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Case 01-1

 「異世界転生」という言葉を知っているだろうか。

 なんらかの理由で人生を終えた魂が、前の生の記憶や知識を保持したまま別の世界に転生して新しい人生を歩む。そんな事象を指す。


 少し考えてみて欲しい。

 もしも。もしもある日、自分の生があっさりと終わりを迎えてしまったら。

 ああすれば良かったこうすれば良かったと後悔している中、不意に目の前に神々しくも美しい存在が現れたなら。

 貴方の願いを叶えようと、手を伸ばされたなら。

 人はその手を取らずにいられるのだろうか。

 

 ***

 

 朝焼けのようで夕焼けのような。はたまた熟した果物のような色合いの空と、それを覆い隠すように立派な枝葉を広げる巨大な樹木。

 その隙間から覗くきらりきらりと煌めく小さな光を見上げて、「妖精」はゆっくりとため息を吐いた。


 ここは妖精の国、エフェメラルク。

 国土の半分ほどもあるのではないかと思うような巨大な樹「世界樹」を中心に広がる、女神と妖精族だけで構成された国だ。

 女神は世界樹を司る高貴な存在であり、この国に存在する妖精族の殆どは女神の眷属として世界樹の管理や問題解決のために日々働いているのである。

「おはよう、アカ」

「おはよう、アオ」

 ふわりと浮かぶ青みがかった光の玉が空気を震わせて言葉を紡ぐ。それに応えるように妖精——アカと呼ばれた赤みがかった光の玉も同じように空気を震わせた。

 妖精と呼ばれる存在の中にも、上位から下位までの階級が存在する。上位にいくほど妖精としての力が強く女神の側に仕えることができるようになるが、アカは下位のなかでもさらに下位の階級に位置している。

 階級が上がれば女神と似た姿かたちを得られるが、アカたちのような下位の妖精は特定の姿かたちを持たず、小さな光の玉状の姿でふわりふわりと飛んでいるのだ。

 妖精族は基本的に互いの魔力の波長を合わせて話す念話か、空気を震わせて音にするかのどちらかの方法で意思の疎通をはかっているので、体がなくても問題はない。

 また下位の妖精は特定の名前を持たないので、名を呼ぶ必要がある時はそれぞれの光の色でなんとなく呼び分けをしている。その為、同じようにアカと呼ばれるものもアオと呼ばれるものも複数存在しているが、特に不便を感じたことはなかった。

「昨日は遅くまで対応していたみたいだけど」

「ああ、なかなか納得してもらえなくて本当に大変だった」

 ふたつの光がふわりふわりと目的地に向かって飛びながら、世間話に花を咲かせる。

「同情はするけど、対応できないものは仕方ないからなぁ」

「とはいえ、ちゃんと話を聞いていない方にも問題はあると思う」

「確かに」

 素直な感想を述べると、楽しそうに隣の青い光が揺れた。

「まぁ、これが我々の仕事だからな」

「そうだね」

 ふわりふわりと向かう先は、世界樹の根元だ。通い慣れた道の両側は花畑になっていて、名前も知らない花々が美しく咲き乱れている。その色彩溢れるアーチを通り抜けた先、世界樹の根元にアカたちの仕事場があるのだ。

 そこには木材で作られた長方形の机と丸太をそのまま使った椅子が設置されており、その周囲にはいくつもの光の玉が浮かんでいる。

 アカたちからするとかなり大きなサイズではあるが、女神に近い人型をとっている上位の妖精やアカたちの上司には丁度良いサイズになっている。

「本日の席順を確認してください」

 人間に例えるとまだ子どもと言って差し支えない年頃の上司が、アカたちに呼びかける。少し舌ったらずな高音は幼い体相応のものだ。妖精たちは階級が上がって人型を得ると、はじめのうちは幼い姿をとる。そこから階級が上がるごとに少しずつその体も成長していくのだとか。初めて得た実体は慣れるまでが大変らしいと聞くので、階級が上がるのも良いことばかりではないのだなとアカは考えている。

