#8 斜陽
街中で突然に発生したデータクラッシュによって、ヒロセ町とその周辺は丸ごと消し飛んだ。
巻き込まれた人間は二千人以上、その半数は未だに発見すらできず、発見できた残りの半数も重度のバグにより地下へ封印されることになった。近くにあった大型の病院も飲み込まれたため、二次的な影響はまだ広がっていくだろう。
フロートのいた場所は、爆心地のすぐ近くだった。
体の一部すら見つからず、残ったのは彼女が使っていた松葉杖のみ。彼女がいたという証は、おおよそ黒いノイズとなり消え失せていた。
「ヴォイド君……今日はもう休んだらどうかしら?」
ロッカールームの扉を開けて、スーツ姿の女性が入ってくる。長いまつ毛の間で万華鏡のように輝く虹色の瞳が特徴的な人だ。腕には防衛隊が着けるカッコウの腕章……より少しだけ刺繍が豪華な、隊長の証が嵌められている。
彼女がこの防衛隊のリーダー、シンだ。
蠱惑的な垂れ目を優しげに細めて、シンはコンビニのビニール袋から赤キャップのお茶を取り出すとヴォイドの隣に置いた。自身は袋からホットの缶コーヒーを取り出すと、ヴォイドの隣のベンチに腰掛ける。
「知り合いに空き家を紹介してもらったわ。明日には入れるそうよ」
「……ありがとうございます、隊長」
「今日は、兵舎の仮眠室で休んでいくといいわ」
「いえ……まだ、やることがあるので」
差し出されたお茶を少しだけ口に含んで、ヴォイドは立ち上がる。
「あいつの松葉杖を、洗浄屋が解析しています。もうそろそろ、結果が出るはずです」
「……どうするつもり?」
「あいつを……探します。全部、見つかるまで」
データクラッシュで物は消えない。細かく分裂し、他の物と混ざり合って、判別がつかなくなるだけだ。本人のデータの一部があれば、残りの場所を探すことはできる。
「辛い作業になるわよ」
「このままよりはずっとマシです。あの杖だけを遺品代りに全て諦めるより、ずっと……」
荷物をまとめて肩に掛け、ヴォイドはシンに背を向ける。そのままロッカールームを出て行こうとする彼を、シンは躊躇いがちに呼び止めた。
「ヴォイド君……データクラッシュしたものは、二度と元に戻らないのよ」
それは彼女なりの優しさだったのだろう。しかしヴォイドは僅かに顔を顰め、せめてそれを見せないようにそのまま扉を閉めた。
データクラッシュしたものは、二度と元に戻らない。
それはヴォイドが一番良く知っている。ずっとそれを覆そうとして、失敗してきた。きっと今回も同じ結果だろう。内心ではそれがわかっているのに、ヴォイドは目を背け続けている。
黄昏時の街を虚ろな目で歩くヴォイドの耳に、夕焼け小焼けのチャイムが飛び込んできた。顔を上げれば、橙色の雲が点描された空に暗い藍色が混ざってきている。通りの向こうの公園から聞こえる子供たちの声。トントンと乾いた音を立てて、土色に汚れたサッカーボールが視界の端を転がっていく。
もうそんな時間か、と空を見上げているとノスタルジックなメロディにやけに近代的な通知音が混ざった。視線を向けることすらせずに、ヴォイドはホログラムを弄り通信を繋ぐ。
『もしもし、ヴォイド君? 聞こえてっかな』
「……ベクターか」
今は長く話すような気力がない。短く済ませてくれ、と言いかけたところで、通話の裏で聞こえるグラスがぶつかる音と無数の喧騒に気が付く。
「もう飲んでるのか。悪いが、今日は付き合う気分じゃない」
『いや、ダブルちゃんを見てたらそっちも心配になったから声をかけただけだ。それに飲んでるのはオレじゃなくて……』
『ベクタァ……なんのんびり話しとるんじゃあ? もっと飲みんしゃい』
『おい、ダブルちゃん、もっとペース落とせって』
『うるさいのぉ……ウチはまだまだ飲み足りんのじゃ』
……もう出来上がってやがる。まだ六時だぞ。
呂律は回らないのにやたらと口がましいダブルに、ヴォイドとベクターが同時に唸る。ベクターには悪いが、その場に居なくて心底良かったと思った。
「……ダブル、あまり飲みすぎるなよ」
『これが飲まずにおられるかぁ! 知り合いが何人も消し飛んで、一番のダチも、フーちゃんも……うぅ……』
「…………」
『新作のジャケット、試着してもらうん楽しみにしとったのに……どうして皆いなくなるんじゃ……ウチに誰かを守る生き方はできんっちゅうんか……』
