#2 ファウスト
脳をコンピューターに繋ぎ、仮想世界に移住する……そんな未来が夢のように語られていたこともあったらしい。肉体という縛りを脱して、人類は真の自由を得るのだと。
長い年月が経ち、やがてその夢は現実となった。
この世界では、五感の全てが机上の空論だ。絶対的な法則などないこの世界でなら、やろうと思えば何だってできる。
そう、「やろうと思えば」。
この世界でのあらゆる行動や現象は、マザーコンピューターによる演算で決まる。並外れたことを成そうとすれば、そのぶん処理能力を支えるメモリ容量が必要になる。
世界全体の処理能力は有限だ。無限の自由を謳いつつも、個人の自由、すなわち一人当たりに配分されるメモリ容量には制限がある。人並みの生活をするだけなら十分な量だが、その「人並み」に満足しない人間は珍しくない。
人並み以上を夢見る者たちはどうするのか。答えは簡単だ。
他人の自由、他人のメモリを奪うだけだ。
結局、かつての人類の望みは、未だ叶ってはいない。真の自由を求めて、未だに多くの人間が互いの自由を奪い合っている。
「電脳世界『アルカディア』……全く、皮肉が効いているよ」
机の向こうの人物は、つまらなそうな顔でそうぼやいた。
保護ゴーグルを額まで押し上げると、端正で中性的な顔が覗く。後ろにまとめた髪を解くと、艶のある黒髪が安っぽい照明の下でふわりと踊った。やや肉付きの薄い頬と透き通るような白い肌は、見様によって美男にも美女にも見える。切れ長の双眸から覗くエメラルドグリーンの瞳は机の上に置かれたものを一瞥してから、向かいに立つヴォイドの仏頂面へと向けられた。
「世界は何も変わっちゃいない。金がメモリに、銃がトリガーに置き換わっただけだ。この世界は確かに楽園と成りえたかもしれないが、果たして楽園が地獄に染められたのか、楽園が人間にとって地獄なのか……どちらにせよ、笑えない話だね。
だが、忘れちゃいけない。この世界は、こんな争いを想定して作られてはいないんだよ。
私はただの『洗浄屋』、洗い流すデータに口出しはしない。それでも、一つだけ忠告しておくよ。今の君のような生き方は、いずれ身を滅ぼすぞ」
視線をこちらに向けたまま、洗浄屋を自称するその人物は机上に横たわる刃を指でなぞる。指先から流れた真っ赤な血が純白の刃をつぅと流れ、刀身に吸い込まれるようにして消えた。血を吸った刃から黒い粒子が舞い上がる。プログラムのエラーを知らせる黒いノイズ、その物体にバグが発生している証拠だった。
「トリガーは所詮チートツールだ。このメモリーバイターも、君の『壁抜け』もそう。副作用のリスクは常につきまとう。負荷をかければかけるほど、そのリスクは増していくばかりだ。そうしてノイズに飲まれた者がどうなるか、君は知っているだろう」
「……いいのか、お得意様にそんなこと言って」
ヴォイドは卓上に散らばる大量の工具を横に押しのけると、その奥にあった白いキューブを手に取り懐に収める。机に残るキューブは二つ、うち一つをヴォイドは取り上げて洗浄屋の胸に放った。キューブは錆と油で汚れたエプロンの上で一度跳ねて、洗浄屋の手に落ちると、そのまま溶けるように手の平へと吸い込まれた。
「最近は『市役所』の徴税も厳しいだろ。南から来る盗賊の被害も増えて、この街全体のデータ保有量も減ってきている。洗浄したデータの中抜きがないと厳しいんじゃないのか」
「お得意様だからこそだよ。こんな、エクサバイト単位のデータを奪ってくる奴なんて君以外いない。そもそも、これだけ他人のデータを喰って侵食されない人の方が珍しいんだ。君が消滅しようものならこっちの家計も火の車さ」
洗浄屋はホログラム画面の中で増えていくメモリ管理アプリの数字を嬉しそうに見つめながら、最後に残った一回りほど大きいキューブを指先でくるくると弄ぶ。少し不安定に回転する立方体に、ヴォイドは僅かに眉を顰めた。
