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#3 雪の女王

 廊下の壁の向こうから、フロートの上機嫌な歌声が聞こえてくる。

 「半端者だけど、どうか僕を受け入れて」という純粋無垢なラブソング。すっかり聞きなれた、彼女のお気に入りの歌だ。

 自身の部屋に荷物とコートを置いて居間に戻ると、豆板醤と甜麺醤の甘辛い香りがヴォイドの鼻を突く。ダイニングテーブルに目を向けると、回鍋肉の定食が二人分、向かい合わせで並んでいる。ちょうどキッチンから出てきたフロートからグラス二つとサラダ用のドレッシングを受け取り卓上に並べると、彼は奥の方の席についた。

「先に食ってても良かったのに」

「一緒に食べることに意味があるの」

 二人のグラスに水を注いで、ヴォイドはいただきますと手を合わせてから箸を取る。反対側の席に座ったフロートは子供を嗜めるように人差し指を振った。

「こうでもしないと、ヴォイドは栄養剤だけで済ませちゃうでしょ? ブドウ糖とビタミン類だけで生きられるからって、角砂糖と錠剤だけで生活するわけにはいかないじゃない。人間らしさを忘れないためにも、こういうことはしておかなきゃ」

「人間らしさ、ね……。そんなもの、そう簡単に忘れやしないだろ」

 肉とキャベツを同時に口へ運びながら、ヴォイドはぼやく。一か月くらい前のやつと微妙に味付けが変わっている。多分、変わったのは豆鼓の味覚データだろうか。それに加えて、以前と比べてキャベツがしっとりしていない。おかげで柔らかな肉の旨味による質の満足感とシャキシャキとした野菜の食感による量の満足感が同時に味わえる。

「……旨い」

「むふふ~、やった♪」

 しばらく仏頂面で咀嚼してから観念したようにつぶやくと、フロートは自慢げに笑った。


 食事という概念はこの電脳世界にもある。

 この世界で摂取したものに合わせて、現実世界でコンピューターに繋がれている脳にも栄養素が供給される。糖分などを取った直後は脳細胞の働きが落ちるため、そのタイミングを任意で変えられるようになっているらしい。一応、食事をしなくても一定時間が経てば勝手に栄養が供給されるらしいが、大半の人間は仮想世界の中でもちゃんと食事を取る。

 しかし、脳は最低限の栄養素があれば生存はできる。摂取する際に味や匂いは何も意味がない。そういったものは、ただの嗜好品だ。無駄などころか、味覚情報の購入や味覚・嗅覚の維持にかなりのメモリが必要になる。

 それでも、効率を捨てて「あえて」の選択肢を取る人はいる。そういう人々は料理人を自称する者たちが作る味覚信号のデータセットを購入したり、自分で味覚データをブレンドしたりして、現実世界と同じように食卓を囲う。

 フロートも、そういう類の人間だった。


「料理の味も、盛り付けの見た目も、確かに脳への信号を再現した偽物だよ。でも偽物だからって無視しつづけたら、いつか本物がどんなだったかも忘れちゃうかもしれない。この世界はそういう場所。ヴォイドはよく知ってるでしょ?」

「……まぁ」

「すべてがデータ上の存在でしかないこの世界では、不変のものなんてありえない。どんな風にでも変われるからこそ、いつまで同じでいられるかわからない。だから、今持っているものは大事にしなきゃ」

 全てが仮想の産物であるこの世界では、あらゆる不可能が可能になる。それは決して良い方向に限らない。現実における質量やエネルギーの保存則のような最低限の保証すらこの世界には無いのだ。どこかのゼロがイチに、イチがゼロになるだけで、どんなものも容易く崩れてしまう。

 ……まあ、それも結局は理論上の話だ。


 茶碗に残った白米を肉とキャベツと共に飲み込むと、ヴォイドは少し意地悪な笑みを浮かべる。

「お前が言うと説得力が違うな。どんなデータも改変できる防衛隊専属の有能ハッカーさん」

 茶化すようにそう言って、ヴォイドは懐から一枚のチップを取り出す。メモリキューブと一緒に洗浄屋から渡された、あのトリガーだ。彼はそれを机の上に差し出そうとするが、その時には既にチップは彼の手の中から消えていた。

「新しいトリガー! どんなやつ、これ⁉」

 気がつくと、チップはすでにフロートの手元にあった。目を煌めかせ左の義手でチップをこねくり回しながら、右の手では空中のホログラムに目にも止まらぬ速さでタイピングをしている。

