君と味わう温泉気分
「今日は温泉です!!!」
帰宅と同時に玄関口でそう高らかに宣言した私を、リビングからミカンが怪訝そうに眺めている。
高々と掲げたビニール袋が、がさりと音を立てた。
◆
湯けむりが充満する浴室に、私とミカンは産まれたままの姿で湯船の前に立つ。2人で並ぶには少々狭いが、ミカンと距離が近くても幸せ以外何も思わないから別に問題は無い。
「で、このお風呂が温泉になるって?」
不思議そうに湯船を覗いているミカンに、私は自慢げに小袋を見せつけた。
「じゃーん! 温泉みたいな入浴剤〜!」
そう、私が買ったのは各地の温泉が味わえる入浴剤のセットだった。仕事帰りに寄ったドラッグストアで目に留まり、つい買ってしまった。
中々旅行にも行けないし、たまには温泉気分を味わってみたい。それに金曜日だし、長湯しても明日に差し障りは無い。あと温泉で日本酒を呑んでみたかったのもある。それが動機の7割くらいを占めてるけど。
小袋の封を切り、湯船に溜まったお湯へと入浴剤をサラサラと注ぎ込む。今回は別府温泉の素を入れてみる。
入浴剤が溶けていくと同時に、次第にお湯が綺麗な薄緑へと変わり、浴室には温泉の香りが充満した。
「どう、温泉っぽくない?」
私が上機嫌で尋ねるも、ミカンは首を傾げた。
「実際の温泉を知らないから……」
「……それもそうだ」
そういえば、私も別府温泉行ったことなかった。別府ってどこだっけ……。
◆
先に身体と髪を洗ってから、私達はざぶんと肩まで湯船に身を沈めた。
狭い湯船に2人で入ると大量のお湯が流れ出たけど、まぁ気にしないでおこう。2人でお湯と温泉気分に浸ることが大事なのだ。
「んー気持ちいい」
私が伸びをしながら後ろのミカンにもたれ掛かると、「おい重いぞ」とクレームが入る。でも手を回して抱き留めてくれてるから、実は嬉しいんだと思う。愛らしい同居人だ。
特別に許可を得て浴室に持ち込んだ日本酒入りのグラスを湯船の縁に置き、ちびちびとそれを楽しむ。許されたのはグラスに半分だけなので、大事に温存しなければならない。
程よく酔いが回り、気分よく鼻歌を奏でながら背中をミカンに委ねていると、不意にぎゅっと私を抱きしめる力が強くなった。
不思議に思ったのも束の間、ミカンがぼそりと耳元で呟く。
「……旅行、行きたかったら私を置いてって良いからな」
思わず「はぁ?」と声が零れそうになるが、その間もなくミカンは言葉を続けた。
「もし、私が足枷になって林檎が自由に動けないなら、私の事は気にしないでくれ。私のせいで林檎が好きなように出来ないのは……申し訳な"っ!?」
言い終わる前に後頭部で頭突きしてやった。ミカンの腕の力が弱まったので振り解いて体の向きを変え、「あのね」とミカンを睨めつける。
「私がミカンのこと足枷だなんて感じてると思う!?」
「……」
「私がミカンを放ったらかしで1人で旅行に行くと思う!?」
「……思わない、けど」
頭突きの痛みか、申し訳なさからなのか目尻に涙を薄らと浮かべたミカンの頬を、私は両手でぎゅっと挟み込む。
「私は"ミカンと2人で"温泉したかったから買ってきたの! ミカンと共有したいから一緒にお風呂入ろって言ったの! ミカンが居るから温泉気分で楽しいの! 分かる!?」
怒涛の勢いで詰める私に、ミカンはビックリしたように固まっている。「それに……」と私は続ける。
「私がミカン居なくて寂しがらないと思う?」
その問いに少しの間を置いて、ミカンは鼻水をずっと啜ってから答えた。
「……思わない」
「でしょ」
大体、学生時代の修学旅行でさえ、一日足りともミカンを忘れたことはない。それどころかお母さんに頼んで逐一ミカンの写真や動画を送ってもらって、隙あらばそれを眺めていたくらいだ。私が家にいない間、やたらお母さんにカメラを向けられただろうから、ミカンも覚えているだろう。
「私の最優先はミカンだっていつも言ってるでしょ。そもそも、ミカンの居ない旅行なんて寂しくて泣いちゃうよ」
私が口を尖らせてそう言うと、ミカンは赤くなった目尻を下げて「もう大人なんだから、そんなことで泣くなよ」と笑った。
ミカンのせいで覚めてしまった酔いを戻すために、日本酒をちびりとまた飲む。体の向きを戻してミカンにもたれ掛かると、今度は文句を言わず抱きしめてくれた。お湯とは別の、背中に感じる温度が愛おしい。
ミカンにはああ言ったが、ミカンを連れて気軽に旅行に行けないのは事実ではある。耳と尻尾を隠したまま長期外出をした事がないから、周りにバレてしまわないかが不安だからだ。
(……出来るだけ近場で、人が少なそうな観光先でも探すかな)
私は密かに計画を立てようとを心に決め、日本酒をぐいと飲み干す。もう底に少ししか残ってなかった。
いつかミカンと旅行に行くその時は――。
「新婚旅行は、温泉にしようね」
「しんこ――は!?」
狼狽えるミカンを他所に、私は温泉付きの客室でミカンと過ごす幸せな一時を想像して、目を瞑った。