 上司の席の隣に掲示された座席表を見て、指定された座席まで移動する。業務の都合上、仕事中のみ呼び分け用の名前が与えられており、アカは「アカ-003840」という識別名で仕事をしている。

 机には大きなディスプレイとキーボード、それからいくつかのスイッチとランプに、スタンドに固定されたヘッドセットがある。アカは詳しくないが、どこかの世界にあるコールセンターという場所をモデルにしているらしい。

 ディスプレイのスイッチを入れて仕事の準備を始めていると、上司から待機状態に切り替えるよう全員に指示がある。

「今日は穏やかにすむと良いなぁ」

 隣に配置されていたアオがぼやくのを聞きながら、アカもそうだねと頷いた。


 ***


 このエフェメラルクで世界樹と呼ばれているその樹は、この国が成るはるか昔から存在していたという。

 その幹は太古から存在していたという証のように大きく太く、その壮大さは冗談でも一周してみようと考えるものは居ないだろうと言われているくらいだ。そんな立派な幹から伸びる数多の枝葉はのびのびと空に向かい、思い思いに実をつけている。

 世界樹の根元から空を見上げようとしても、その視界の殆どは世界樹に占められてしまう。それほどまでに大きな樹が、この国の象徴だ。

 だが、世界樹はただの樹ではない。名前のとおりこの世界を構成している柱であり、他の世界との繋がりを保つための楔の役割を果たしているのだ。

 そしてその世界樹を司る女神は、繋がりのある数多の世界の中から選別した魂を、世界樹を通してさらに他の世界へと送り出し、転生させる力を持っている。

 アカたち末端の妖精の仕事は、そうして転生を果たした数多くの「転生者」たちの管理とサポートをすることなのだ。


 手元のスイッチを応答可能状態に切り替えると、ほどなくして目の前のランプが白く光る。

 いきなり引いてしまうなんてツイてない。己の不運を嘆きながらも通話のスイッチを押すと、口上を述べた。

「こちら、転生者専用相談窓口でございます」

 構造が複雑すぎて細かい仕組みは理解ができないが、これは転生者が特別に使用できる念話の回線である。

 アカたち妖精も普段から念話を使用できるが、別の世界に住むものとの念話は不可能だ。それを可能にしているのが、業務でのみ使用している目の前の補助装置なのである。

「よかった繋がった!! なぁ困ってるんだ、助けてくれ!!」

 勢いよく飛び込んできた声に、アカはすぐに面倒な案件を引いたことを察してディスプレイを見る。

 この転生者専用相談窓口は特殊な仕様となっていて、転生者のみ利用可能である他、その人生で使用できるのは2回までと決められている。

 その為、入ってくる相談内容は傾向は多々あれど面倒なものが多くなりがちだ。その中でも、このように切羽詰まっている声の時は特に注意が必要なのである。

「いかがなさいましたか?」

 音声一致、念話回線一致。

 ディスプレイに1人の人間が映し出された。写真と共に種族、性別、転生時期、転生先の世界、転生時の希望といった個人情報が自動的に表示されていくのを眺める。

 転生時期を見ると、比較的最近転生した人間のようだ。

「俺にも何が何だか……とにかく、意味が分からないことになってて……」

「恐れ入りますが、具体的な内容をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 困っていることはわかるが、困っていることしかわからない。相談内容は簡潔かつ具体的にお願いしたい。そんな事を考えながら、なるべく冷たい印象を与えないように柔らかい声音を意識しながら念話を続ける。

「それが……今、はじまりの村にいるんだけど」

 転生先の世界は、魔王や勇者が存在する世界だ。勇者として旅立つ時には「はじまりの村」でチュートリアルと呼ばれる儀式を終えなければならない。

「儀式を達成できませんでしたか?」

 この世界のチュートリアルは、簡単な戦い方やアイテムの使い方、探索の仕方を丁寧に教えてくれる優しい仕様だったはずだ。それを達成できないとなると、勇者の素質が全くないと判断せざるを得ない。

