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元サヤ?それってなんのことでしょう?

作者: 伊佐間サロ

いつまでたってもまとまる気がしなかったので、強引にまとめました。

その国はとても裕福だった。

その国の大臣の内の一人の貴族の娘であった少女も、それは裕福な生活だった。


彼女の名前はエレーナ。

貴族の生まれであるため、それなりに美しい見目をしているが人目を引き付けるほどの美貌でもなく、罪に問われるほど後ろめたい行いをしたこともないような、この国に住む大半の貴族の少女の典型とも言える少女だった。

大臣である父と淑女としての教育に関しては厳しかったが、それ以外では優しく愛情を注いでくれた母と、おおらかな兄に囲まれ日々を穏やかに暮らしていた。


確かに幸せであった。と、エレーナは今でも思い返す。


もちろん、今は不幸なのかと問われれば否と答えるのだが、彼女の人生において不幸の種ともいわれるような存在が目の前に現れてしまえば、少しくらい「昔のほうがよかった」と懐古する気持ちになるのも許されたいという気持ちだった。

……と、エレーナはここ三カ月ほどで見慣れてしまった相手のつむじを見ながら思案していた。


「愛しているんだ。どうかもう一度私の手を取ってもらえないだろうか?」


艶やかな黒髪をゆるく一つに束ねた美丈夫は民衆に注目を浴びることも気にせず、エレーナに跪いた。

赤い薔薇の花束を恭しく捧げる様は、突如として始まった告白に集まった野次馬の市民から見ても美しい、と感じさせるものであった。

呼び止められたエレーナはいきなりの告白にも動じず穏やかに笑い、捧げられた花束にそっと手を添え香しい薔薇の香りを堪能する。

男は近づいてくれた彼女の細く整えられた指先を見つめ、やがて意を決したように彼女の顔を見ようと面を上げる。


「まあ、美しい薔薇ですね。このような事をされたらどんな女性もときめいてしまうでしょう…。」


持ち主さえ目を瞑れば。

そんな小さな言葉とともに、美丈夫を見つめるエレーナの顔は彼に向けられていた。

焦点をずらし、光が差し込まない瞳を細め口角を上げている。

周囲からすれば慈愛に満ちた笑顔の表情。見ている若い女性たちは、なんて素敵な告白なのだろうと物語のような流れの二人をほう、と見惚れていた。

だが、その表情を目の前で引き出された男は周囲の反応とは真逆の反応を見せていた。

彼女、エレーナは己を見てはいなかった。顔こそ己に向けてはいるが、焦点をずらして『見ているようで見ていない』。ついには、自分の顔を見たくないとでも言わんばかりに、笑顔という仮面で瞳を閉じていた。