「おい、そのメモリキューブは丁重に扱ってくれよ。お前の納税分だけじゃない、三人分のメモリが入ってるんだぞ」
「わかっているさ。安心したまえ。あの子の分も含めて、ちゃんと手続きはしておくよ。君はもちろんのこと、君の奥さんも私の大切なお客様だからね」
洗浄屋は最後に立方体を空中で大きくスピンさせると、反対の手でキャッチして机の隅のケースへと放り込む。ニコニコと笑う洗浄屋に対して、ヴォイドはより一層顔を顰める。
「FALSEだ。あいつは嫁じゃない」
「同居しているんだろ?」
「あの体じゃ手伝いが必要だろ。それだけだ」
「はいはい。それだけ、ね」
やれやれ、と肩をすくめて、洗浄屋は指をパチンと鳴らす。無機質な電子音が部屋に鳴り響くと、洗浄屋の手元に新たなホログラムが浮かび上がった。半透明な画面にしばらく指を走らせると、洗浄屋は小さく頷いてすぐにそれを閉じる。
「よし、調整完了だ。もう持って行っていいよ」
「世話になった」
ヴォイドは机の上に横たわる薙刀を起こすと、背負った細長いバッグの中にするすると収める。用は済んだと踵を返すが、洗浄屋は彼を呼び止めた。作業机を迂回してきた洗浄屋の手には、親指ほどのサイズの小さなチップが握られていた。
「あげる」
「トリガーか?」
「そう。君の犠牲者くんが持っていたやつさ」
渡された薄板を、ヴォイドはまじまじと見つめる。
厚さ一ミリにも満たないようなそれは「トリガー」と呼ばれる装置。意図的にバグを引き起こしてこの世界の物理法則を捻じ曲げる、いわゆるチートツールだ。
人体や武器など、何かの物体に仕込むことで、トリガーは様々な効果を発揮する。
位置情報を書き換えてワープしたり、当たり判定を消して物体をすり抜けたり、作り手と使い手次第でどんな不可能も可能となる。まるで魔法の様な、強大な力と可能性を持つ代物だ。
「軽く見た感じだと、効果は『透明化』みたいだね。君のやつと同じく、特定の処理をすっ飛ばすタイプかな。効果は大したものじゃないし売っても10GB相当、今月の家賃の足しになるくらいだが、中身はおそらく新型だ。奥さんに渡してあげるといい。きっと喜ぶ」
「だから嫁じゃないって……」
「ほら、もう閉店だ! さっさと出ていけ!」
言い返そうとするヴォイドの背中を、洗浄屋が渾身の力で蹴り飛ばす。銃声のような音と共に彼はドアへと激突し、ヴォイドは部屋の外に放り出される。咄嗟に受け身をとって後ろを振り返ると…………そこにはもうドアはない。
辺りを見渡すと、そこは住宅街の路地の真ん中だった。
夕日は地平線の向こうに消えた後で、真っ暗な路地をまばらに立つ街灯とホログラムが照らしている。半透明な標識に目を凝らせば、そこに見えるのは「ハチマン」という地名。洗浄屋の工房からは数キロ以上離れた場所だった。
あの銃声のような音、あれはトリガーの発動音だ。
強引にこの世界の物理法則に介入しようとすると、周囲の空間にあのような炸裂音が鳴り響く。戦闘が生業のヴォイドにはすっかり聴き慣れた音だ。
『転送』のトリガーを仕込んだ対迷惑客用の扉……洗浄屋が昔そんなものを注文していたことを、ヴォイドは今更になって思い出す。
「……よし。次のあいつの発注には、値上げするように言っておこう」
額に青筋を立てながら、彼はドアがあったはずの虚空に背を向けた。
パチン、と指を鳴らすと、手元に半透明なビジョンが浮かび上がる。彼が慣れた手つきで光の上に指を走らせると、ビジョンの中に周辺の地図が広がった。彼の現在地を示す三角形は、ハチマンとシヘイという二つの枠のちょうど境目に置かれていた。
歩きながらしばらくその地図を眺め、おおよその経路を確認してウインドウを閉じる。いくつか角を曲がって市街地を抜けると、大小様々な店が並ぶ大通りに出た。歩道も車道もなかなかの広さだが、夜も更けてきた頃合いではどちらも利用者はいない。