 が、この転生者に関してそれはないはずだろうと、アカは転生時の希望を確認する。「強くてニューゲームがいい」そう書かれたディスプレイを見ながら訪ねると、弱り切った声が返ってきた。

「いや、その……実はまだチュートリアルの途中なんだ」

「はぁ」

 状況が読めない。相槌を打ちながら先を促すと、非常に言い難そうな声が続けた。

「その、森で戦い方を教えてもらってた時に……剣を軽く振ったら辺り一帯を吹き飛ばしちゃって」

「……左様でございますか」

 それは想定外だった。転生時の希望をどのような形で叶えたのかを確認して、これは本格的に面倒な案件かもしれないと思わずため息を吐きそうになるのをぐっと堪えた。

「ただいま転生者様のステータス等を確認いたしましたところ、レベル、ステータス値ともにカンスト、レア度最高の武具と防具を装備した、まさに強くてニューゲーム状態でして……転生時、女神よりはじめのうちは手加減をするようにご説明があったかと存じますが……」

 こんなステータス、魔王を倒した後にしか到達しないのではないだろうか。はじまりの村で全力のひと振りなんてしたら、一部とはいえ森が吹き飛ぶのも納得だ。不幸中の幸いだったのは、吹き飛んだのが村ではなかったという点だろうか。

「ぜんっぜん聞いてねぇし!?」

「いえ、確かにお伝えしたと申し送りがございまして。よろしければ当時の録画を確認させていただきますが」

「なんでそんなもんがあるんだよ!?」

 思わずと言った様子で突っ込んできた声に、アカはなるべく相手を刺激しないように穏やかに答える。

「こういったお問合せは多いので、皆さまによりご納得いただきやすい方法を採用しております」

 できることなら、ここで腹を立てて念話を切ってもらいたい。そうは思うが、人生でたった2回しか使えないチャンスを逃さないために、大体の転生者は食い下がってくるのだ。

「……まぁ、それは俺がちゃんと話を聞いてなかったんだから仕方ないとしても、今本当に困ってるんだ。村の人から人間に化けたモンスターか魔王なんじゃないかって疑われて、今牢屋に入れられてて……」

「左様でございますか」

 村人の対応も尤もだ。勇者候補だと思って歓迎した相手にいきなり目の前の森を吹き飛ばされたとしたら、どんなに平和ボケしていても危機感や恐怖を覚えるだろう。

「なぁ、この後どうしたらいいんだよ」

 ――そんなことを聞かれても。

 イレギュラーな問合せに、アカは過去の問い合わせ事例集とQ&Aを思い返す。

「心を込めてご説明するしか……」

「何度も言ったけど、信じてもらえないんだよぉ」

 じわりと湿り気を帯びてきた声にどうしたものかと少し考えてから、あっさりと降参した。

「確認いたしますので、このまま少々お待ちください」

「え、おい切るなよ!?」

「切りませんので、ご安心ください」

 言いながら念話を保留状態にすると、手元の赤いスイッチを押した。すると頭上で赤いランプが派手に点滅し、前方のデスクで仕事をしていた上司がすっ飛んできた。

「クレームですか?」

「えぇと、なんと言えば良いものか……あえて言うなら詰んだ案件というか」

「詰んだ案件ですか」

 幼い声が困惑しながら繰り返すのを聞きながら、アカはディスプレイの前に移動して問い合わせ内容を伝える。

「わたしも長くこの仕事をしていますが、はじまりの村で詰んだ方は初めてでして……」

「確かに珍しい話ですね」

 あどけない顔がむむむと顰められ、ふくふくした頬が赤くなる。対応を悩んでいるのだろう。そんな上司の様子をぼんやりと見守っていると、よしと声を上げてディスプレイを見ていた視線がアカに向く。

