
「東国が割れる寸前だ……このままでは義朝殿が先代より継承し築きあげてきた家来衆が、やがて敵に飲みこまれてしまう……!」
東国には主に三つの勢力がある。東側から中央の鬼門城にかけての義朝家来衆と、中央の鬼門城周辺の鎮守府を含めた東国武士団。西側の鬼頭家。そして北側の緑奥藤咲氏である。緑奥藤咲氏はあからさまに朝廷に敵対している。そして鬼頭は、現状は東国武士団の一部と捉えることもできるが、現領主の鬼頭義仲は父の義賢を叔父の義朝に殺されて以降、独立勢力のように振舞っていた。
問題は、東国武士団内部であった。
小鷹城を奪還した大庭愛宕権現景虎は、鬼門城への帰還命令に従わず、今も小鷹城に居座っていた。まるでそれは、自らが清和義朝の後継者であるかのような振るまいであった。鎌村幸良といった有力武士も彼に付きしたがっており、彼が支配する鎌村柵という鉱石が採れる村の存在もまた、大庭景虎という武士が、武士団内で長になるべく力を付けているという疑惑を強めさせる一因であった。
甲武諏訪太夫吉國は、兄の甲武吉光同様、鬼門城にて、大庭景虎の行動に憤っていた。しかし別件で吉國は、兄の吉光に対しても、強い怒りを覚えていた。
「何故、其許はここを仕切っておるのか。何故、其許が義朝様に成りかわりすべての文を管理し、統制しておるのか、某が納得のいくまで説明願う」
「何を怒っておるのだ。某はこの城の主たる叶麻呂大将軍にお仕えし、それ故に文に触れやすいというだけのこと」
「そうだそれだけだ。ならば指図せずただ文の内容を触れてまわればよいのではないか」
「図に乗るな! 渡辺歳綱副将軍のお支えをせよとの命だぞ! 其許は黙って砦の補強やの褐衣装束の守り人衆の調練を全うすれば良いのだ!」
「何を申すか!」
「それのみならず其許は弟! 兄のすることに口を出すべからず!」
清和義朝という要を失った扇子はバラバラになろうとしていた。鬼頭義仲のように、味方が敵となる可能性が高まりつつあった。
坂東武者は時折、暴れ馬に例えられる。その手網を握るのは至難の業であるが、放置しておくには危険すぎる。甲武吉光はその手網を握るのは自分ではないと、そう考えた。彼は忠義心や血筋に於いては、棟梁に成りうるだけの素質はあったが、戦功では大庭景虎に劣っていた。甲武家の本拠地がある甲武荘もまた広大かつ肥沃な農村地として、人や作物が育ち、金が生まれる土地である。しかし吉光は、よそ者であった。
「河内の回し者が……この吉國の産まれが其許より二年遅かっただけで、養子の其許よりも、某の方が甲武荘の領主に相応しいのは火を見るより明らかであろうに」
「その話はとうに方が付いたはずであろう吉國よ。血は繋がらずとも、父上は某を嫡子となさったのだ」
「其許の父は河内慶明であろう。そして兄弟は、兄の河内八幡太夫義家と、河内炎龍重永だ」
「貴様……これ以上不満を言いつづければ、父上への不忠と見なし謀反人として首を刎ねるぞ……!」
「左様か……この鬼門城にて謀反人を出せば如何なるか承知であろうに、脅し文句を垂れるか」
鬼門城は神聖なる城である。結界によって守られているが、その内部にて朝廷、並びに神仏への忠誠を誓った者同士によって殺生が起これば、その結界は弱まってしまう。人の結束が結界を強くし、魑魅魍魎を退けるのである。
「よくよく考えてから行動なされよ、河内吉光殿」
吉光は憤懣やる方ない思いであった。しかし忍耐の時だと判断した。爪が指に食いこみ血が流れていた。だが鬼門城を守るべく、必死に堪えた。




