君の好きな音
今日は近所のスーパーでセールがある。私は鬱になるほどに泣いている空の下を、傘を差して歩いていた。林檎が仕事をしている間、家事全般をこなすのが私の役割だ。勿論、そこには買い物も含まれているわけで。
(しかし、卵が一人一パックというのは辛いな)
安く買えるときに多く買っておきたいのだが、まぁ仕方がない。林檎が休みだったら無理にでも引きずっていくんだがな。冗談だけど。
耳を隠すためにフードを被っている私でも、街中の声はしっかりと聞こえている。雨が地面をたたく音、人々が交わす会話、車のエンジン音……かなり耳が良い私にとってはそれらはただの騒音でしかないが、林檎はこれを好きだという。林檎のことは大好きだが、そこだけは本当に理解できない。何故うるさいものを好むのか……。まぁそれは置いといて。
実のところ、私は傘にまだ慣れていない。店先に到着すると、ズボンの裾に付いた水分を軽く振り払い、傘袋を手に取って私は店内に入った。
店内放送を聞き流しながら、買い物メモに目を通しながら店内を徘徊する。ちなみに買い物メモについては私と林檎で話し合って書いたものだ。私だけでは我が家に必要なものは把握できないからな。ちなみに、隙あらば林檎は酒を買わせようとしてくる。林檎に身体を大事にしてほしくて規制しているのに……私の心配は伝わっていないのだろうか。
一通り商品を籠に入れ終わったそのとき、不意に、ポケットのスマホが振動した。画面を確認すると林檎からのメッセージが。
『休憩中! 雨すごいね、買い物気を付けてね』
『酒は買わないぞ』
『ひどい』
短いやり取りに小さく笑みをこぼし、私はふと思い出してメッセージを送る。
『なぁ、なんで街の音が好きなんだ?』
少し間をおいて既読が付くが、中々返事は来ない。私は一旦それをポケットに戻すと、買い漏れがないことを確認してレジへ向かう。なかなかに混んでるな……まぁセールだもんな。列に並びながら、雨のせいではね気味の前髪を眺めていると漸く林檎から返信が来た。
時間をかけた割には、酷く短いメッセージだった。
『静かなのは寂しいから』
私は思いだしていた。社会人になりたての頃の林檎を。遅くに帰ってきてはやつれた顔を見せ、コンビニ弁当を一人寂しく食べていた。勿論私はずっと寄り添っていたが、それでも、あの頃の林檎は孤独に近かった。何せ、辛さを分かち合う相手がいないのだから。
そんなある日、林檎は辛さに耐え切れずに涙を零した日があった。私を見て、もう嫌だと言った。酷く静かな部屋で、林檎の泣く声と私の鳴き声だけが音としてそこに存在していた。
「―ゃ――ま、お客様?」
店員の声にはっと我に返る。怪訝そうな顔をした店員に謝罪しながら私は籠をレジカウンターに置いた。
――私はどうして、人間の姿になれたのだろう。確かに、林檎の力になりたいと思った。寄り添ってやりたいと、辛さを一緒に背負ってやりたいと思った。でも、実のところこうなった理由は全く分からない。
だが、今こうして林檎の傍に”人”として寄り添ってやれている。それは紛れもない事実だ。
『もう寂しくないだろ』
店を出ると、雨はやや弱くなっていた。家に着くころには晴れるだろうか。
休憩が終わってしまったのかスマホが振動することは無かったが、帰ってきた林檎の表情はあの頃と違い、晴れ渡るような笑顔だった。