「わたしに考えがあります。ただ、特別対応の扱いになりますので、一度対応可能かの判断を仰がなくてはなりません。転生者さんには後ほど改めてご連絡するとお伝えして、一旦念話を終わらせてください」

「わかりました」

 慌てた様子で走って行く背中を見送りながら、アカは念話を再開した。

「大変お待たせしております」

「繋がった!! 良かった、見捨てられたかと思った~っ!!」

 湿度の増した声音と、ぐす、と鼻を啜る音に、相当不安だったのだろうと察する。

「大変恐縮ではございますが、現在対応について確認中でございまして……決まり次第、改めてこちらからご連絡差し上げたく存じます」

「え、それってどれくらい……?」

「確認でき次第としか……」

「何日もかかるってことか!?」

「今の時点ではわかりかねます」

「嘘だろぉ」

 情けない声を上げられても、すぐに答えが出ないものは仕方ないのだ。

「申し訳ありませんが、ご連絡をお待ちください」

「絶対、絶対連絡くれよ!?」

「承知いたしました」

 転生者をサポートすることが務めなのだ。いくらなんでも、このまま放置するなんてことはしない。

 不安そうな声を上げる転生者には申し訳ないが、こればかりは信じて待ってくれとお願いするしかない。

 念話を終えると、ディスプレイに映る転生者のデータに問い合わせ履歴を追加する。ステータスを要折り返し対応に切り替えて保存すると、隣で様子を伺っていたアオがこっそりと話しかけてくる。

「引きが強いな」

「全然嬉しくないけどね」

 この後も対応が続くのかと思うと、気が滅入る。浮かぶ気力もなく机の上に降りると、心配そうにアオが近付いてきた。

「スムーズに終わると良いな」

「本当にね」

「帰りに、ちょっと良い蜜を飲んでスカッとするか」

「それは良いねぇ」

 問い合わせてきた転生者には悪いが、これが自分たちの仕事なのだ。薄情と言われても、テンプレ対応と罵られても、そういう仕事なのだと割り切って仕事明けの楽しみのひとつでも用意しなければやっていられない。

「お、次はこっちか」

 アオの机のランプが白く点灯して問い合わせを告げる。それに気づいてふわふわと机に戻って行く青みがかった光を眺めながら、アカはディスプレイに映し出された転生者情報を憂鬱な気持ちで見上げたのだった。


 ***


 上司に呼ばれたのは、その後に入ってきた別の案件の対応を終えたタイミングだった。

 転生者からのお悩み相談窓口といっても、問い合わせの内容は様々だ。転生先についての苦情、現状に対する不満のようなクレームに近いものもあれば、何故か恋愛相談を持ち掛けられたりキャリアチェンジの相談まで受けることがある。

 人生に2回しかないチャンスを恋愛相談で使ってしまって良いのだろうかと思わなくもないが、本人からすればそれこそ人生をかけても良い重大な問題なのだろう。アカにはそういった色恋の話がイマイチ理解できないので、そういった相談をとった場合は速やかに別の担当者に転送するようにしている。

 余談ではあるが、今しがた受けたのは90年程前に転生した転生者で、希望通りの人生を送れたことに対する感謝の念話だった。もうじき人生を終えるだろうからと、最後の1回を使って連絡をくれたのだ。

 若いころに一度助けていただいたことがあるんですと懐かしむような声音からは、転生後の人生に心から満足しているのだという感情が滲んでいて、アカも意識せず穏やかに対応することができた。日々のクレームに荒んだ心が癒されていくのを感じながら、この転生者が次の生でも幸せになるように思わず願った。そんな心温まる念話の後だっただけに、気分が一気に下がるのを感じる。もう少し余韻に浸らせてくれても良かったのではないかと思うが、上司も狙ったわけではないのはわかっている。