そんな事実を突きつけられ、男は悲痛そうに顔を歪めた。


「ありがとうございます。私のような女にこのような催しを…『お貴族様のご戯れ』とはいえ『一平民の私』にまで夢を見させていただいて…誠に感謝致します。」


「ですが…ええ。所詮私は平民でございますので…お貴族様におかれましては、より相応しい女性『運命の出会い』がおありでしょう。

お譲りいただいた花束を心に刻み、一平民として国に、お貴族様に仕えさせていただきます…。」


エレーナは花束を受け取り、少しほつれが目立つ簡素なワンピースでしとやかにカーテシーの仕草を取り、その場を立ち去った。

その所作は間違っても平民が行えるような動きではなかったが、沸き立つ民衆の中でそのことに気がつく者はいなかった。

そして一人取り残された男は振られてしまったなと肩をすくめ、民衆に慰めの声をかけられつつ役者のように芝居がかった素振りでその場を立ち去る。

この場で自害したくなるほど惨めな気持ちを、渡した花束の代わりに抱えながら、男はまた駄目だったと嘆き歩いた。



「また告白されていたのか。」


大通りから少し外れた自宅を兼ねた薬屋の扉を開けば、普段は重い前髪で隠しているはずの、美しいというよりは精悍な顔つきを歪ませた青年が立っていた。

帰ってきたエレーナは、青年の横を通り過ぎカウンターに買い物の荷物と花束を置く。

赤い薔薇の花束は清潔を心がけているが経年劣化によって古びて見え、商品である薬の匂いで満たされた室内にはお世辞にも似合っているとは言えなかった。

美しい花を飾り愛でる趣味はとうに失せてしまっている少女は花束を放置し、荷物を片付けながら男に声をかける。


「まったく、準備中なのに勝手に入ってきたのね。いくら警備も何もないからって泥棒として突き出されても文句は言えないわよ。」


「なに、そこはほら。常連のよしみとして見逃してくれるもんじゃないのか?」


「自惚れね。忘れた頃に買いに来る貴方より、腰痛に効く塗り薬を毎週買ってくるトマス爺さんのほうがよっぽど常連だわ。もう少し売上に貢献してから言ってくれない?」


「トマスの爺さんだったら勝手に入っていてもいいのか。」


「少なくとも貴方よりよっぽど信頼もあれば善人だと思えるわね。

 腰も悪いのだから店で休んでもらっていても文句は言わないわよ。」


「そうか。俺の信用はトマスの爺さん以下なのか……。」


肩を落とし深刻そうに俯く赤髪の青年の名はニード。

貿易商の次男を名乗り、たびたびエレーナの前に現れては買い物ついでに気安く接してくる。本人曰く「次男の立ち位置に甘えている放蕩息子」と自称している。

気安くと言っても貴族を相手にするような商人なのだろう。過度な接触や密着はせず、さりとて言われた当人が心から怒りを感じるような冗談は言わない。

忘れた頃に買いに来る存在ではあるが、気前は良くほどほどに売り上げにもなるので周囲に迷惑が掛かってなければいいかとエレーナは諦めていた。


「どうしたら俺はエレーナ嬢に信頼してもらえるのだろうな…。ああ、身が焦がれる思いだ!」


「信用されたかったら、その芝居がかった言葉と胡散臭い身分をどうにかしなさいよ。」


エレーナはニードがただの貿易商の次男だと思っていなかった。

平民となってはいるが貴族だった時間のほうが長く、父や母から紹介された商人たちを見続けていた元貴族の彼女からすれば、ニードの所作は商人にしては綺麗すぎるのだ。

もちろん、身分の高い者とのやりとりをする必要がある商人であれば、洗練された動きになるのはわかる。しかし本人の自称する次男の放蕩息子が事実であれば綺麗な動きを覚える必要がない。

だが、大臣の娘としてそこそこに国内の行事やパーティーに出席していた彼女の記憶にはニードの姿を見たことがない。過去に一度、王族主催の行事で似たような髪色や顔つきの他国の外交官なら見たことがあるが。どこの国かは思い出せない。

確実に『他国、しかもなかなかに身分の高い貴族』と元貴族の記憶と勘がエレーナに訴えていた。


「言えない。言ったらお前は姿を消すだろう?」


「そうね…と言いたいけれど、小娘一人が逃げてもたかが知れているわ。

貴方が私に何かしらの用があって、それによって私の自由や尊厳が損なわれようとしても身寄りのない平民に手を差し伸べる善人はそういないし、

ましてや他国の高い身分のお方からの要望なら国は娘の一人くらい手配するでしょうね。」


「手配って……。お前にとって俺はそんなに悪人に見えるのか!? 流石に落ち込むのだが!」


「あくまでたとえ話よ。…でも、わざわざ身分を隠している貴方が身分を明かすということはその身分で出来ることを実行する時だと思ってるわ。

そうなったら私は貴方の身分に相応しい態度を取って貴方が願いを叶えざるを得ないでしょうね。

自由と尊厳を踏みにじられても明日は来るのだから、生きるためには仕方のないことだわ。」


このお店ともお別れね。

感情込めて言葉を添えてみればニードの顔は面白いくらいに真っ青になっていた。


「追い打ちをかけるのはやめてくれないか!? お願いですから!」


「ふふ、そうしておくわ。」


両の手で顔を覆いながら心から落ち込んでいるであろうニードを、エレーナは笑って見ていた。これが彼の本心であろうがなかろうかはエレーナにとってはどうでもいいことだが、こうして少々タチの悪い冗談も言い合える程度にはニードに気を許しているのだ。

といっても、正体を明かさない内は敵に回さないでおこう。ぐらいの気持ちだが。

からかわれているのが分かっているニードはジロリとエレーナを睨みつける。

精悍、悪く言えば悪事を働きそうな顔をしている彼からの睨みは、昔の自分であれば立ち竦んで泣いていただろうが、この状況では悪戯に手痛いしっぺ返しを食らった大型犬のなけなしのプライドにしか見えなくて、ついには声を出して笑ってしまった。