 相変わらずのプログラミングオタクぶりだ。

 彼女のこの情熱ばかりは、昔からずっと変わらない。

「透明化だとさ。かなり長いコードみたいだが、作り主は芸術家かヘタクソか、どっちだろうな」

「見たことないコードだね……。しかも、かなりの下層にまで侵入しようとしてる。ここまでくるとアンチチートもかなり厳重なはずだけど……ん〜……?」

「はいはい、そこまで」

「あ、ちょっ……!」

 夕食もそこそこに仕事モードに戻りかけていたフロートを引き戻すように、ヴォイドは彼女の手から小さなチップを取り上げる。アルカディア屈指と名高いプログラマーのオーラは一気に鳴りを潜め、フロートはまるでおもちゃを取り上げられた子供のように頬を膨らませた。

「むぅ~……」

「お前、明日はキャラバン隊との打ち合わせがあるだろ。俺は早朝訓練があるから起こせないぞ。ただでさえ朝は苦手なんだから、今から弄るのは止めとけって」

「は~い……」

 フロートは未練がましく白いチップを見つめながら、しょんぼりと肩を落とす。

 今見せたのは失敗だったかもしれない。

 ヴォイドは呆れ混じりの笑いを零すと、こっそり奪われることがないように白いチップをジップ付きのポケットへと収めた。


「そんな顔するなって。渡すものはまだあるしな」

「?」

 空になった二人の皿を手の上に積み上げ、ヴォイドはキッチンへ向かう。米粒と辛味噌が僅かに残る食器を水に漬けて、冷蔵庫を開けると、上段に隠すように置かれていた箱を引き出した。暗いチョコレート色をした、ここらでは有名な洋菓子店の箱。あっと声を漏らすフロートに、ヴォイドはわざとらしく口角を上げる。

「これ、なんだ?」

「もしかして、エヴァンの……」

「ガトーならドゥジャが一番、だよな?」

「うん、うん!」

 どうやらサプライズは成功したらしい。フロートの前で箱を開くと、彼女の瞳が先ほどのトリガーを見た時と同じくらいに輝いた。チョコとナッツが上品に香る、シンプルイズベストな見た目のチョコレートケーキ。これの為にだいぶ無茶をしたが、それだけの価値はあった気がした。

「中華の後には合わないかもしれないけど」

「いやいや、すっごく嬉しい! でも、急にどうしたの?」

「店の人と知り合ってな」

「…………アシメの女の人?」

「いや、ダンディなパティシエの方だな」

 ケーキの隣にマンデリンのブラックを添えて、ヴォイドは台所へ皿洗いに戻る。蕩けそうなほどに頬の緩み切ったフロートの嬉しそうな声を満足気に聞きながら、皿の目立つ汚れを落として食洗器へと放り込む。熱に弱い小鉢と水に漬けてあったフライパンを手洗いしてキッチンペーパーで水気を切れば、大体の洗い物は完了だ。

 コーヒーを注いだ自分用のマグを片手に、ヴォイドは部屋に戻ろうとする。既にケーキを半分ほど減らしていたフロートは首を180度回転させ、少しムースの残るフォークでケーキを指す。

「ヴォイドはケーキ食べないの?」

「偶々貰えたのが一つだけだったからな。全部食っていいぞ」

「そっか。じゃあ、今度は一緒に食べに行こうね。二人で」

「あ、あぁ……」

 正直言って、あの店は雰囲気が上品すぎて入るのはだいぶ気後れする。フロートのためだし、一緒に行きはするが。

「ヴォイドって凄い量のメモリ持ってるのに、高級な店は苦手だよね」

「庶民派と言え。ああいうのは落ち着かないんだよ」

 確かに今のヴォイドはこの街でも有数のメモリ容量を持つが、別に豪勢な暮らしがしたいわけではない。抱え込んだ膨大なメモリも、危険と労働時間を対価に高給となっている仕事を生業にしたせいで得ただけのものだ。買うものも、買いに行く時間もないし……何より、彼にはメモリを集めて為さねばならないことがある。