 渋々上司の席まで飛んで行くと、小さな手で手元の資料をめくりながら上司がアカを見た。

「先ほどのお問い合わせの件について、対応が決まりました」

 その表情がどこか同情的なことに疑問と少しの不安を覚えながら続きを促すと、上司がさらに何とも言い難い表情で一度書類を見て、それからアカをもう一度見て言葉を選ぶように少し上を見る。

「……今回については、特別対応として転生者の元にナビゲーターを送り込むことになりました」

「ナビゲーター、ですか?」

 聞き慣れない言葉を繰り返すと、上司が頷く。

「近年、転生者の数が著しく増えているのは知っている?」

「はい。実際に問合せの件数も増加傾向にあると聞いています」

 アカが働き始めてまだ100年程しか経っていないが、それでもここ50年くらいで急に問い合わせが増えたように感じている。それは転生者が増えているということを示している。

「そう。女神様が転生するにふさわしいものを選別して転生させているわけだけど、転生者が増加しているせいなのか、やたらとクレームも増えているのよね」

「確かに、そうですね」

 転生するものを女神がどのように選別しているのか、それは誰も知らない。

 これまでの転生者リストから、いわゆる善人や悪人の区別はないらしいこと。前世である程度の知能があり、不慮の事故や病気で寿命を全うできずに心残りがあるものを選んでいる傾向があるということはわかっている。

 また、転生者は転生する際に女神との謁見が許されており、その際に転生についての希望を伝えることが出来る。基本的に転生する世界を希望しない限り、転生する世界は女神が選んでいるらしい。

 なお転生後の性別・種族・身分については希望がなければ基本的にランダム要素だというのは、窓口のQ&Aにも記載されている。

「基本的には転生者の希望をそのまま叶える形で転生先に送り出しているわけだけど、思っていた形ではない、そんな話は聞いていないといった問い合わせが多くて。所謂、トリセツを読まない人たちね」

「はぁ」

 アカからすると自分の人生に関わる大事な話をちゃんと聞いていない方が悪いと思うのだが、違うのだろうか。

「それを受けて、上層部の方では以前からそういう転生者たちへの対応をずっと検討していたそうなんだけど」

「それがナビゲーターですか?」

 少しずつ嫌な予感がしてきて思わず後ろに下がってしまうが、上司は気にせずに距離を詰めてくる。

「トリセツを読まないのなら、トリセツを側に置いておけば良いじゃない作戦よ!」

 両手を握ってふんと意気込む上司はまるで愛らしい子どものようだが、内容には不安しかない。

「つまり、その、ナビゲーターというのは……」

「アカ-003840」

「はいっ」

 突然識別名で呼ばれて、思わず飛び上がる。

「貴方に特別任務を言い渡します」

「えっ」

 全力でお断りしたい。そんな動揺が出てしまったのだろう、自身が激しく明滅しているのを感じながらもなんとか回避できないかと必死に考える。

「あの、わたしのようなものには少し荷が勝っていると言いますか……」

「大丈夫、貴方は当窓口でも経験豊富なスタッフです。外に出しても何ら問題はないと判断しました」

「いえいえ、そんなことはっ」

「大丈夫です。今回は初めての例ということで、当窓口だけではなく他部署からも全面的な支援を約束されていますし、今回の案件が無事に収束すれば貴方の階級を上げる話も出ています」

「ひぇっ」

 なんということだろう。既に逃げ道は残されていない。他部署からも全面支援されるとなると、本件については既にアカが担当であることも周知済みということだ。もし今断った場合、仕事を放り投げた妖精として悪い評判がたってしまうかもしれない。そうなれば働きにくくなるのは火を見るより明らかだ。もしかしたら末端の癖に仕事を断るなんて生意気だと嫌がらせを受けるかもしれない。なにごともなく穏やかに日々を暮らしていきたいだけで、階級を上げたいなんて野心を抱いたこともないのに。