「酷い人だ…貴女は…。」


「あらあら、よほどショックだったのね。口調が柔らかくなってございましてよ。今日はもうお帰りになられたらいかが?」


「………………お前がくるまで待っていたんだぞ。」


「私は待っていてほしいなんてひと言も言っていないわ。客じゃないなら他人じゃない。さ、今日は何の用?」


きっぱりと態度を変える少女に手強さを感じながら、ニードはベストの胸ポケットに忍ばせていたメモを見る。

荷物の整理をすっかり終わらせていたエレーナはカウンター近くの椅子に座り、先ほど渡された薔薇の花びらをむしる。


「あー…寝不足によく効く薬は。」


「寝不足?それは睡眠薬ということかしら?」


寝不足、ということは何かしらの理由で寝つきが良くない人でもいるのだろうか?

人の意識を失わせるのが目的の即効性のある種類のものはないが、血行の流れをよくし体温を上げることで寝入りを良くする種類の「飲むとよく眠れる薬」ならあるとエレーナはニードに説明をする。

メモを再度確認したニードは首を横に振り、呆れたように返答した。


「違うだろうな。憶測だが『寝たほうが体にいいのは分かっているがどうしても徹夜をしなければいけない場合の気つけに効きそうな薬』という意味合いに近そうだ。

 頼んだ人間の名前を見たら研究職だった。」


「仕事が好きなのね。」


「好きというよりも中毒に近い感じだったな……。ありそうか?」


「眠気覚ましの少し薬効の高いものという認識かしらね?昼食後眠くなるって言ってたお客さん用に作ってみたものを渡すから試してみて。

これに関してはあとで感想くれるならちょっと安くしておくわ。」


「それで頼む。あとは前回と同じものを前回と同じ量で。」


「毎度どうも。湿布と冷えに効くハーブティー、火傷用の塗り薬と手のひび割れ用の軟膏、最後に痔の軟膏ね。そうそう、痔の軟膏は効き目はどうかしら?

貴方が来た時からずっと注文してるみたいだけど…流石に心配になるわ。医者には診てもらってるのかしら?」


部位が部位だから恥ずかしくて医者に言い出せないのかもしれないけど。と、続けるエレーナの問いニードは顔を顰める。なんとなく彼が次に言いそうなことが予測できるが、気にしない振りをして返事を待つ。花束の半分近くの薔薇が無残にもむしられていた。


「…エレーナ。お前だって女性なんだからあまりデリケートな部分の話題を振るのはどうなんだ?」


「あら、デリケートだからこそ聞かないと分からないじゃないの。

こっちはお金を貰って人の身体に影響するものを作っているのよ。仕事なのにいちいち気にするわけないじゃない。

私は、医者に診てもらっているのなら医者の処方箋に沿ったものを用意したほうが良いかもしれないかと思ったから…聞いたのに……。」


「す、すまない…。そんなつもりで言ったわけでは……。」


「ま、そうでしょうね。別に気にしていないから大丈夫。用意するから少し待っててくれるかしら?」


ころりと態度を変えるエレーナを見て、これはまたからかわれたなと思ったニードであったが、それを指摘してはまた彼女にからかわれそうだと思い返して黙る。彼女は中々に口達者だ。


ニードは了承とばかりに窓際に置かれている椅子に座り、荷物から本を出して読み始める。

その様子を見ていたエレーナは、からかっているのがバレたかと思いながら、怪しい素性ではあるが黙っていれば、否。黙っていなくても顔の作りはいいなと彼の横顔を再確認し、むしっていた花束を置いて薬の棚を漁り始めた。


「そういえばエレーナ。」


「何かしら?」


「その千切った花束はどうするんだ?その…ストレス発散という訳でもなさそうだが。」


視線は本に向けたままニードはエレーナに問いかける。

本を読み始めたので喋らなくて気が楽だと思ったエレーナは若干げんなりしつつ、問われた花束を目視で確認した後、棚へと視線を戻した。


「ストレス発散…というのが今のところ大きいわ。まあここまで香り豊かな薔薇だから、何かに使えるかもという考えもあるけれど。」


「…花は好きか?」


「薬に使えて売れそうなものなら嬉しいわね。」


「いや、仕事でという意味で言ったわけでは」


「わかってるわよ。正直なところ、花を愛でる精神的な余裕はまだないってだけよ。綺麗だとも思うけど、それよりも安定した収入と食料のほうがよっぽど心掴まされるのよね。」


