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第十三話 須弥山

 嵐の後、敗走中の朝頼は美浦御厨が筬谷氏に奪われたと知る。幼き日の師、筬谷広胤との交戦に葛藤する朝頼は、篁家による帝の廃位や新帝即位の虚報、そして自らが掲げる「武士だけの国」の志を語ることで、揺さぶりをかける。

 同じ頃、鎮守府には新帝即位の勅使が訪れ、朝頼追討の宣旨が下る。将軍・歳綱は黙認、事態を静観することを決める。


 現世での情勢が激変する中、有恒と鵄錦が法眼の導きで須弥山へ至り、秋津洲の土地神・韓国造と邂逅する。

 死後の理想郷にも似た美しき世界を前に、有恒はなお血と不条理に満ちた現世への執着を語り、二人は「現世にしがみつく」覚悟を胸に、橋を渡って帰還する。

 風雨の後、朝頼は洞窟にて利明、佐吉と合流した。二人によれば、美浦御厨が奪われていたのだという。

「何者にじゃ! 申せ利明! 義仲か! 藤咲か!」

「いいえ、模様眺めをしていた、筬谷おさやにござりまする!」

「筬谷とは……かようなときに、邪魔だてを致すとは……!」

 筬谷おさや氏は、坂東一の豪族にして、由緒正しき武門の名家であった。しかしながら、東国武士団には加わらず、常に己の家のみで、魑魅魍魎や蝦夷から領地を守りぬいていた。彼らが東国武士団に加わらなかった理由はただ一つ、その血統は清和氏や地侍とは異なり、篁氏であったからに他ならない。

 篁清季が朝廷にて専横を始める前は、互いに手を取りあい共に戦うこともあった。筬谷家当主の広胤ひろたねは、幼き日の朝頼の学問教師として、文字を教え、年長の者を敬う儒学を授けた人でもあった。

「兵を集め、じいをも殺さねばならぬのか……! 幼き日に父の代わりとして某をあやしてくれた、あの爺をも!」

 般若のような面となった朝頼に恐れをなした佐吉は黙った。しかし、利明は、意を決して口を開いた。

「殺すほかありませぬ! 篁氏は……我らが敵にござりまする!」

 時利は、清和家軍の大半が篁条国内にあることを鑑み、一時撤退を進言した。しかし朝頼は、嵐が去った今、義仲が魑魅魍魎の大群をいつ南下させてくるやも知れず、一刻も早く北上すべきと判断した。

 筬谷は少なくとも二万を越える大軍であり、朝頼に勝機はなかった。だが朝頼には、戦とは別の場所に勝機を見出していた。

「篁清季は、天子様を廃嫡し、自らの血を引く竹仁皇太子殿下を即位させた」

「其は真にござりまするか、殿!」

「偽りじゃ利明よ。されど其許のその反応を見て、この嘘が通用することを、今悟ったわ」

「其は余りに恐れ多き嘘にはござりまするぞ」

「さりとて、勝たねばならぬ。兵法は敵の虚を突くものなりと、そう書いてあるであろう? この嘘で、自らの身の振りかたを誤る爺ではあるまい」

 筬谷家は今や、恵我国や篁条国、足利城や鎌村荘に囲まれ、孤立していた。そこに、篁家が犯した大逆の報が加われば、広胤ひろたねは清和家に降るであろうと、朝頼は睨んだ。

 美浦御厨にて朝頼は、交渉の席に着いた。清和家当主自らが単身で交渉の席を求めたという事実だけで、清和家ないし東国武士団が今や、たかが一介の豪族に過ぎない筬谷家に劣る弱小に成り下がったことを表していた。

 広胤は見極めようとしていた。隆盛極まる篁家のためにこの清和家当主の首を刎ねるか、あるいは専横極める篁家に背くかをである。

 すべては朝頼の一挙手一投足に懸っていた。

「お久しゅうござりまする。清和朝頼にござりまする」

「大きゅうなられたな若よ。最後に会うたのは、若がまだ二つの時でござった」

「二十二年、よくぞ筬谷を御守りになられました」

「蝦夷も魑魅魍魎も、同じこと。数や力のみを頼りにした者どもには、心を同じくした家を倒すことはできぬ。心とは即ち、数や力の土台となる、主を支え御守りいたそうという道理のことにござる」