 どうしてこうなったのだろう。

 先ほど問い合わせて来た転生者の情けない声を思い出して、腹が立ってきた。

 どうせ断れないのなら、思いっきり文句を言ってやろう。どうせなら、このナビゲーターは役立たずだとチェンジを申し出てもらえないだろうか。そうだ、そうすれば仕事のできないダメ妖精として戻してもらえるかもしれない。

 ただの思い付きだったそれがとても良い考えのように思えて、アカはゆっくりと上司を見た。

「……善処します」

「期待していますよ」

 期待が重い。

 満面の笑顔で頷かれて、アカは自分が人型でなくて良かったと心から思った。きっと今、ものすごい表情を浮かべたであろう自信がある。

「それではこれを」

「……これは?」

 上司が手にしたのは、アカより少し小さなサイズのスタンプだった。

「ここから他の世界へ渡るときに必要な通行証です。これは一時的なもので、有効なのは1往復分となりますから忘れないように」

 見たことのないキラキラとした光が凝縮されたスタンプ台にスタンプを軽く押し付けると、それをアカにそっとくっ付ける。実体のないアカのような妖精にも押せるらしい特殊なスタンプを不思議な気分で眺めていると、スタンプが離れていく。

「これで大丈夫。それからこれも」

 渡されたのは、アカが扱うのにちょうど良い大きさのタブレット端末だった。触れるとロックが解除されて、見覚えのある転生者情報が表示された。

「これには問い合わせてきた転生者の情報と、その世界の情報が全て入っています。普通の人間では閲覧できないので問題はないかと思いますが、失くしたりしないように注意してください。それからこちらは業務でも使用しているヘッドセットを貴方が使いやすいように改良したものです。不測の事態が起こった際にはこれで念話を飛ばしてください」

「わかりました」

「そしてこれらを持ち運ぶために貴方の権限を少し上げましたので、いくつか簡単な魔法が使えるようになっているはずです。初級の空間魔法である空間収納魔法も使えますので、そこに保管するように」

「おぉ~」

 乗り気のしない仕事ではあるが、魔法が使えるようになったのは嬉しい。一度どこかに置かなければ使えないタブレットも、浮かばないかなと考えただけで風が起こって軽々と持ち上がる。仕舞いたいと思えば、すぐ側の空間が揺れてそこから収納スペースに仕舞われていく。

 これまで魔法を使えなくても問題ないと思っていたが、使ってみるととても便利だ。

 思わず感嘆の声を上げたアカを微笑ましく眺めていた上司が、両手をポンと合わせた。

「業務の目標としては、転生者の意向に沿って問題を解決すること。解決するまでは基本的に出張扱いとします。手当もちゃんとつけるから安心してちょうだいね」

 手当は要らないから別の妖精に仕事を変わって欲しい。そんな本音が零れそうになりながらもわかりましたと答えれば、上司が満足そうに頷いた。


 ***


 上司に連れられて世界樹の根元のさらに奥、中心部に近い場所で待っていた別の担当者に引き継がれ、上司が手を振って見送るのを見ながら昇降機に乗ってひたすら上へと昇って行く。

 世界樹の中まで来たのは初めてだ。こんな風になっているのかと、物珍しさからつい辺りを見渡してしまう。

 この中で働いているのは、階級が中位から上位の妖精たちだ。今アカと一緒に昇降機に乗っているのも、恐らく上位の妖精だろう。人型だが上司よりも成長した姿になっている。人型の年齢はわかりにくいが、恐らく10代後半から20代半ばくらいだろうか。