紛うことなくエレーナの本心だった。貴族だったときのことを思い返しても、美しい以外の感想は出てこなかったし。物語のように薔薇の花束を贈られることに憧れを抱いてはいたがそれはシチュエーションに対してだったので、彼の意図であろう「贈り物として魅力を感じるか」という意味の好きかどうかで言えば「そうでもない」程度のものだった。


ニードは読んでいた本から、薔薇の花束に視線を移す。無残にもむしられてしまった茎が痛々しく見え。ストレス発散にとむしられた薔薇に同情した。

渡した相手には一切同情しなかったが。


「エレーナらしいといえばそうか。そうだ、薔薇の使い方だが、無難にジャムなんてどうだろう?」


「それが妥当ではあるけれど、砂糖がまた値上がりしてるからあまり無駄遣いしたくないのよね…。無難にポプリとかになるかしら?」


「この国は砂糖を南部に頼ってるところがあるからなあ。この前の嵐で輸送船がいくつかやられたらしい。…ただまあ、何も考えなしに提案したわけじゃないぞ。」


薬を用意し終え、荷物が崩れないように整えながら麻袋に詰める作業をしていたエレーナはニードのほうへと見た。すでに本を片していた彼はニコニコと笑顔で彼女に近づきながら話を続ける。


「さっきの眠気覚ましの薬を安く売ってくれる礼だ。今日の支払いにオマケで砂糖を追加でやろうじゃないか。」


カウンターに置かれたそこそこに大きな壷が置かれた。これの中身が砂糖と予測するなら、平均的な平民の生活で毎日使うであろう砂糖の半年分は越える量だった。


「……なっ!」


「礼にしては多すぎるなら、その作ったジャムを今度来た時に振舞ってくれればいいさ。どうだ?砂糖を作るには少ないか?」


むしろ多すぎる。ジャムを作っても余裕で余ってしまうくらいだ。

砂糖を入れるために使われている壷すら良い物だと分かってしまう元貴族の性が憎らしい。

貰えるものなら貰う。…が、明らかにこれは商品な気がしてならない。


「…これは商品じゃないの?」


「安心しろ、これは売れ残りだ。」


「あとで返せと言われても…。」


「言わない。疑わしいなら今から花屋に行って花束に変えてやってもいいぞ。」


「ありがとうニード。こちらの砂糖をいただくわ!」


正直でよろしいと言いながら薬を受け取ったニードは、笑いながら去っていった。

戸を閉める最後まで「花束より砂糖か!」と食い意地を笑っていたので、

若干、いやかなり失礼な男だと思いはすれど男女でこんな風に軽口を言い合える関係があるのは中々悪くないと思うエレーナであった。

ニードが立ち去り、ありがたく頂戴した壷を改めて見る。繊細な紋様にうっとりと売りさばいたらどれくらい値が付くのだろうと、つい浅ましく考えてしまいそうになるが、

そんなことよりも大きな問題が一つ。

粋なところを見せて立ち去ったニードには悪いと思いながら。


「改めて見てもこの壷、大きいわね…私ひとりで持ち運べるかしら……?」


自分の腰ほどあるであろう大きな壷をどう持ち運べと…と、

若干気遣いの足りてないところを不安に思うエレーナであった。



その国はとても裕福だった。

その国の大臣の内の一人の貴族の娘であった少女も、それは裕福だったのだが、

その国の大臣の内の一人の貴族の娘の婚約者であった黒髪の青年は、婚約者である少女以外の女性を愛してしまった。


「運命の出会い」と称した二人の関係を正当化するため、女性の生家は少女の家を陥れようと画策をした。全ては青年の家が持つ権力を「運命の出会い」で手に入れるために。

滞りなく行われた罠に少女も、少女の家もありもしない罪と誹謗中傷に見舞われ爵位返上、平民に落とされ一家離散という末路を辿った。

少女の父であった大臣は職を辞され、平民としての再スタートを覚悟したその夜。夜盗に襲われて死んだ。

少女の兄も夜盗に襲われたらしいが遺体はなく、しかし近隣の川で血まみれの服が装飾品をはぎ取られた状態で野ざらしにされていたため、生きている可能性はとても低かった。

少女の母は夫が夜盗に襲われた翌日に毒をあおって自殺。

一人取り残された少女に唯一手を差し伸べたのは、かつて出乳母あった老女のみ。