「しからばお聞きいたす。爺にとっての主とは、誰にござりましょうや」

「其は天子様に他ならぬ。故に、東国武士団のために天子様の臣下たる伊東氏を攻めたてた清和家やその家来衆を、赦すわけには参らぬ」

「それが美浦御厨を攻めた理由にござりまするな」

にも。其を咎める若ではござらぬな」

「当然にござる。さりながら、引き下がることもありませぬ。爺は天子様のためと仰るならば、何故篁家を攻めぬのか、お答えいただきたく」

「篁家の専横は身に余るものなれど、天子様は篁討つべしとの勅命を下してはおらぬ。しからば我らは、同じ臣下として、この地にて自らの御役目を果たすのみ」

「天子様を害し奉ってもなお、そう仰られるか!」

「害し……奉った……?」

「よもやご存知ではありませぬか。お耳に入っているものと思うておりましたが……篁清季は、天子様を廃位させた挙句に害し奉り、竹仁殿下が践祚致しましてござりまする」

「なんと……! 其は真か!」

 朝頼は表情一つ変えず「真にござる」と言ってのけた。このとき、朝頼はその事実を知らない。しかし余りに堂々とした物言いに、広胤はその話を信じた。

「新たに今上の天子様にあらせられる竹仁を、真の天子様と崇め奉ることが、道理と思われまするか」

「其は……思えぬ。さりとて、何故かような大事を、如何様に知りえたのか」

「我が方には、鎮守府が御味方しておりまする。ともあれば、京と繋がりがあることは容易にお分かり頂けましょうぞ」

「しからば真に……天子様は……!」

 広胤の中で、篁家は主家として支えるに値しない悪逆非道な外道として、いの一番に討ちほろぼさなければならない存在となった。破廉恥極まりないその悪に、情けは無用であると感じた。

「若が目指す先には、何がありましょうや。篁家の手勢や朝廷の手勢を退けることあらんか、その果てに何を見ておりましょうか」

「某は父義朝がなし得なかった理想を、叶えとうござりまする」

「其は如何様な理想にござりましょうや」

「武士だけの国にござりまする。某は東国の武士が己が利のために他家や民を傷つけ、互いを牽制するために手を取りあわぬ現状に、嫌気が差してござりまする。昨日の友が今日の敵では、京の貴族どもに嘲笑われてしまうのも道理にござりまする」

「互いに牽制せぬなど、荒々しい武士には無理難題。その頂点に立つ存在がおらねば成りたたぬ道理ぞ。若も新皇を名乗り、天子様を蔑ろに致すのか!」

「然にあらず! 某が目指すは、征夷大将軍にござりまする。蝦夷や魑魅魍魎など、東夷あずまえびすどもを蹴散らしながら、自らの在り方を決める、力の権化を志してござりまする。それだけの力を持つ我らを、誰ぞが従えられましょうや。我らはただ、天子様より賜った敵の討伐という至上命題にのみ従い、戦にて功を立て、秋津洲を東へ東へとさらに広げるのでござりまする!」

 秋津洲のために戦いつづけるという志は、生粋の坂東武者である広胤の胸を打った。


 広胤が語った新皇とは、三百年ほどの昔に、かつて東国にて朝廷に反旗を翻した武士が名乗った号であった。

 武士の名は篁忠門たかむらのただかど。清和家が坂東に根を下ろす以前に、篁氏が排出した坂東を代表する英傑であった。

 忠門は、搾取や公正さのない裁判など、理不尽極まりない朝廷に抗うべく、土着の武士のために立ち上がった仁義の人であった。そして東国という枠組みが存在しない時代に坂東を一つの地域として統括し、豊かで平和な時代を築くに至ったが、朝廷の命を受けた清和家の祖である清和頼信や緑奥藤咲氏の祖である藤咲秀郷ふじさきのひでさとらによって、滅ぼされたのである。

 広胤は同じ坂東の篁氏として、その高潔な生き様に憧れていた。筬谷家当主として、自らが成せることはなんであろうと常に考え、ただ負けない強さだけは手にいれようと思ったのである。志や気高さを真似しようなどというのは、分不相応なことだと自覚していた。