……そうだ。ダブルもフロートという親友を失っていた。ダブルが作った服をフロートが試着したり、二人でカフェ巡りをしたり、休日は大体一緒にいると言っていいくらいに二人は仲が良かった。
『ダブルちゃん、いい加減にしろよ。ヴォイドに絡むのも止めろって。酒ならオレが付き合うからさ……。ああ、くそ。完全に泣き上戸モードだ』
「……ベクター、そいつのことは頼んだ。俺には何かできる気がしない」
『わーってる。昔からの腐れ縁だ、荒れてるダブルちゃんを放っておくと危険なのは良く知ってるからな……。ヴォイドくんも、飲みたくなったらいつでも来いよ。席は取っておくから』
「いや、いい。面倒くさい時のそいつと一緒に飲みたくない」
『そっか……』
ベクターは少し疲れが滲む声で残念そうに呟いた。兄貴分を気取っているが、本当はヘルプが欲しかったのかもしれない。
「悪いな、色々と任せてしまって。事務処理もやってくれたんだろ」
『良いんだ、辛いときはお互い様だろ。……っと、そうだ、事務処理で思い出した。洗浄屋さんからお前に伝言だ。「確認したいことがあるから後で電話してくれ」だとさ』
「あいつが? ……わかった」
洗浄屋に電話……頼んでいたことについて、何か分かったのだろうか。
ベクターとの通信を切り、ヴォイドはホログラムの中の洗浄屋のアドレスを叩く。受話器のボタンに手を伸ばした丁度その時、画面が勝手に切り替わり指先は空を切った。耳の奥に響くように、再び通信の着信音が鳴り響く。
今度は誰だと名前の欄を見てみれば、相手は件の洗浄屋だった。
『壁抜け君、ちょっといいかな?』
「なんだ」
『事件の後の、君たちの部屋の様子を聞きたいんだ』
「なんでお前にそんなこと……」
『いいから。思い出せる限りで、言葉にしてくれ』
鉛のように重たいため息を吐き、ヴォイドは記憶の中の景色を言葉で再現していく。黒いノイズ、消えかけの照明、風穴の開いた床や壁に、主人のいないソファと松葉杖……。
そこまで思い出したところで、胸の奥から急激に吐き気が込み上げてきた。シンからもらったお茶で、無理矢理それを飲み込む。その様子を察したのか、洗浄屋は慌てたように『もう十分だ』と言った。
『なるほど、大体わかった。ひとまず、こっちに来てくれるかな?』
「あぁ、今向かっている。もうすぐ着く」
言葉の通り、次の角を曲がるとすぐに目的の工房が見えてきた。古めかしい看板を見上げ、薄汚れたアスファルトの階段を登ると、何年物かもわからない古びた扉を叩く。ガタガタと耳に響く騒音を聞きながら数分待って、痺れを切らしてもう一度ノックしようとしたところで、ようやく工房の主が玄関に現れた。
「うん、いいところに来た」
「数分は待ったぞ」
「気にするほどじゃない。それはそうと、見てもらいたいものがあるんだ」
なんだか洗浄屋の顔色が悪い。少し無理をさせたかと心配しつつも、洗浄屋に導かれてヴォイドは工房の奥に進む。酷く燻んだドアノブを捻ると、大層な埃を被った机とその上で絢爛と輝くホログラムが目に入った。
ソフトの知識もあるとはいえ、洗浄屋の専門はハードウェアだったはずだ。ここまで本腰を入れてソフトを弄るなんて珍しいと思いながら、ヴォイドは半透明な画面を眺める。
「……こいつは、あの『透明化』のトリガーか?」
「そう。ハッカー君へのプレゼントにと、君にあげたやつのコピーさ。急いでデコードしたけど……わかるかい?」
複数の画面にずらりと並ぶ英数字を、ヴォイドは順に目で追っていく。フロートと違い専門ではなかったが、随分昔に勉強したので彼にも多少は知識がある。内容をおおよそ噛み砕いて、彼は恐る恐る口を開いた。
「まさか……バックドアか」
「正解。不正アクセスのために意図的に作られた、システムの裏口……パッと見でわからないようにされているけれど、間違いない。
バックドアはプログラムが稼働している間しか使えないけれど……これが仕込まれているのはコネクタコード、あの白いチップの状態だと常に起動しているプログラムだ。つまり、私があれを君に渡してからの情報は全て、誰かに抜かれている可能性がある」
洗浄屋は画面から部屋の隅へ視線を移す。そこには、フロートが使っていた松葉杖が立てかけてあった。