そこから一年、少女……エレーナは老女とともに平民としての生活をしていた。幸いにも老女は薬師として生計を立てていたので、少女の生活をみるくらいの余裕があった。

エレーナも当初は戸惑い、涙で枕を濡らす日々が多かったが、一月も経つ頃にはそのように嘆いている暇はないと老女の仕事の手伝いを始めた。

平民になった時点で、黙っていても出てくる温かい食事、自身を慰める花、装飾品、柔らかな寝床などは無いのだ。ならば前を向いて生きるしかない。

それは平民に落とされてなお、前を向こうとした父が教えてくれた最後の言葉だった。

働きもせず泣き暮らし続けた彼女に文句も言わずに付き合ってくれた老女に報いるため、エレーナは平民の生活を続けた。


平民として暮らしてみれば、案外悪くないものだと感じることも多かった。

安全は保障されないが、誰に止められることなく街を歩くことが出来る。

毒が入っているかもしれないが、その場で温かい食事を得ることが出来る。

人に危害を加えていなければ、上辺の付き合いを絶っても何かを言われることもない。

下劣と称され読むことを憚られた大衆向けの恋愛書物も、読んでみれば意外と面白かったし、大きな口を開けて食べ物にかぶりついても、扇を使わず大笑いをしても咎められることはなかった。


生活は裕福とは言えず、毎朝汲まなければいけない水は冷たく重い。

冬は充分に薪をくべることが出来ない日もあり、寒さで手がまともに動かせないまま暮らすような時もあった。

それでも「とりあえずは生きていけるな」と自分で考えられる程度にはエレーナも平民として街に馴染み、性格も幾分か気強くなった時だった。

老女の知り合いである老騎士が、奇妙な噂をエレーナに伝えた。


いわく、

「ある貴族が国の大臣を陥れた嫌疑をかけられ国が調査したところ、大臣が行ったとされた罪は偽装されたものであり大臣の無実が証明され、大臣の冤罪が晴れた。」

「大臣を陥れた貴族はその罪を負い没落。横柄な態度や薄暗いことに手を染めていたことから一家とも夜盗に襲われ亡くなったらしい。」

「大臣の娘の元婚約者は巻き込まれただけ、と特に責任を追及されることはなかったが、本人は大変ショックを受けたようで、せめて謝罪をと平民になった大臣一家を探しているらしい。」


らしいらしいと曖昧な割に具体的な噂であるとエレーナは思った。

それに〝夜盗に襲われる貴族〟がそう何度も起こることも世も末だな、とも。

おそらく、老女の世話になっている「平民になった大臣の娘」を気遣って情報をまとめて教えてくれたのだろうかと予測をする。当人であるエレーナにとってはありがたい情報ではあったが感謝は口に出さない。


ここに「平民になった大臣の娘」はいない。


平民になったエレーナは貴族であった自分を隠して生きている。

最初は貴族が平民に落とされるという醜聞を隠す為であったが、生活に慣れ平民として生涯を終えるのも悪くないのではと考え始めた今では、物語のようなどんでん返しの展開は御免だと思っている。

だから大臣の娘であるエレーナとして行動することはしない。

幸いと言っていいのかわからないが、平民のエレーナには親族もいなければ肉親もいない。

事情を知るごくわずかな者は口を閉ざしてくれているので、ほとぼりが冷めるまで今まで通り静かに、目立たず、人様の迷惑にならないように生きていこうと決意した。


そこからまた一年の月日が経ち、

夜になると毛布の一枚でも欲しいと感じる日が増えてくる冬の始まり。


これより厳しくなっていく冬に備え、エレーナは買い物に出かけていた。

節約のため街外れの店を転々と移動したり。貧乏暇なしとはこのことだと思いながら、エレーナは両の手に荷物を抱え歩いていた。

多くのものは買えないが、今年も死なない程度に冬を越せる見通しが出来たことを安心する。

ガタついた整備されていない街外れの道を歩き自宅へと向かう。

冬越えの見通しが出来たことにより、エレーナは呑気に歌なんか歌ってみたりしていた。平民となって彼女は娯楽小説に出て来る平民の女の子のように、ほんの少しだけ大胆に、怒られない程度に羽目を外してみたりすることに憧れを抱いていたので、吟遊詩人になった気分で詩をそらんじたりすることもあった。