 だからこそ、清和信頼の直系である棟梁清和朝頼が、自らに欠けた志を見せたことに、胸を打たれてしまったのである。

「若、真に大きゅうなられましたな」

 筬谷広胤は、清和家陣営に参陣することを表明した。美浦御厨は美浦利明の許に還り、利明は嵐の原因と睨む鬼頭義仲の動向を探るべく、祈祷を開始した。

 時を同じくして、広胤は筬谷家領地へ戻り、清和家の旗の下に兵馬を整えた。



 五月


 鎮守府の許に勅使が訪れ、新たに即位した天子の儀式に掛かった費用を、御用金として徴収していった。普段ならば、金銭を得る口実を伝えるだけの勅使も、今回ばかりは来訪の本題がそれではないと察することができた。

 歳綱は、勅使が伝えた「朝敵清和朝頼を討伐すべし」という言葉を受け、立場を明らかにできなかった。

 友として、坂東武者どもが主家として奉る清和朝頼と手を取りあうか、あるいは簒奪された皇位をあるべき所へ返すべく、朝廷に抗うか。

 歳綱は形式的に勅を受けとった。しかし朝廷に対する忠誠心が揺らぎ、どちらに兵を差しむけるべきか、迷いに迷い、御楯に相談した。

 すると御楯は顎に手を当てながら「緑奥藤咲氏のことを考えておりました」とだけ告げ、去っていった。

 歳綱はその意味に気づき、笑った。

「そうか……どちらか選ぶことさえ、正しからずと申すか。今ばかりは、彼奴らの真似を致さざるを得ぬか」

 歳綱は新たなる天子、新たなる棟梁の双方を見放し、黙認した。静観し、勝った方に上手く与して、この鎮守府を生きながらえさせようとした。

 この鎮守府がなくなれば、近畿にも魑魅魍魎が入りこみ、無垢な人々が死滅してしまうのである。

「東国、筑紫洲の魑魅魍魎は質も数も異なる。東国の魔の者を、進ませぬために……今はどちらにも御味方することは能わぬ」

 歳綱の選択はすぐに、吉と出た。



 鬼頭義仲が引きつれた魑魅魍魎の大群が、一夜にして鬼門城を囲んだ。それは当に百鬼夜行と呼ぶに相応しいほどのおぞましい大群であった。

「やるなぁ鎮守府将軍。和主は東国武士団の御味方となり、兵の大半を朝頼めに合流させるものと見立てておったが、よもや一兵たりとも送らぬばかりか、巨勢載足さえ帰陣させているとな」

 載足は三月の時点ですでに近畿から東国へ戻っており、小鷹城にて朝頼方と緑奥藤咲氏方の盟約が失敗した際に備えていた。盟約自体は、朝頼方の都合で交渉すらできず終いであったが、緑奥藤咲氏はこれを好機と見て動くことはなかった。

 朝頼が美浦御厨に到着したことを見届け、載足はこの五月に入ってようやく、鎮守府へ帰陣することができたのである。

「戻ってすぐに戦とは、骨の折れる。先鋒を承るのは名誉なれども、いやはや鎮守府将軍も人使いがお荒いことこの上ない」

「聞こえておるぞ載足。……そなたが頼りなのだ。戦働きをしてたもう」

「承知致した。篁条国では見まわりのみで戦えなかった故、武人の血がうずうずしておりました。是は、好機なり」

 載足は北門より魑魅魍魎の群れを攻撃した。前回の侵攻より、明らかにその動きは遅く、魑魅魍魎自体が細いように感じられた。

「ぬるいぬるいわ鬼頭義仲。貴様の力はもうそれっぽっちか!」

 載足は火矢や、乱杭への誘導で一網打尽とする奇策を用いて、見事に侵攻を跳ねかえした。やはり、兵力を温存できたことが幸いしたのであろうか。鎮守府方の誰もがそう思ったのも束の間、事態は急変した。

 伝令は天守にて戦況を眺める歳綱へ「鎮守府将軍へお知らせ致します! 南門より城内での魑魅魍魎の発生を確認致したる由!」と告げた。

 結界そのものであるこの城の中で、魑魅魍魎が湧いたというのである。

 それはつまり、結界がすでに破られていることを意味していた。魑魅魍魎自体は弱くとも、その数で徐々に鎮守府の兵力を削っていた。

「さてどうするかな将軍、載足、武人どもよ。このままではジリ貧。策などあるまいて」

 義仲は山の上で、鎮守府を見つめながら高笑をしていた。兵を鼓舞する陣太鼓や、危険を知らせる規則正しい鐘が鳴りひびく城が、あと数刻もすれば、音を立てて崩れていくことが容易に想像できたのである。