「……あの杖を受け取ったときから、おかしいとは思っていたんだ。爆心地の近くにあった物にしてはデータの損傷が無さすぎる。君に教えてもらった部屋の様子もそうだ。建物の入り口や階段の被害と比べても、壁や床のデータ変質が異様に少ない。
もしも、本当の爆心地がハッカー君の近く……いや、彼女の持っていたトリガーチップだったとしたら。もしもあれが『爆心地付近を巻き込まないように制御できるデータクラッシュ』だったとしたら……」
言わんとしていることを察して、ヴォイドの目に僅かな光が宿った。彼は洗浄屋の肩を掴み、問いただすように揺さぶる。
「あいつは、無事なのか⁉」
「……わからない」
「データクラッシュには巻き込まれなかったと言ったな⁉ まだデータは残っているのか⁉」
ヴォイドとは対照的に、洗浄屋は顔を曇らせる。首を横に振らないものの、素直に頷くこともせずに、答えを渋るように目を逸らす。
「……これは警告だよ、壁抜け君。不用意に探りを入れて、気づかずに踏み込んでしまう前に前に言っておく。これ以上、この件には踏み込まない方がいい。
データクラッシュの制御……そんなことができるとは思わないが、もし私の推測が当たっていたら、この事件の裏に居るのはこの世界でも屈指の厄ネタだ。係わるべきじゃない」
データクラッシュはあらゆるものを無差別に、無秩序に巻き込み、崩壊させる。根本の仕組みはトリガーと同じバグの一種だが、あまりに挙動が複雑なために挙動の予測は不可能に近い。その制御なんてもってのほかだ。
しかし、もしそんな所業が可能だとしたら。
そんな不可能を可能にする技術とメモリを併せ持つ人間がいるとしたら。
「データクラッシュの制御は、我々にとっていわば神の領域だ。普通のトリガーでは介入できないような深層の処理にまで強引に介入するのと同義なんだよ。そんなことができる相手なら、ただのトリガーだけで対抗できるわけがない。
君は確かに強い。あの子の作った『壁抜け』も強力なトリガーだよ。でも、この先には進んじゃいけない。例えあの子が居るとしても、この先にあるのは禁足地だ。君でも帰ってこられる保証はない」
データクラッシュに積極的に関わるのは危険だ。近づくほど、長く触れるほどバグに呑まれるリスクは上がる。特にヴォイドは一度データクラッシュを経験しているため影響を受けやすい。前は幸運にも生還できたが、次はないだろう。
それでも……。
「……諦めろってか」
「そうだ」
「元通りの生活をできるようにするって、約束したんだ……それなのに、あいつのことを忘れてのうのうと俺だけ生き延びろって言うのかよ!」
ヴォイドの叫声が響いて、残響が消えた後、薄暗い部屋をしばらくの静寂が包んだ。安っぽい電灯が不規則に立てるカンカンという音が時間の経過を時計のように刻んでいた。
洗浄屋は、長く葛藤していた。フロートとの縁が長いのは洗浄屋も同じだ。それでも洗浄屋は首を確りと横に振り、ヴォイドの目を睨み返した。
「……私がこれを見せたのは、あの子のためじゃない! 君のためだ!
あの子に戻ってきて欲しいのは私も同じだよ。あの子は大切な友達だ。このままで良いなんて言えるわけがないだろう⁉ だが、あの子と同じくらいに、私は君のことも大切に思っている! あの子と同じくらい、君にも消えてほしくない! もうこれ以上、誰にも居なくなってほしくないんだ!」
ヴォイドの手に籠った力が少し緩む。洗浄屋は同情のような、悲哀のような色を目に浮かべ、彼の手を払い除けた。
「……あの子が望んでいたのは普通の生活じゃない。君もわかっているだろう?」
顔を逸らすようにヴォイドに背を向け、そのまま中性的なエプロン姿は部屋の外へと消える。
部屋に取り残され、どうすればいいのかもわからなくなり、ヴォイドはただ一人舌打ちを漏らした。
・防衛隊新人隊員のメモ:「ホログラム」
所有者、および許可された人間しか触れない半透明なタッチパネル。初期設定では明るい水色だが、設定で色を変更できる。
アルカディアの住民には標準で「ユーザー・インターフェイス(UI)」という機能が配られており、物理的な端末無しで通話やカメラ機能、メモ帳などのアプリを扱うことができる。これは事前に設定した動作により開くことができる。メモリを割り振れば、この機能上でゲームを遊ぶことも可能。