羞恥が勝ることが多いので、本当に気が向いた時だけなのだが。


そんなエレーナの詩を邪魔する大きな声。

自分の詩を邪魔する輩はどんな奴だと思い音の方向へと足を向ければ、大きな穴。

意図して掘られたのであろうその穴から男の声がする。


「お~~~~い! 誰かいるんだろう? ちょっと助けてくれないか。」


詩が聞こえたのか、人の気配を察知したのか。

エレーナとしては後者であろうと考え、立ち止まる。

なんらかの事情があって落ちてしまったのだろうか。

本当に困ったような声にエレーナはどうしようか考える。


低いテノールが響く男はおそらく大人だろう。そんな大人が抜け出せない穴から自分がどう手助けをすればいいのか分からない。

間違って自らも落ちる、なんてことになってしまえばそれこそ目も当てられない。

それに、男が本当に意図せず落ちたのかすらも分からない。

これが盗賊や悪い人間の考えた作戦であるなら、非力な女の身であるエレーナは抵抗できないまま男のいいようにされてしまうだろう。


「ここは、一度立ち去って街の人を呼ぶのが正解かしら……。」


小さく呟き、そっとその場を後にしようとしたエレーナ。しかし。


「あ~あ~麗しい~女神よ~どうか~私の願いを~聞いて~く~れ~」


「……。」


男が急に歌いだした。

無駄に声が良く、穴にいるからなのか生来のものなのか少し離れたところでもよく聴こえる歌声と、明らかに誰かに向けて歌っていることに訝しむ。


「(これ、私に言ってるのかしら…?周りを見ても誰も居ないし……。)」


それでも、エレーナにはできることがない。両の手の荷物がそろそろ重くなってきたので彼女は本当に今すぐにでも帰りたいのだ。

全くもって本当に申し訳ないが、もう少しだけ待っていて欲しいと念じながら足音を立てないように意識をしながら歩を進める。


「………薪~が~安~く買えて~嬉しい~な~! で~も~小麦~が~高くて~~~や~ってらんな~いわあ~~~!! あ~あぁ~! わたしの~財布も~まる~~で~ふ~~ゆ~~!!」


「ちょっと! そこは聞かない振りして黙っておきなさいよ!!!!」


大きな声で言い返してしまった――――。

エレーナがそう思った瞬間には時すでに遅し。声高に言ったその言葉は男がいるであろう穴に反響していることが分かる。

男が歌っていた詩は、まさに彼女自身が先ほどまで詩っていた自作の詩であった。

詩であるというのも恥ずかしいレベルのものを、耳障りのよい低いテノールであたかも名作のように歌われてしまい、

危機感よりも自身の羞恥が勝ってしまったエレーナはうっかり、声を荒げてしまった。


「おっ! 女神が応えてくれた! これぞ天啓というやつだな。」


「……貴方、わざとやったでしょう。」


近くにいることがバレてしまったからにはしょうがない。

エレーナは諦めて穴のほうへと向かう。

落ちないように気を付けながら穴を覗いてみれば、体格のよさそうな男が一人、胡坐をかいて座っていた。


「いやあ、すまない。このままだと静かに逃げられそうな気がして。」


図星であるため彼女は何も答えられない。

男はそれに気付いているのかいないのか分からない様子で話を続ける。


「悪いが、近くに濃い緑のカバンはないか? 古ぼけたやつなんだが……。」


「濃い緑……? ちょっと待ってちょうだい。ああ、あるわね。筒みたいな形のもので合ってるかしら?」


「それだそれ。その中に縄があるはずだから、近くの木に括って穴に放り投げてほしい。そこそこの長さがあるはずだから、まあなんとかなるだろう。」


ここまで言われてしまえば乗り掛かったなんとやら。

エレーナはカバンから縄を取り、木に括る。

普段は麻袋を細い麻縄で縛る程度のことしかしていないため加減が分からないが、

力いっぱい縄を締めて穴へと近づく。


「準備出来たわ。」


「おお、ありがたい――では早速。」


「でも。」


男の声を遮り、彼女は続ける。


「登ってくるのはもう少し待ってほしいのよ。」


「む。」


「貴方が本当に困っていそうなのは分かるけれど、貴方が悪い人じゃないっていう確証にはならないの。登ってきた瞬間、襲われるなんてことになりたくないのよね。」


だから登ってくるのは待ってほしい。

悪人かもしれない人間にこんなことを素直に言うのも馬鹿らしいとは思うが、そうでもしないと何も言わず縄を下さないことに対して逆上されてしまうかもしれない。騙されて人生が狂ってしまった彼女の人生からすると、当然の警戒であろう。