「光雪、間者より河内国からの報せはあるか」

「ありませぬ。故に河内家は未だ、諏訪太夫吉國による謀反の動きに備え、国外へ兵を差しむける余裕はござり申さず」

「足利は如何か」

「足利は、朝頼と共におるのでは」

「そっちではない。吉清よしきよじゃ。足利吉氏の兄にして、清和家に与せぬ武者じゃ」

「吉清が出陣しておるのでござりまするか?」

「そうか、これは金平かねひらに指示したことだが、そなたには伝わっておらなんだか」

 義仲には、腹心の金刺光雪の他に、三人の有能な御味方がいた。その内の二人が、兵を指揮することに長けた足利吉清あしかがよしきよと、交渉と謀略に長けた今泉金平いまいずみかねひらであった。そこに金平の父にして、民からの徴税や狩の指導、武具兵糧の管理に長けた官吏の今泉金道いまいずみかねみちを足した四名が、鬼頭四天王と呼ばれる存在であった。義仲という武士らを引きつける才覚に溢れる男の圧倒的な強さには、彼らの存在が欠かせなかった。

「今泉父子は緑奥のクズどもに攻められたりはしておらんだろうな、光雪」

「心配ご無用にござりまする。急速に力をつけた清和朝頼を警戒し、鬼頭御曹司金平殿がすでに調略済みにござりまする。仮に鬼や魑魅魍魎が湧いたとて、巴御前ともえごぜん様が御守りいたしております故、万が一のことはござり申さず」

「巴は我が妻にして優れた武人なれば、不足はあるまいのう」

 余裕綽々の鬼頭家にとって、この鎮守府は通過点に過ぎなかった。これを陥とすことが目的ではなく、義仲の目的は別にあった。それを果たすべく足利吉清は、幽世を通って西南へと進んでいた。

「殿の申す通りじゃ。鎮守府の光明力があれば、この幽世であっても結界が生じ、前へ進んでも道に迷うばかりで西南へは入れなかった。さりながらそれは今までのこと。今は、霧が晴れて先がよう見えるわ!」

 吉清は人ならざる者の住処にして、魑魅魍魎が生まれる世界である幽世にて、誰よりも生き生きとしていた。生まれたばかりの魑魅魍魎を斬り殺しながら、ひたすら西南へと進んでいった。

 吉清は背後を気にしてはいなかった。信頼する金平によって、緑奥藤咲氏は懐柔されており、緑奥城の良彦成衡が幽世の魑魅魍魎を用いて背後を襲う可能性は限りなく零に等しかった。

 しかし、幽世は現世とは理が同じではないため、時間や距離が有耶無耶となる。吉清は目的地である京へと向かう道中、まさかの存在と遭遇した。

「鬼だと……! 鬼は以前、そのすべてが鎮守府で祓わたはず……! 再びこんなにもハッキリと湧きだすとは、早すぎる……!」

「貴様、この御方を誰と心得るか! 鬼と呼びすてるなど無礼千万だ!」

 鬼の傍に立つ袈裟を身に纏う大男は、顔を赤くして叫んだ。角のないこの男もまるで鬼のようだと、吉清は思った。

「某は清和朝臣緑奥守鬼頭義仲が家来、足利吉清にござる」

「鬼頭義仲といえば……あぁ、今は亡き坂上叶麻呂大将軍に戦を仕掛けるも敗れ、おめおめと逃げだした鬼気取りか」

「貴様! 無礼がすぎるぞ!」

 似た者同士の二人に、鬼の子は笑った。

「鵄錦よ、そなたも中々な物言いよのう。そこの方、先に非礼をお詫び致す。此許らはお武家の方の如く、戦場の礼儀を学んでおりませなんだ。それ故、敵への敬意の払い方を知らぬのでござりまする」