これなら、トリガーを多少使ってもバレないだろう。
静まり返った夜の街道に鋭い炸裂音が響く。
ヴォイドが道端のガードレールに触れようとすると、指先は薄いビームをすり抜けて反対側から飛び出す。そのまま腕も胴体も当然のようにガードレールをすり抜け、彼は車道を悠々と横断した。赤信号のバリアも悠々と貫通し、ヴォイドは大通りを東へと進む。
ヴォイドの体には、「壁抜け」と呼ばれるトリガーが仕込まれている。
効果は、端的に言えば「当たり判定の消失」だ。触れたものや体の一部、もしくは全身の判定を消して、ありとあらゆるものをすり抜ける。
彼が「壁抜け男」と呼ばれるのも、このトリガーが所以だ。
まるで幽霊にでもなったかのように、どんな物も彼の体を通り抜けていく。道にも壁にも縛られない、今の彼は自由そのものだ。全能的な解放感にヴォイドの鉄面皮もわずかに緩む。何度も信号無視を繰り返し、やがてホログラムの地名がヒロセに変わる頃、彼は大通り沿いに立つマンションのフロントに立った。そのまま自動ドアにも「壁抜け」で突っ込もうとするが、既のところで足を止める。
戦闘で培われた勘とでも言うべきだろうか。何かを察したヴォイドは数歩後ろに下がるとトリガーを解除し、大人しく入居者の認証スキャンを受け入れた。正規の方法で静かにドアが開く。そしてポスポスという下手な拍手が彼を出迎えた。
「おかえり。ちゃんと約束守ってくれたね」
カツン、カツン、と松葉杖を突きながら、一人の女性が近づいてくる。
若いというより幼いと言った方がしっくりくるような、小柄な女性だ。ボブカットにレイヤーを入れても、薄く化粧をしても、童顔のせいで子供が頑張って背伸びしているようにしか見えない。ブラウスやロングスカートなどの服選びはしっかりしているのでそれらが見えれば印象も違うのだろうが、実用性に偏重しすぎたブランケットとサンダルが全てを台無しにしていた。
よろよろ、カツカツ、と不安定に歩くその女性に、ヴォイドは特大のため息を贈る。
「フロート……大人しく上で待ってろよ。きついだろ、それ」
「そうでもないって。慣れ次第だよ」
フロートと呼ばれたその女性は、大丈夫、と右手でピースサインを作る。だが、すぐにバランスを崩して倒れそうになった。咄嗟に差し出した手で彼女の体を支え、ヴォイドは再び重たい息を吐く。
「……わかった。俺からも約束だ。俺は『横着せずにちゃんと扉を開けて帰る』、お前は『無茶せずに部屋で待っている』……良いな?」
「うん……そうする」
フロートがしっかりと立ち上がったことを見届けると、ヴォイドは彼女の肩からずり落ちたブランケットを拾い上げる。
ちらりと、一瞬だけ、彼はブランケットが隠していたフロートの左半身に目をやった。
スカートの下には脚が一本しかない。ブラウスの左袖も肩の下あたりで不自然に下へと折れ曲がり、本来なら手がある空間には球節人形を思わせる義手が浮かんでいる。義手と肩の間を繋ぐものは何もない。実体の代わりに黒いノイズが欠落した腕の亡霊のようにあるだけだった。
「必ず、体を復元できるだけのメモリを集めて、元通りにしてやるからな。
それまで、辛抱していてくれ」
「……うん」
フロートの表情が、困ったような作り笑いに変わる。
欠損した体を覆い隠すように、ヴォイドは彼女の肩にブランケットを掛け直した。
・防衛隊新人隊員のメモ:「電脳世界・アルカディア」
巨大なコンピューター「マザーコンピューター」の内部に作られた仮想空間。現在、人類の大半はこの空間内にいるとされる。四方を海に囲まれた巨大な大陸が一つだけ存在し、中心と東西南北に一つずつこの世界への入り口となる塔が存在する。
アルカディア内の物理法則は概ね現実と同様だが、一定の範囲内であれば簡単なプログラミングで挙動を変化させられる。その範囲以上に物理法則を捻じ曲げるにはトリガーなどのグリッチを用いる必要がある。