#1 壁抜け男
その男は、瞳が四角かった。
瞳だけじゃない。腕や脚は角張っていたし、手の指に至っては人差し指から小指までがひと繋ぎの板状になっていた。
その容姿の全てが異様だった。
しかし、確かにその男は生きていた。
何かに怯えながら、部屋の反対側をじっと見つめていた。
男の視線の先にあったのは、一枚のドアだ。ベージュの塗装が施された、少し重そうな金属製のドア。その中心には、黒いノイズのような奇妙なシミが蠢いている。
突然、シミの中から手が生えてきた。
肌色の良い筋肉質な男の右腕だ。手は内鍵を外し、再びシミの中へと消えていく。
そして、ドアが開いた。
部屋に入ってきたのは、一人の青年だった。
短い白髪と合わせた純白のロングコートに、ハニカム模様が入ったインナー。右腕には萩とカッコウの紋章が刺繍された腕章を嵌めている。鼻梁は鋭く、キュッと結んだ口元は厳格さと共に、どこか諦めに似た決心を感じさせる。そして何よりも目を引くのは、彩度のないシルエットの中で鮮やかに輝く群青の瞳。眉間に皺ができるほどに寄った眉の下、暗い影の中でその瞳はまるで青いサーチライトのように輝いていた。
青年はひどく冷静な様子で四角い男に対面する。その静かな態度に煽られ、四角い男はもう耐えられないとばかりに口を開いた。
「今だ! やっちまえ!」
斬。
その瞬間、青年の体に無数の刃が突き刺さる。
どこからともなく現れた三人の男が、各々の獲物を青年の背後から突き刺したのだ。四角い男の顔から恐怖が消え、強張った笑みを浮かべた。彼の仲間の三人組も、半ば安堵したように嗤った。
しかし、彼らの安堵はすぐに焦りの表情に変わった。
串刺しにされた男が、ゆっくりと口を開く。
「残念。その選択肢は……FALSEだ」
青年は串刺しにされた己の身体を見下ろした。確かに、無数の刃がその胴体を貫いている。だが血は一滴たりとも漏れない。刺された部位には先ほどのドアと同じ、ノイズのような黒いシミが広がっていた。
「なるほど。トリガー使い……透明化のチートか。どうりで見つからないわけだ」
自らに刺さった刀の峰を掴むと、青年はそれをそのまま前方に投げ飛ばす。刀を握っていた男は自らの得物と一緒に青年の身体をすり抜け、部屋の壁に叩きつけられた。驚きの表情を見せる他の二人も、瞬く間に掌底と蹴りで吹き飛ばされて壁の上に大の字を作る。
「四人だけか。持っているメモリ容量で足りることを神に祈るんだな。まぁ、この電脳世界で神頼みなんて馬鹿々々しい話だが」
青年はおもむろに右手を持ち上げ、ゆっくりと虚空をなぞる。
パァン、と銃声に似た音がして、青年の手の先の空間にノイズが走った。黒い砂嵐の中から真っ白な棒が現れ、刃が現れ、鋒が現れる。やがて空中を迸るノイズが消えると、青年はその得物を握った。
薙刀だ。柄から刃まで全てが真っ白な、シンプルな見た目の長柄武器。
しかし、その純白の刃がただの刃物ではないことは、この場の全員が知っている。
それこそがこの世界を狂わせた最たる要因、電脳世界アルカディアにおいて最もありふれた、最も凶悪な武器なのだから。
「メモリーバイター」。
他者のデータを自分のものへと上書きして奪う、この世界のバグを利用したグリッチ武器の一種。斬られればメモリを奪われ、身体や思考を維持する力を失い、やがてはこの電脳世界に存在することすらできなくなる。
この刃は相手の存在そのものを奪い、殺す武器だ。
「恨みっこなしだ」
青年は薙刀の刃を、背後から襲ってきた三人組の一人に突き立てた。
青年を睨む瞳からハイライトが減り、瞳孔が少しずつ角張り始める。髪の毛の束が薄っぺらいテクスチャに変わり、四肢の輪郭に角が増え、手足の指がくっつく。やがて肌の色すら保持できなくなると、手足が胴体に引っ込み、その胴体すらも首の中に吸い込まれて、やがてマネキンの頭部のような「何か」だけが残った。
ゴトン、と無機質な音と共に、限界までポリゴン数の減った真っ白な生首が床に転がる。
動かなくなった仲間の姿に、四角い男は戦慄した。
「う、うそだろ……? 全部、あいつの自我データまで奪ったのか……?」
「お前らも奪おうとしただろ。責められる筋合いはないな」
奪える限界まで奪い取り、青年は次の狙いに目を向けた。
次にも、その次にも、同じように薙刀を突き刺し、あらかたデータを奪い去ると、最後に残った四角い男に歩み寄る。男は仲間のナイフを手に取り青年へと投げつけるが、青年は避ける素振りすら見せない。ナイフは男の身体をすり抜けて、背後の壁へ突き刺さった。
男は何かを思い出したかのように目を見開くと、解像度の低い瞳に絶望の色を浮かべる。
「白い薙刀に、『壁抜け』のトリガー……まさか、あんな馬鹿げた話がマジなのか? 本当に、お前があの『壁抜け男』……?」
男が言い終えるより先に、刃がその眉間に突き刺さった。
他の三人と同じように、その男もやがて真っ白な頭部だけになる。刺した刃を引き抜き、床に転がるそれを見下ろして、青年はポツリとこぼす。
「ヴォイドだ。人の名前くらい覚えろ」
薙刀を虚空に放ると、白いシルエットが黒いノイズに飲まれて消える。ヴォイドは四つのマネキン頭に背を向けると、何事もなかったかのように部屋を後にした。