 妖精たちは階級が上がるのに合わせて外見が女神に近づいていくと聞いているので、より成長している方が階級が上というわけだ。

「——緊張していますか?」

 不意に話しかけられて、思わず飛び上がってしまう。落ち着きなくあちこちを見ていたのを窘められてしまうだろうか。

「その、少し……」

「突然決まった話ですし、不安に思うのも当然です」

 恐る恐る答えれば、アオと同じ色をした目がこちらを優しく見る。そう言えば、あれよあれよとここまで来てしまって、アオに何も話せていないことに気が付いた。帰りに蜜を飲みに行けなくなったと伝えたかったが、仕方ないだろう。無事に帰ってくることができたら、その時に謝ろう。

「貴方には負担が大きいのではないかと心配するものも居ましたが、わたしは、あなたならきっと転生者を良い

方向へ導いてくれると信じています」

「あ、ありがとうございます……」

 一介の、しかも末端の末端であるアカを何故そんなに信じているのか。アカ自身ですら、この仕事を無事に終わらせることができるかわからないのに。

「大丈夫、わたしたちはあなたを全力でサポートしますから」

 にこりと浮かべた笑みは美醜に疎いアカでも美しいと感じる魅力的なもので、なんだかふわふわとした気分でもう一度「ありがとうございます」と伝えるのが精いっぱいだった。

「もうすぐゲートに着きます。スタンプは……大丈夫ですね」

「はい」

「これは特殊なインクが使われているので、擦ったり水やお湯で流してもとれたりはしないので安心してください」

「はい」

 昇降機がゆるやかに上昇を止め、目の前に立派な幹が見える。担当者が歩く後ろを付いて行くと、なんとなく周りの視線がアカに向けられているのを感じる。人型の妖精ばかりのフロアでは、アカのような下位の妖精は目立つのだろう。

 気まずい空気の中を進め続け、まだ先なのだろうかと不安になったころにようやく担当者が足を止めて振り返った。

「こちらがゲートです」

 そう言って指し示したのは、一見すると何の変哲もない木製の扉だった。そのドアノブにポケットから取り出した鍵を差し込んでゆっくりと回すと鍵を抜き、扉を開けていく。

 扉の中は空間が歪んでいるのか、向こう側の景色がぐにゃぐにゃと揺れていてよく見えない。まるで池に石を投げ込んで波紋が生まれた時のようだ。

「このまま真っ直ぐに進んでいけば、転生者の待つはじまりの村に辿り着きます」

「わかりました」

 もう逃げられない。

 先ほどから何度も考えた言葉が、再び脳裏を過ぎる。本気で逃げたかったわけではないが、どこか現実感のなかったそれが、扉を前にして急に襲ってきたのだ。

「——やめますか?」

 扉を前に動けなくなっているアカに、優しい声が降ってくる。やめても良いのだと言われている気がしたが、ここまで来てやめるのは何故か違う気がして頷けない。

「……いえ、行きます」

 大丈夫だ。別に死ぬわけではないし、転生者の悩みごとを解決さえすればすぐに帰ってこれるのだ。

 なにごとも勢いが肝心だと、同じ窓口を担当しているピンクも言っていた。

 そっと扉に近づいてゆらゆらと揺れる面に体を押し付けるようにすると、膜のようなものに包まれる感触がして一瞬すべての感覚が遠のく。そのまま前に進もうともがいていると、唐突に包んでいたものから解放されて体がころころと地面に転がった。

「……着いた?」

 実体があるわけではないがなんとなくあの膜の感触が残っている気がして、地面から少し浮かび上がるとふるふると体を震わせる。

 すっきりとした気分で振り返ると、通ってきたはずの扉はどこにもなかった。

 ふと上を見上げると、そこには見慣れたエフェメラルクの空とは違う真っ青な空が広がっていた。

 本当に別の世界にやって来たのだと実感して、アカは気合を入れ直した。

「よし。アカ-003840、任務開始します」

 森に囲まれた道の先。そこに見える集落を目指して、アカはゆっくりと進み始めたのだった。


 続

少しずつ続きを投稿できたらと思います。

よろしくお願いいたします。

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