唯一の娯楽
私の一生は充実したものだった。
貧しい生まれだったが苦学して職を得た。最初の会社にしばらく勤めた後、一念発起して起業するも失敗。ドン底を味わうこととなったが、幸いにもそこで生涯の伴侶と出会い、また一からやり直すことができた。以降、小さな失敗はありながらも順当に事業を拡大し、それなりに大きな企業の創業者として、私は地位と名誉とお金を得た。家族にも恵まれた。
事態が暗転したのは1ヶ月前。手の施しようのない病に体が侵されていることが分かったのだ。
最初は飲み込めなかった。今日まで現役で会社を経営してきた自分が1ヶ月後には死ぬという実感がどうしても湧かなかった。事態が飲み込めるとなぜ自分がという激しい怒りを感じた。そして恐怖。自分が消えてなくなるというのはどういうことなのだろう。現代科学は発達していると思っていたが、死ななければならないという点においては私も原始人と変わりない。そんな無力さを感じた。
死んだらどうなるのだろう。私はなぜ生まれてきたのだろう。そんな、長い間忘れていた疑問が頭の中を埋め尽くした。寝ても覚めてもそんなことを考える。
それから、昨日できたことが今日はできなくなるという日が続いた。歩けなくなる。一人で用が足せなくなる。ベットで身を起こせなくなる。うがいができなくなる。寝返りが打てなくなる。最後には呼吸さえ満足には。
まるで早回しに赤ちゃんに戻っていくようだ。
起きている時間も短くなり、寝ている時間がずいぶん長くなった。また、起きている時も夢の中のような感じがする。
「あなた。行かないで。まだ、早すぎるわ」
「お父さん、死んじゃいや」
枕元で誰かが泣いている。ああ、妻と娘か。その声は目覚まし時計が夢から人を引きずり出すように高く響いている。
意識が遠のく度に家族の声が私を現実に引き戻す。
次第に全てがぼやけてゆく。
夢を見る。幼い頃の夢。お金がなくて買えなかったお菓子をたくさん買ってお腹いっぱい食べる夢。チョコレートにクッキーに飴玉。
「——!——!」
誰かに呼ばれた気がしてうっすら目を開ける。誰かが泣いている。
全てがぼんやりと溶けていく。チョコレートも、クッキーも、飴玉も、お金も、地位も、名誉も、家族も。
「——」
音がする。息をする。
そんなことが何度かあった。
私が眠るのを妨げていた音も、だんだんと低く、か細く——。
※※※
目を覚ます。
何か刺激に満ち溢れ、楽しい夢を見ていた気がする。実際そのような夢を見ていたのだ。
睡眠装置を外す。
「おはようございます。52年間の睡眠お疲れ様でした」
人工知能の擬似音声が人と寸分違わぬ声で話しかけてくる。
「留守の間、問題はなかったか?」
「はい。ございません」
科学が発展した今日において、問題など起ころうはずもない。にもかかわらずそのような言葉が口をついて出たのは、夢の世界のように問題が起こりそれを解決するために苦心するという経験を味わいたかったからかもしれない。
窓の外には白銀の構造物——その幾らかは宇宙まで伸びている——が林立している。その中には私と同じ全知全能の人間が住んでいる。
構造物は美しいが、1秒だって窓の外の景色を見る気がしなかった。何しろ何万年も見てきて見飽きているのだ。
およそ全ての謎を解き明かし、文明の極致に達した人類にはもう「やること」がない。かといって死のうという気にもならない。そんな私達に残された唯一の娯楽は、夢だ。
一切の記憶を一旦凍結し、人々が未完成の科学と迷信の中で逞しく生きていた時代を擬似的に体験する。そこには、葛藤、苦悩、不条理、不安、緊張といった現代では一掃されてしまった貴重な刺激がある。
「さて、今度は大昔の戦争というものがあった時代に生まれてみるか。医療技術も発達していなくて、癌さえ治せなかった時代に設定して……」
私は、次に見る夢にワクワクしながら装置を設定する。