「敵か……鬼と間違われるのは気が悪かろう。こちらも非礼を詫びねばならぬな」

「構いませぬ。某は、鬼の血を引いております故」

「鬼の血を引くとは、摩訶不思議なものよのう。いやはや、ここは幽世なれば、それもまた道理か。気がせいておった故の無礼、重ね重ね陳謝致す。それでは御免!」

 馬で走りさる吉清ら数名の騎馬武者を、鬼の子と鵄錦は見送った。

「鵄錦よ、某はどこまで行っても、鬼なのだな」

「有恒様のことを知れば、鬼の面をしていても、人間であることは自明の理にございます」

「慰めずとも良い。特に気にしておる訳ではない故な。それよりも、これより如何致すかのう?」

韓国からくに殿を……探さねばなりますまい」

にも、韓国殿より秘技を教わらねば出られぬ。まったく、天狗の法眼は教育熱心なのかそうではないのか、分からぬ者じゃ」


 五条大橋を渡っていた有恒と鵄錦は、法眼の術により、幽世へと誘われていた。法眼はその目的を「韓国造からくにのみやつこから秘技を学べ」と伝えていた。有恒には意味がわからなかった。鵄錦との戦いに続き、またしても指図をされた。しかも今回は、その理由さえ説明せず、不満が募るばかりであった。

 いつまで先生気取りでいるのかと、法眼に対する苛立ちが増しているのを、有恒は自分でも感じていた。だが鵄錦がいれば、何故だかそれもまた一興だと思えた。それは、理不尽を共に乗りこえる友を、手にしたからである。

 二人は韓国造という、正体不明の存在を探した。彼は須弥山にいるらしく、有恒と鵄錦は山を登った。二人は、まるで物見遊山をしている気分であった。ただの友のように、現世では見つけられない様な絶景を見て歩いた。

 不思議と、この幽世の木々や山河、鳥や魚達は、現世よりも美しく見えた。有恒は、それが何故なのか考え、そして答えに気づいた。

 すべての命が、最も理想的な姿をしていた。ここにいる命はきっと、そのすべてが、現世で死を迎えた命なのであろう。未練がなく、自らが思いえがく最も幸福で、最も綺麗な姿を、成仏するまでの刹那に会得するのであろう。

 須弥山は、仏の世界とその他の世界の狭間であることを鑑みれば、それは真実であると、有恒には思えた。

 須弥山の山頂付近に、韓国造はいた。

 韓国造は、上等な絹織物に身を包んだ、老齢の男性であった。

「そちたちが、天狗が申しておった僧侶か。幽世はどうじゃったかのう。良い場所だとは思わぬか」

 その問いに有恒は答えた。

「真にそう思います。さりながら、某にはちと早すぎる光景にこざり申す」

「早すぎるとな?」

「某はまだ、現世に御役目がある故、死後の楽しみにとっていとうござりまする。死すればまたここへ来られると分かれば、死をも恐れずに戦えまする」

 有恒の達観した言葉に、造は口を大きく開いて笑った。

「そうかそうか、そちは、この須弥山を知ってもなお現世を恋しく思うか」

「某は、現世こそ美しきものと心得まする」

「其は、何故かのう?」

「生きるため、他者から何もかもを奪う。血生臭く、炎が渦巻き、悲鳴と怒号が轟く。不条理極まりないこの現世こそ、生きていると感じることができる、唯一無二の天下にござりまする」

「其は当然至極。ここは天上への入口にして、命ある者が立ちいらざる所」

「さりながら、それでもなお、こうして命ある者が入りこみまする。そして魅せられ、この地に留まろうとする。さすれば、命あるものがその御役目を捨てさり、また生まれ落ちてしまうのでごりまする」

