6.探し物
シリウスの大声に驚いて逃げようとしたモモだったが、立ち上がる事すらできずその場に倒れ込んだ。
「お、驚いてごめん。大丈夫、もう落ち着いたから」
シリウスはモモを抱き起して、もう一度ソファに座らせた。水差しから水を注ぎ、グラスをモモに渡す。
「会話ができるなら、その方が楽だよ。キミも水を飲んで落ち着いて」
人間は水の妖精石を当然のように生活水として使う。モモが躊躇うようにグラスを覗き込み、シリウスが苦笑する。
「安心して、それは井戸から汲んだ湧き水だよ。僕、妖精石は使えないんだ」
部屋の灯りも全て本物の火を灯す燭台に見える。シリウスが言う通り、この部屋には妖精石が放つ独特な死の気配が感じられない。
モモが水を口にすると、シリウスもほっと息を吐いた。
「ありがとう、信じてくれて。ところで、その体はどうしたの?」
「……わからない」
モモはグラスをテーブルに置くと、黒くなった肌に触れてみた。黒い箇所は腐ったようにドロリとして、軋むように痛い。
「そうなんだ。治るといいけど……」
「……えっと、それ、桃?」
いつの間にかシリウスは執務机に腰をかけて、器用に桃の皮をむいていた。机に置かれた籠には沢山の桃が積まれている。
シリウスはリンクも認識していた通りに、桃を好み部屋に常備までしていた。
「うん、桃なら食べられるかなって。少しでも何かを食べて、体力を回復した方がいいよ」
モモは肉付きが悪く、栄養が足りていないのは明らかだった。小さめに切り分けた桃を、モモに差し出す。
「無理はしなくていいけど、食べられるかな?」
「……多分」
少し緊張気味に、モモが欠片を摘んで口に運ぶ。
普通の桃を食べるのは初めてだった。瑞々しい桃はとろけるように柔らかく、口に含むと甘い味が広がっていく。
「あまい」
「そう、良かった」
その懐かしい味に、モモの頬が綻んだ。
それはモモが小さい頃に作っていた桃によく似ていた。まだ幽閉もされず、皆が美味しいと食べた桃。
次の瞬間、押し込めていた感情を吐き出すようにモモの目からドロリとした黒い涙が流れ出た。モモの服にボタボタと音を立てて落ち、シリウスから笑顔が消える。
「た、大変! キミ、涙が……」
「なみだ?」
濡れた頬に触れると、指先に黒い涙が付着した。泣いていた認識もなく、ただその涙が黒いと見分けられる程に、黒く腐りかけていた指先は肌の色を取り戻していた。
「肌が……もしかして、桃を食べるとそれ治るのかな?」
肌が黒く腐りかける事も、黒い涙も初めてのこと。何が起きているのか分かるはずもなく、モモがふるふると首を振る
シリウスはそれ以上追及せず、布に水を含ませてモモの頬を拭った。
「そっか。もしよければ、怪我が治るまでゆっくりしていって。桃ならまだ沢山あるから」
「……どうして」
見知らぬ人間が、ここまで良くしてくれる理由が分からない。モモが不思議そうに首を傾げると、シリウスが懐かしそうに目を細めた。
同じ種族という事もあり、モモは昔シリウスを助けてくれた妖精によく似ている。
「僕なりの恩返しだから、気にしないで。ここにいてくれる限り、僕はキミを守るよ」
シリウスの意図は分からないが、モモには行く場所もなければここから逃げる事もできない。頷くと、シリウスの顔がみるみる明るくなった。
「本当? よかった! そのワンピースだと冷えるよね、上着を取って来るから少し待ってて」
シリウスは緊張の糸が切れたように全身を緩ませると、寝室へと姿を消した。
◇
「あああああ、ありがとう神様! ありがとう妖精王様!」
言葉が交わせるのも、留まってくれるのも夢のよう。奇跡続きにシリウスは両手を掲げ、声を押し殺して絶叫した。
でもあまり興奮すると怖がられる。小躍りしたい気持ちを押さえつけ、シリウスは壁に頭をゴリゴリと押し付ける。
「落ち着け! あの顔にあの声! 可愛いすぎだよ、何だあれ!」
体は細くみすぼらしいが、モモはかなり可愛らしい。その上、鈴のような声も反則的に可愛すぎる。
ただ、モモはシリウスが探している妖精とは別の妖精。
あの子は人間の言葉が分からないし、作る桃だってもっと美味しかった。
「……冷静になれ、僕が会いたいのは別の妖精なんだ。やっと彼女の手がかりが掴めるかもしれない。余計な事を考えるな。情報を聞き出さないと」
何度も壁に頭を打ちつけ額から血が滲み出た頃、漸くシリウスは冷静を取り戻した。
◇
執務室へ戻ると、モモがシリウスの額を凝視した。
「え、血……痛い?」
「こ、これは……そう、転んじゃった。少し肌寒いから、これを羽織って」
シリウスは誤魔化すように額の血を拭うと、上着をモモの肩へかけた。
モモの容姿は冷静を欠くほどに可愛らしい。シリウスはぶんぶんと頭を振り、話を切り出す。
「桃の妖精って珍しいよね。キミ以外に、何匹ぐらい森にいるの?」
「……いない?」
モモが困惑したようにふるふると首を振る。
「知らないんだ。まあ、それもそうか……」
セルフィールの森は国が二つは収まるくらいに広大な土地。花からランダムで生まれる妖精同士が出会う確率は低い。
シリウスが残念がると、モモが困ったように首を傾げる。
「違う。千年に、一匹」
「……千年に一匹?」
理解が追い付かず、シリウスも一緒に首を傾げる。
「えっと、千年に一匹しか生まれないっていう意味なのかな? でも、それなら……ここ千年はキミ以外に、『桃の妖精』はいないことになるけど。そんなことは……」
「えっと、いない」
「え。……え?」
モモ以外に『桃の妖精』が存在しないとなると、シリウスが探している『桃の妖精』はモモということになる。
シリウスが会いたかった妖精は、目の前にいた。
「キ、キミ、あの、もしかして――」
「モモ」
「……モモ?」
「名前。モモ」
「モモ! そんな……名前まで可愛い!」
助けてくれた妖精と再会することも、名前を知ることも、繰り返し願っては諦めてきた。全ての願いが叶い、混乱するシリウスをモモが不安気に覗き込む。
「シリウス、大丈夫?」
「だめだとおもう」
さらにその小さな口で名前まで呼ばれ、真っ赤になったシリウスはぐったりと力尽きた。