Saṃsāra 彼の場合
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切り裂いた痛みもさることながら、血が詰まるのも、喉はとても辛い。
ごふっと大きく咳き込んだ勢いで、ユリウスは上半身を跳ね起こした。
「は……?」
咄嗟に喉に手をやれば、そこは傷もなければ痛みもない。
「え?」
混乱しつつ辺り、頭を巡らせて辺りを見れば、全体的に粗末な木の部屋のようだった。
(どういうことだ……?)
たしかにユリウスは自身の喉を裂いた。
痛みに冷や汗が吹き出した感触は、まだ生々しい。
にもかかわらず、傷はないし意識も命もある。
(死に損なった、のか?)
あれほどの苦痛を味わってなお、死ねなかったことにユリウスは絶望した。
けれどそれならもう一度同じことをするだけだ。
そう考える程度には気力はあったらしい。
項垂れた頭を上げると、ユリウスは剣を探す。
ここにユリウスをつれてきた誰かは、命を助けることはしても、先のことは考えない性質だったのか、剣はすぐに見つかった。
ベッドサイドのチェストに立て掛けてあったのだ。
死に損ないの部屋に刃物を置くのは実に迂闊な話ではあるけれど、ユリウスにはその迂闊さがありがたかった。
ユリウスは剣を取るためベッドから下りる。
すると強烈な違和感があって。
その違和感はユリウスが何かしら動く度に強烈になっていく。
(なんだ……?)
まだ起き抜けでぼんやりする頭を振った時、急に目が開いた。
いつもより視界が低い。
剣を取ろうとした手も小さく、腕も短いし、足だって細いのだ。
(どういうことだ!?)
混乱に洗面台に駆け寄れば、鏡がある。
それを覗き込んだユリウスの目に写ったのは、いつもより頭身が低く、頼りなく丸みを描く頬の子どもだった。
より正確に言えば、家名がもらえるかもしれない、それで誰よりも大事な先輩に触れられるかもしれないと、浅はかな下心で彼女の手を離した頃のユリウスが、だ。
ユリウスは奥歯を噛みしめ、悲鳴を殺した。
混乱が彼を襲う。
脳内が「どうして?」と「何故だ?」に占められて、ユリウスは頭を抱えて蹲った。
長い時間そうしていたのか、それとも一瞬だったのか、それすらも解らないうちに、ユリウスの部屋の扉が叩かれた。
反射的に起き上がると、ユリウスは誰何の声をあげる。
「誰だ!?」
『ルミナだけど。開けても?』
(ルミナ、さん!?)
ユリウスは更に混乱した。
ルミナとはカレンと同級で、ユリウスやカレンと共に志願兵の名目で強制的に戦場に出された魔術師科の少女だ。
しかもユリウスが言い出すより先に、義理は果たしたからとパーティー解散を申し出ていた人物で。
急いで扉を開けると、蜜色の目に不審を浮かべたルミナがそこにいた。
「……なに、アンタ。顔色悪いし……化物にでもあった顔して」
「え、あ、いや……」
「いや、まあ、どうでもいいわ。この間の話、上に通してくれた?」
ルミナはユリウスの顔色の悪さに気がついても、どっと流れる冷や汗には気付かないようだ。
彼女はユリウスには無関心だった。いや、彼女だけでなく、大抵の人はユリウスに無関心だった。
皆、ユリウスの表面的な強さを褒めそやすことはしても、その裏にいる臆病な子どもを見ることはない。
カレンだけがユリウスを単なる年下の後輩と扱い、甘やかし、その全てを肯定してくれた。
息を詰めるユリウスに、ルミナは眉を上げる。
「まだ話してないわけ?」
ユリウスの沈黙をルミナはそんな風に受け取ったようだ。
どう答えていいのか、ユリウスには解らない。
そもそもルミナが何故目の前にいるかすら、理解が及ばないのだ。
そんなユリウスにルミナは肩をすくめると「話しておいてよね」と、強く言い捨て踵を返す。
ユリウスはルミナを呼び止めようと、咄嗟に手を伸ばした。
しかしいつもと違う頭身の故か、彼女の腕を掴み損じて、ユリウスはバランスを崩す。
辛うじて右足を前に出して踏ん張ったお蔭で、転倒はしなかったがわずかに部屋から体を乗り出す形になった。
部屋の外は木の廊下。
ユリウスの部屋はどうも階段付近の突き当たりにあったようで、これまた粗末な作りの壁が迫っていた。
そしてユリウスはまたも違和感に襲われた。
雰囲気が似ているのだ、カレンと別れた時に宛がわれていた宿舎に。
恐る恐る辺りを見回す。
するとすぐ近くの壁にカレンダーがかけてあることに、ユリウスは気がついた。
背中は冷や汗で濡れている。
一歩一歩確かめるように床を踏みしめ、ユリウスはカレンダーを見た。
「ぅッそ、だ……!?」
(あり得ない!?)