「そちは侍言葉でありながら、根は僧ということか。輪廻転生からの解脱が、釈迦如来の教えであったな。良い男であった」

 造の言葉に、鵄錦は笑った。まるで呆けた老人を愛おしむような笑みであった。

「お釈迦さんと会ったことでもあると申すか、老人よ。老人は時に奇々怪々なことを申すが、幽世の死にかけの老人も其は同じか」

にも。死にかけの老人は、入滅した釈迦如来に置いていかれ、奇々怪々な余生を送っておる。幾千年ものう」

 入滅とは、仏教の言葉において、悟りを開いた如来が輪廻転生から解脱して、二度と生まれ変わらず一切の苦しみから開放されることを意味していた。

 須弥山とは、仏が住まう天上界と幽世を繋ぐ場所である。つまりこの造は、天上へ登れず、ここで孤独に過ごしているのだろうと、鵄錦は思った。

「お主は、釈迦如来のお弟子であったのか」

「弟子ではない。この雲の上で、何を語ろうと戯言に聞こえるであろうがのう。すべてが絵空事に思えてしまう場所じゃ。かつては小生自身、そうであった」

「もしや韓国とは、秋津洲のことか……! さすればお主は……!」

「鈍い木偶の坊と思うたが、教養はあるようじゃのう。左様、小生は土地神。秋津洲そのものの、神じゃ」

 何故、法眼が造と自分たちを周旋したのか、有恒は理解できた気がした。

「韓国殿は、法眼の友なのでござりましょう。法眼は天狗ながら、鬼である某の友にござり申す。韓国殿より教わる秘技は……その友愛の心に御座候らわずや。幾千年、己のみで生きつづけた法眼の友たれば、同じく孤独を知っておられるのでござりましょう。如来に近き、菩薩でありましょう」

「仏の位で呼ばれるとは、秋津洲も変わったのう。さりながら、秋津洲そのものであった小生が、いつしかこの須弥山に鎮座し、多くの命が生まれては消えゆく姿を眺めても何も感じなくなったことは、それ即ち生きることが幸いではないと、そう悟ってしまった故かもしれぬのう。ここで釈迦たちと出会うてから、小生は変わってしまった」

「菩薩は、悟りを開いた如来に近き存在なれば、韓国殿の如き大きく尊い神に相応しき位と心得えまする」

 造は、乾いた声で笑った。自嘲の笑い声でありながら、それすら悟りに近づいた者独特の、諦観の趣きがあった。

「有恒殿、そちは何故、それでも生きていたいと思うのか。幸福など、人生という長き修行の合間に生じる、目眩のようなもの。正しく見えていなかったが故に、愛おしく感じるだけではないか。そのためなんぞに何故、不条理の中に居たいと思うのか」

「理などござり申さず。修行が足りぬ僧侶故、ただ生きることに執着してしまうだけのことにござりまする」

「とどのつまり、人故か。鬼故やもしれぬな。人が人らしくあろうとすればするほど、いつか憎悪にたどり着き、その純粋さ故に鬼となる」

 有恒は鵄錦と共に一礼した。

「鬼として、現世にしがみついて参りまする。悟りに近づく秘技、しかと承りましてござる」

「達者でのう、お二方。法眼の友は真、人でありながら人ならざる者ばかりだ」

 造はそう言うと、手を叩いた。すると目の前は霧に覆われ、有恒と鵄錦は、気がつけば霧が濃い五条大橋の上にいた。

「橋はあの世とこの世を繋ぐ境界とは、よく言ったものだな、鵄錦よ」

にも……不思議な体験でありました」



 幽世を抜けた足利吉清は、長い道のりを駆けぬけ、目的地に辿りついた。そこで待つのは、篁家の家人、小藪藤孝こやぶふじたかであった。

「お待ち申しあげておりました足利殿」

「遅参した件、平にお詫び申しあげ候わん」

「お気になさりまするな。ささ、どうぞ茶を飲んで体を温めてくださりませ。ここでお会いできただけで、我々の勝利は固いものとなりましてござりまする」

 藤孝は妙に鼻が高い色男であった。彼は、篁信清の従者であり、近畿では名の知れた男であった。それは武士としてではなく、稀代の女たらしとしてであった。そのためか、篁清季の実子であるという噂がよく知られていたが、彼は信清の庶子であった。信清が叔父である清季を反面教師にして堅物カタブツとなったように、藤孝ふじたかもまたそんな父信清を反面教師にし、自由人となっていた。

 そんな性格が幸を奏し、今回は敵方である鬼頭義仲との密約の使者という御役目を担うに至った。

「我が方と鬼頭家が手を結び、篁条国より西進する清和家を不死川ふしがわにて挟みうちに致す。かようでござりまするな?」

にも。同時に我が方は鬼を用いて鎮守府を陥とし、東国の中央より西側はすべて、我が方の支配地と致す。清和家誅伐が成ったのち、これの第一の功績は篁家のものと致す。某は、貴殿の功績を取りたてて、天子様へ奏上仕らん」

「以上で、我らの密か事は結ばれ申した。早急に鎮守府を陥落せしめ、手勢を率いて鬼頭義仲を近畿へ招かれよ」

「承知じゃ」

 男二人は笑いあい、酒を酌みかわした。その酒は既に、勝利の美酒に思えた。 


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