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こわいはなし

 これは私が学生だった頃の話


 当時私は専門学校に通っていて、単位が取れるだけの出席率を確保すると学校をサボって旅に出る…というか、フラフラ放浪していた。

 埼玉に住んでいて都内に通学していたので基本的には定期券の範囲内にある駅から歩いていける神社仏閣や博物館等を巡ったり隠れ家的なカフェを探したりしていたのだが、バイト代がある程度貯まると短くて三、四日長期休暇が絡むと二週間程旅に出たりするような生活をしていた。もっとも、昔からフラフラと出掛けるような事は良くあり中学生の頃は休日になると日の出前から家を出て夜まで帰らないといったことはほぼ毎週していた気もするが…

 とはいえ、一応養われている身なのではあるし未成年なので怒られない程度には押さえていたつもりではいたのだけど、世間はポケベルから携帯電話に移行し始めていた時勢で、携帯電話を持っている高校生は珍しく、周囲に自慢するような時代にも関わらず、中学生の身でありながらポケベルと携帯電話を持つことを親に強制させられるのだから親からしたらかなり問題視していたのかもしれない。


 専門学校に入って始めての夏休み、私は北海道に旅行に行った。確か最初は新鮮なサンマが食べたくなったから…といった冗談のような理由だったはず。他にも湖観たいとか人里離れた所に行きたい等の思いはあれど、メインはサンマだった。

 思い立った翌日には夜行バスに乗り青森へ、更に翌日には札幌市でレンタカーを借りて北海道東部のとある町へ。荷物は60Lサイズのリュックサックに外付けサブバッグ。中身は着替えと最低限のキャンプ道具一式。そして祖父から貰った、狩猟ナイフ・剣鉈・鉈・手斧の四点セット。

 祖父の古い知人が東部にある町の駅近くに住むのでお願いして車を数日預かってもらい後は徒歩。といっても、山というより丘陵地帯に近いルートだし基本的にはそれなりに整備された道路なので余程道を外れて歩かない限りは遭難することなど起こらない、危険の無い道程だ。

 危険な箇所をもなく、走ってくる車もない。夏の北海道特有の空気に包まれ歩く。地元では味わえない空気が気持ち良かった。

 日暮れ近くになり野営の準備をすることに。道路から100m程離れたところにある小さな川、その近くに周囲より小高くなっている場所を見つけたのでそこで野営をすることに。近くの雑木林から枯れ枝や落ち葉を広い野営場所へ。

 後になって思うと、その時の自分の感覚を信じていればあんな体験をしなくて済んだのにと少し後悔がある。

 野営場所の準備をしている時に何かの気配を感じてはいた。視線を感じているときのなんとなく落ち着かないような気分、視線に晒されている側の腕や頬がざわつく感覚。そして何処からか流れてくる生臭さ。

 しかし私は自分の直感を信じることができなかった。ホラー映画等なら確実に死亡フラグだ。

 雑木林で枯れ枝を拾っているときは強くなったその感覚も野営場所に戻ると殆ど感じなくなり、やはり気のせいだったと、元来人混みが苦手な自分が都心で過ごすことによって疲れていても不思議ではなく、少し過敏になっているのだろうと思いそのまま食事の準備をしつつテントを組み立てることに。

 夕食を終え少し雲はあるものの快晴とも言えるような星空を眺めつつラジオのスイッチを入れる。微かに音を拾うもののノイズの方が大きく、内容がほぼ聞き取れない。それでも何とか明日も晴れというのが分かったので、寝るためにテントの中へ入ろうとする。

 焚き火の炎が照らせない、光の届かない闇の中に何かの気配を感じた気がした。微かに生臭さを感じる空気が流れてきた気がする。まるで何かの息遣いのように。パチパチと焚き火の音がする以外は微かな葉擦れの音。身体を動かしたら何かが起こる、もしくは何かが終わる。そんな緊迫した空気。

 燃えた枝が一際大きな音をたてて爆ぜた時、唐突に気配が消えたかの様に圧迫感が無くなった。何か嫌な感じがしたので、火を強めにしテントの四方へ盛り塩をする。テントの中に入り横になる。暫くすると気分も落ち着いてきたのか眠気が来る。

 明日は速く起きてさっさと出発しようと考えつつも眠りの中へ。


 ふと何かの気配を感じて目を覚ます。腕時計を見ると午前3時過ぎ。

 テントの出入口とは反対側、雑木林のある方角にテントの布地一枚を挟んで向こう側に何かいる気配。生臭い臭いが強い。

 テントの後ろ側を左右にいったり来たりしている。草を踏む音が左右へと動く。何かはわからないが圧迫感が強い。息を殺した布の向こうの気配を探ると荒々しい息遣いが聞こえる。息を吐くと同時に生臭い臭いが強まる。数メートル向こうにいた気配が近くに寄ってくる。生臭い臭いの中に腐敗臭と獣臭さが混じっている。気配が物理的な物であるかのような圧迫感を伝えて来る。

 仰向けの身体を少しずつうつ伏せに変えていく。

 気配がテント側面に移動する。その時気配が一つではない事に気がついた。

 側面に移動した気配とは別の気配がテント背後に残っている。

 寝る前に感じた気配はこいつだとなんとなく理解する。そう理解すると同時に、雑木林で感じた気配はテントの横にいる奴なのだと。

 雑木林の方にいる気配は動かない。テント横の気配はテントの周囲をウロウロしている。圧迫感の中で、この違いは何なのだろうかとふと考える。何となく雑木林の方の動かない気配が近寄ってきたら終わりなんだと思った。横にいる気配がテントを押した。右手側の布地が押し込まれてきた。雑木林の方のからの圧迫感に意識を向けていたので注意が逸れていたが、自分のすぐ近く、テントのすぐ向こう側布に阻まれているが直接的な距離は1mも無いのは確実だろう。