喉から迸りそうな絶叫をかみ殺して、ユリウスは壁のカレンダーをもう一度見る。
そこに書かれていた日付は、カレンに別れを告げる三年前のあの日の、その三日前だった。
くらりと目眩を感じて、ユリウスは逃げるように自室へと戻った。
それから洗面台の鏡の前にいくと、もう一度己を映す。
カレンと別れてから、地獄のような日々を送り、それでも戦い続けたユリウスの頬は、最後に見た時は肉とともに子どもの丸さは削げていた。
剣を握る手も、肉刺が潰れて胼胝が出来、節くれだったゴツゴツとした硬さがあったのに、握って開いてを繰り返すそれはまだ柔らかさの方が印象に残る。
現実を咀嚼しかねて、よろよろとユリウスはベッドに戻った。
自然と視線が部屋を観察しようと、うろうろと落ち着きなくさまよう。
粗末な木の壁に立て付けの悪そうな木の扉。
壁の洋服掛けには、所々繕った跡のある士官学校の制服がかかっていた。
制服の肩のエポレットは赤。騎士科は赤で、カレンの魔術師科は青だ。
制服の肩から腕へと視線を落として袖口を見る。
ユリウスは視力がいい。
掛かっている制服の袖口に、青い小鳥のボタンが留まっていることに気がついて。
(あれは……!?)
共に戦ううちに、制服が破れたり袖のボタンが飛ぶことがあった。
その折りにいつも「ついでだから」と、カレンがユリウスの分も繕ってくれた。
いつだったか、袖口のボタンが弾けた時、カレンも同じく袖口のボタンを落としたらしく付け替えたことがあった。
その時にユリウスは先輩の優しさに甘えて、色違いだけどお揃いの模様のボタンを縫い付けてもらったのだ。
「もっとユリウスは甘えていいのに」と、柔らかく微笑む先輩に、胸が甘く満たされたのを覚えている。
でもその大事な小鳥のボタンも、邪神との戦いの道行きのどこかで弾け飛んでしまった。
それが、ここにある。
ユリウスは制服を乱暴に洋服掛けから外すと、震える腕を通した。
制服はユリウスより少し大きい。
配給されるそれは、三年前のユリウスには少し大きいものが渡されていたのだ。
成長期の子どもに一々あった服をくれるほど、国はユリウスに構いはしなかったし、戦乱の最中物資も限りがあるからだ。
それでも不格好にならなかったのは、優しい先輩が時間を見つけてはユリウスのために調節してくれていたから。
母のように、姉のように、カレンはユリウスに情を注いでくれていたのだ。
はっと詰まった息を、ユリウスは吐き出す。
「……夢、だったのか?」
ユリウスは胸に手をやる。
たしかにそこには脈打つ心臓があった。
喉を裂いた感触も、カレンを永遠に失った胸の痛みも、生々しくユリウスの中に残っている。
しかし、暦はカレンと別れる三日前を指していたし、ルミナとも会った。
(あれは全て夢、だったのか……? じゃあ、俺は先輩を喪っていない?)
脳裏に浮かんだ考えに、ユリウスの胸に希望が沸いた。
だが一方で、三年戦場で鍛えてきた勘が「夢ではあり得ない」と訴えてくる。
ユリウスは遂に頭を抱えた。
元々から物事を深く考えるのは苦手な性質だ。
そういう事は、魔術師科で教官すら手に負えないと判断した才能のある先輩に頼ってきた。
(先輩なら、どう考えるだろう……?)
カレンの手を離してから、ユリウスは物事を思考する時、「先輩ならどう考えるか」を意識するようになった。
そうすることで、聡明な先輩のように物事を深く考えることが出来るようになったからだ。
(先輩なら……)
ユリウスに見えた可能性は二つ。
一つは長い夢を、現実と錯覚するほどの夢を見ていた可能性。
二つ目は、理由は解らないが死を選んだのにも関わらず、三年前の運命の日の三日前に、ユリウスの時が戻った。所謂、死に戻りという可能性だ。
一つ目の可能性ならば、これから先なにも起こらないかもしれない。
二つ目ならば、おそらく明日にでもユリウスをとある人物が訪ねてくるだろう。
(訪ねて来たら、どうする?)
ユリウスは首を横に振った。
邪神は倒さねばならぬものだ。
あれが生きていれば、世界は脅威に晒され続ける。そうなればやはり先輩も危険に晒され続けるのだから、見逃すことは出来ない。
それに一度倒しているのだから、今度も倒せないことはない筈だ。
ユリウスのなかで、また浅ましい下心が鎌首をもたげる。
カレンには確実に平和な場所にいてもらえればいい。
そうすれば、今度は確実に彼女を迎えにいける。
ユリウスは知らず己の喉に手を当てた。
絶望のうちに引き裂いた筈のそこには、何の跡もありはしない。
(ああ、先輩……カレン……今度こそ貴方を……!)
未来を変える決意をして、ユリウスはうっそりと笑った。
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