しかし、相手はそんなことを知らない人間である。少しでも誠実さを出しつつ、要求をのんでもらうしか他ならない。

……もちろん、相手がそれを守ってくれるかも分からないのも承知の上での提案。


「なるほど。まあ言い分は分かるな。ここら辺に来たのは初めてだが人通りも少ない。詩の女神がそうい訝しむのも仕方のないということか。」


「……余計な言葉が混じっていた気がするけど、気のせいね。そういうことよ。」


「分かった。……とは言うものの、どうするかな。君がいなくなったのを俺自身は確認ができないから、口約束になってしまうが。」


思ったよりも素直に応じられ、エレーナは拍子抜けする。口約束にしかならないということを言葉にするあたり、少なくとも一人で行動している女性に対する気遣いを持ち合わせていると判断してもよいのかもしれないと考える。


「ええ…こればかりはしょうがないわ。無理を言ってるのも承知だもの。そうね…縄をそっちに投げた後、詩を歌ってくれないかしら? 貴方の歌声が止まるか近くなる、もしくは縄が大きく動くようなことがあれば、口約束が破られたとみなして大急ぎで走るから。」


「おっ! 俺の美声に酔いしれてくれたか? ならば先ほどの詩をもう一度だな――。」


「それは結構よ! でも、貴方の歌声は素敵な部類になるんじゃないかしら? 興味のない分野だからどうでもいいけど。」


「それは残念。まっとりあえずその案で行くか。縄を投げてくれ。」


それと、と男は続ける。


「――リクエストは?」


エレーナは自作の詩でなければなんでもいいと思いながら、ふと思い浮かんだ曲名を一つ上げる。


「ちょっと前に流行っていた悲劇の歌――『愚者の抱擁』、どう? 歌えるかしら?」


貴族であった時に付き合いで何度か観に行った悲劇で登場した歌『愚者の抱擁』。

騙され、真に愛する人を捨て道を間違えた男が自分の行いを悔い改め、愛を乞う歌だ。

ストーリーは暗く、最後には主人公とヒロインは共に自死を選ぶという内容からエレーナ自身はあまり観ることは好まなかったのだが、当時流行っていたものだから付き合いで観るうちに印象に残ったから……。と、彼女は誰にでもなく言い訳をする。


「ああ…この国じゃあ流行ってたからなあ。歌えなくもないが…陰鬱なチョイスすぎないか?」


「なんだっていいわよ。パッと思いついたのがその曲だっただけ。……そうね、曲を二周するくらい歌い切ったら登ってちょうだい。」


「了解。いやあ助かった! 礼が出来ないのが歯がゆいが、まあそこは俺の歌を聴きながら心地よい帰路についてくれ。」


「自己肯定感が高くて何よりだわ…。」


自信満々な男の言い分に呆れながら、エレーナは荷物を持ちなおし今度こそ家に向かって歩き出す。男の低い歌声が穴から響く。

聴き馴染みはないが明るい旋律。そして滑るように使われる言葉は隣国の――…。


「(……あら、もしかして旅行に来た人だったかしら。)」


曲が終わる前に人通りの多い場所へと移動しなければいけないのに、暖かな日差しを思い浮かばせる歌に、エレーナはもう少しだけ聴いていたいと考えてしまった。

寒くてちょびっとだけ寂しいのかしらね、と。結論をつけ彼女は歩く。


彼女がその場からいなくなった後もきっちり二曲分、暗い穴から陽気な歌声が響いていた。



「…貴方、犬の嗅覚とか耳の良さとか褒められたことないかしら。」


「おっ! どうして分かるんだ?」


声だけの出会いだったはずの二人は、その翌日男の謎の力により顔を合わせ交流を深め、

ついには友となり、距離を縮めていくはずなのだが。

それは、また今度。


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