 ふと視界に入った腕時計な目をやると午前3時30分。気が付くと20分近くこうしていた。生臭い臭いにも鼻が慣れていた。

 気配がテント前面側に移動してきている。

 無意識に首からぶら下げている御守りに手を遣る。身代り御守り。フラフラと何処かに行ってしまう私に、以前付き合っていた恋人が贈ってくれた御守り。自分が居なくなってもこの御守りが護ってくれるよと、最後のデートで贈ってくれた御守り。なんだか無性に会いたくなってきた。家に帰ったら会いに行こう。

 テントの前面に気配が来る。テントの前面の向こうには焚き火がある為気配のシルエットがテントの布地に映る。その映りこんだ姿に私は息を止めた。息を飲むなんてものじゃない。自分の鼓動の音ですら不味いと脳内で判断したのか、先程までうるさいぐらいだった自分の心臓の音が聞こえない。或いは本当に一瞬止まったのかもしれないし、余計な情報として脳内で処理してたのかもしれない。

 そんな空気の中で一部の冷静な部分が思考を紡ぐ。『コレは確かに雑木林の方の動かない気配がこっちに来たら終わりだ』と。

 はたしてテントに映りこんだシルエットは何なのかというと、クマだった。


 食肉目、クマ科、クマ属、種小名ヒグマの亜種になる、標準和名エゾヒグマ、英名Ezo_Brown_Bear

 その子どもがテントの前にいる。シルエットからテント入り口横の塩を舐めているのが判る。大きな音はマズイ。音を立てないように少しずつ動き、枕がわりにしていたサブバッグからナイフを取り出す。次にリュックサック側面にくくりつけてある剣鉈を鞘から抜く。少しずつ、少しずつ。鞘で擦れて音を立てないように少しずつ。手が震える。必死で恐怖を押さえつける。もしこの震える手で剣鉈と鞘で音を立てれば気が付かれる。子グマが動きを止めると私も動きを止める。

 『今この瞬間にテントを破って中に入ってきたら』という恐怖感で一気に鞘から抜きたくなるが、それをしたら確実に自分は死ぬだろう。

 逸る心を落ち着かせろと頭の中で声がする。

 雑木林の方にいるのは恐らく母グマ。仮に子グマと闘って勝てたとしても、雑木林の方にいる親には勝てない。子グマに勝って相手が逃げるならいいがそんな事はあり得ない。大人のヒグマ、それも子どもを殺した相手には容赦等ないだろう。それこそ万に一つ勝てるかどうかであろう。

 私にとっての勝利条件はクマに勝つことではなく、クマと闘わないことだと冷静な部分が語りかけてくる。

 剣鉈を抜き終わる。子グマはまだ盛り塩を舐めている。うつ伏せの体勢から身体を起こしテント入口の方を向き、立て膝になる。子グマが塩を舐め終わる。

 テント入り口のファスナー部分近くの匂いを嗅いでいる。両手に力が入る。喉が渇く。唾液が出ていない。口の中もカラカラに渇いている。さっきから瞬きをしていないのか眼が痛い。そんな状態だが全身の感覚が冴え渡る気がする。後になって思うと、恐らくアドレナリンが多量に出ていたのだろう。アスリート何かが極度に集中した時の、所謂ゾーンと呼ばれるものはこの時の感覚のようなモノなのではないかと。

 子グマがテントに鼻を押し付けてくる。テントが微かに揺れる。右手を使いテントを押す。テントの生地が爪で裂ける。覚悟を決め両手に持った刃物を相手の顔面を狙いやすい位置に持ち上げる。

 突然親グマが唸り声をあげる。唸り声に聴こえただけで実際は子グマを呼んだのだろう。その証拠に子グマが鳴き声をあげテントから離れていく。離れていく気配を感じながら「子グマの鳴き声可愛くなかった」と気の抜けるような事を考える。映画なら確実に次の瞬間襲われて死ぬな、と思いつつも半ば確信的にそれは起こらないとも思う。そんな不思議な感覚に包まれながらも白み始めた空の下に出る。両手に持った刃物は仕舞わずに雑木林の方を見る。何もいない。生臭い臭いもない周囲を見渡す。何もいない。盛り塩を見ると崩されているものと舐められているものがあったテントの後ろの盛り塩は崩されていた。

 テントから荷物を取り出しテントは焚き火にくべる。テントに勿体無いが持って帰ったら道中追い掛けられる。置いていくのも、通り掛かる人がいたら危ない。ここで燃やしていくのが一番安全だろう。燃えるテントを眺めながら荷物を確認、テントの外には何も出していなかったので薄暗い中灯りを使わず歩き出す。

 町まで約20km休み無しで歩いて5時間、実際はプラス30分といったところだろうか。クマが追い掛けてこないことを願いつつ歩きながら御守りを触る。中の板が割れている。どうやら強く握りしめていたようだ。日が上る。空を見上げると雲一つ無い快晴。どのタイミングで剣鉈をしまおうかと考えながら歩く。

 取り敢えず暫くはクマの出そうな山に行くのは止めておこうと思った。

 町はまだ先。


お化けより怖かった。というか、死ぬかと思った

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