 ヴォイドは廊下の手すりを指先でなぞりながら進み、玄関に一番近いドアを開く。

 四畳ほどの一室が彼の部屋だ。あるのはシングルのベッドと簡素なデスクだけ。決して大きくはない間取りだが、物の少ないシンプルな内装のせいでやけに広く見える。

 ヴォイドは椅子に腰掛けると、デスクの上にホログラムを開いた。エクセルを開き、家計簿に今日の分のメモリ収支を記入していく。

 今日の討伐人数は四人。各人のメモリ保有量は並み程度だったが、四人もいればかなりの量になった。市の税でだいぶ持っていかれてもそれなりに手元に残っている。

 収入と支出を入れてEnterを叩くと、右下の貯蓄の数値が最新のものに変わる。洗浄屋が提示してきたメモリ量にはまだ遠いが、それでも着実に近づいている。このペースなら目標達成まで五年ほど……いや、何かを切り詰めて消費分を節約すればもっと早く……。

 そこまで考えたところで、ヴォイドは考えるのを止めてホログラムを閉じた。

「……人間らしさ、か」

 フロートの言葉を反芻しながら、彼は部屋の奥のベッドに横たわる。筋肉質な彼の体を乗せても、ベッドは軋むどころか沈み込むこともない。

 深く息を吐いて、ヴォイドはゆっくりと目を閉じた。



 グサリ。

 鋭い痛みが胸を突き刺す。

 目を開くと、彼は真っ白な薙刀で串刺しにされていた。柄を握っているのは白いコートの男。殺意のこもった青い瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「恨みっこなしだ」

 傷口から何かが吸われていく。濡れた布が肌に貼り付くような圧迫感が全身を包む。肌が剥がれ骨が肉を突き破るような激痛が次第に大きくなっていく。

 彼は目を固く瞑った。瞼の裏には、いつもの三人と共に乾杯をした光景があった。三人の顔は凹凸の無いのっぺらぼうで、もう誰なのかもわからなかった。

 ブツリと音を立てて、彼の意識は途切れた。



 はっと目を覚ました彼は、慌てた様子で跳ね起きる。

 見渡すと、あたりは火の海だった。舞い上がる熱い灰が鼻腔と目を同時に刺激する。崩壊した建物を包む炎は、破損データの黒いノイズが混ざって血のような赤黒い色に変わっていた。

「……皆……俺は、守れなかったのか……」

 膝を着き、立ち上がろうとした瞬間、彼の腹部を激痛が走った。痛む場所を見下ろして、彼はおおよその状況を察した。守れなかったのは仲間だけではなかったらしい。

 視野にはノイズが走り、不規則な耳鳴りが最悪な気分をさらに悪化させる。それでも彼はゆらゆらと立ち上がって、あてもなく炎の中を彷徨った。恩人の家も、親友の仕事場も残っていない。未だ形を保っているものもあったが、それらもどうせ長くないであろうことは容易に想像がついた。

 もう、何も残っていない。

 一度、彼は諦めて膝を着こうとした。だが、それよりも先に、炎の中に白い光を見つけてしまった。彼は曇った表情のまま、その光の方へと歩いた。

「……ヴォイドか?」

 光の中で、青年は頷いた。

 光の正体は、彼が放出する膨大なメモリの塊だった。尋常ではない量のデータは全て、試作品のトリガーを介して彼の腕の中で眠る女性へと送られていた。力なく倒れたその女性と、その左半身を包む黒いノイズを見て、彼は疲れた顔でその場に座り込んだ。

「……データクラッシュに、巻き込まれたか」

「俺のせいだ……。俺が『壁抜け』を使いすぎて……だから、フロートが……」

 嗚咽するヴォイドから、彼は目を逸らす。

 トリガーの暴走に巻き込まれて壊れたデータは、二度と元に戻らないと言われている。トリガーを扱う者ならその覚悟はできているものだが、自分以外が巻き込まれるのはまた話が違う。何かを守るために戦っている人間は特に。

「とにかく移動しよう。ここはもう駄目だ。後続は追い返したが、多分まだ控えは残ってる」

 彼はトンファーと投げナイフを捨て、コートも脱ぎ去る。

 彼の体には「転送」のトリガーが仕込んであった。自分以外を転送するように作られてはいないが、方法がないわけではない。三人は無茶でも、二人なら。こんなボロボロの自分でも、あと一回だけなら。分の悪い賭けではあるが、二人が助かる方法はこれしか思いつかなかった。

 最後に残った予備のナイフを、ヴォイドの手に握らせる。何かを察したように、群青の瞳が揺れる。湧き上がる色々な感情を押し殺して、彼はヴォイドに笑顔を見せる。

「フロートを、頼んだ」

 迷う暇を与えないように、銃声に似た破裂音が響く。

 鋭い痛みが、彼の腹部を貫いた。

 最期まで笑顔を保ったまま、彼は目を閉じた。



 左手と左足に走った激痛で目を覚ます。

 何が起こっているのかわからない。痛みの発生源に目を遣ると、黒いノイズが手足を包んで、鷲掴みにされた蛇のように暴れまわっていた。

 痛い。痛い。何も考えられない。

 必死に手を伸ばすと、誰かが肩をつかんでくれた。

「大丈夫だ、大丈夫だから。耐えてくれ。

 おい、洗浄屋! 一体どうなっているんだ⁉」

「……っ、メモリが足らない。アンチチートを騙しきれなかった……」

「これだけで足りるって言っていただろう⁉」

「そのはずだったんだ! もっと浅いバグだと思っていた……こんなに深層まで侵入する必要があるなんて思っていなかったんだよ!」

 聞き覚えのある二人の声が聞こえる。しかし激しい痛みで言葉の意味が理解できない。

 激痛はまるで全身に針の生えた毛虫のようにうねりながら胴体に上ってくる。このままでは消える。食われてしまう。

 熱い激痛と冷たい絶望に心が飲まれていく。

 縋るように必死に手を伸ばし、彼女は声を絞り出す。

「……ヴォイド、助けて……」



「悲しいなぁ、壁抜け男! 実に哀れだ!」

 目の前に立つ白髪の男に、彼は嘲りの笑みを見せた。

 彼の目に、男の顔は映っていない。視覚を維持するメモリも奪われ、じきに思考すらできなくなると分かっていても、彼は憎しみの籠った侮蔑の言葉を吐き続ける。仲間を奪った仇が、できるだけ長く苦しむように。

「お前が戦わなけりゃ、素直に俺らに奪われていりゃ、あんなことにはならなかったのによ! そうだ、お前の戦いは無意味なんだ! 俺ら全員からデータを奪っても、あの女は……!」



「黙れッ‼」



 感情のままに、ヴォイドは拳を叩きつけた。

 ガラスの割れる音。指に鋭い痛みと、生ぬるい感触が伝わってくる。拳の先には、ひび割れた洗面台の鏡に映る自身の姿があった。

「………………戻ってきた、のか?」

 洗面台の時計で日時を見ると、彼の一番新しい記憶から5時間ほど進んでいる。多分、これは記憶の中じゃない。

「……ヴォイド……?」

 洗面所の扉が半分開いて、その隙間からフロートがこちらを覗いていた。寝ていたところだったのか、半開きの目を眠そうに擦っていた。

「大丈夫? 何があったの?」

「……いや、何でもない。変な夢を見ただけだ」

 ゆっくりと深呼吸をして、彼はざわつく心を宥める。手についた血を水で洗い流して、小さなメモリキューブをガラスに押し込んでデータを復元すると、目に見えるものは大体元どおりになった。

「ねえ、ヴォイド」

 暖かくも重たい感触が彼の背中に寄りかかる。彼の服を小さな手でぎゅっと握りしめ、フロートは掠れた声で呟いた。

「ヴォイドは……いなくならないよね?」

「……ああ。約束するよ」


 裂け目の消えた自分自身の姿を睨みながら、彼は先ほど見た光景を思い返す。

 いつ頃からだろうか、ヴォイドは夢の中で自分ではない誰かの記憶を覗き見るようになった。

 大量のメモリを抱える者は脳が完全な睡眠状態になれず鮮明な夢を見ることが多いらしいが、それとはまた話が違う。自分と関わった人、自分が倒してきた人、自分のため犠牲になった人、そういった人々の記憶が彼らの視点で映し出される。こんな現象は他に聞いたことがない。

「……『壁抜け男』か。確かに、哀れなもんだな」

 鏡の向こうの男は、いつになく不安げな顔でそんな弱音を吐いていた。


・防衛隊新人隊員のメモ:「トリガー」

物理演算に不正介入し、意図的なバグを起こす装置。

効果や出力はそのトリガーに依存するが、使用者の有するメモリが多いほど高負荷のトリガーを上限近い性能で長時間扱える。

物理演算への介入動作は非常に高度なプログラムであり、大半のトリガーは基礎部分に製作者不明の初期型トリガーのコードを流用している。そのため、多くのトリガーは共通して銃声のような起動音を発する。

複数同時発動や同一オブジェクトへの重複装備は非常にリスクが高く、仕様により制限されていることが多い。

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