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壇上の悪意

作者: 春秋梅菊

壇上の悪意


                                                   

 またしても「大会」の時間がやってきた。

 こうべを垂れて壇上を歩いていた文峡(ウェンシア)は、ちらりと視線を横に投げた。

 白江(バイジアン)鎮の広場には、百人近い人々がぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、固唾を飲みながら集会の始まりを待っている。それはいかにも息苦しい光景だった。人々の顔色からは、声ならぬ声が聞き取れるかのようだ。明かりといえば頭上にたたずむ月光と、壇上の左右に掲げられた照明だけだった。

 文峽は「悪質分子・反革命劇脚本家」と書かれたプラカードを首にかけられていた。壇上の真ん中近くまでくると、背後から二人の男に押し込まれ、その場で膝を屈した。

 ここに立つのは、今日で三回目だ。彼の誇りや尊厳は、もう燃え盛るのをやめて灰になっていた。最初この壇上に連れてこられた時の屈辱は、思い出すことすら出来ない。 

 ――いったい、今日はどんな責め苦に遭うんだ? いっそひと思いに死ねれば楽だろうに!

 だが、今の彼が死を以て何を照明出来るというのか。人々にしてみれば彼の命など犬の糞も同然で、何の価値もない。

 この吊るし上げは、もう一年以上も鎮の習慣となっていて、あえてこれに反対する者もいなかった。プロレタリア文化大革命の波は全国に広がっている。ここで起きていることは、決して他の場所にしても珍しいことではなかったのだ。

 ほどなく、彼の同類がもう一人、壇上に上がってきた。彼の知らない、若い女だった。年の頃は彼より三つほど下、二十六、七といったところか。もとは大層綺麗な女性だったに違いない。だが今は見る影もなく、髪はばさつき、手足は醜い痣の跡がくっきり残り、歯に至っては数本欠けている。プラカードには「反革命分子」の五文字が毛筆で書かれていた。

 女は後ろ手に縛られており、口元を真一文字に結んでいた。彼女は文峡の隣に膝をつき、小さく俯いた。その弱弱しいシルエットを見て、彼は思わず憐憫の情がわいた。

 鎮の革命委員会を指揮している(リウ)班長が、群衆に向かって声を張り上げた。

「この女は、今朝方我々の村に逃げてきた造反分子である! 社会主義を捨て走資派に転向した、許されざる悪質な存在である! この女をいかに打倒するかは、賢明なる同志達の判断に任せることとする。以上!」

 人々は万雷の拍手で劉班長の言葉に答えた。文峡は思わずため息を漏らし、すかさず彼を壇上へ引っ張ってきた男に背中を蹴られた。

「こらっ、造反分子がため息などつくでない。許されると思うてか」

 人々の中から、一人の女が立ち上がった。文峡はその女を見て顔をしかめた。鎮の皆は彼女を「あばたの(シン)」と呼んでいる。外見ばかりか、中身まで醜悪な女だった。鎮の人々は等しくこれを嫌っていたのだが、プロレタリア文化大革命が始まるや否や、あばたの秦は皆の先頭に立って革命運動を推進し、これによって党の後ろ盾を手に入れた。近頃はその演説っぷりにも磨きがかかり、いよいよ取り巻きを囲うほどにまでなっている。おかげで村の人々は、彼女に告発されて吊るし上げにあうことを恐れ、ひたすら近づかないようにしている。

「劉班長! その女にはただちに自己批判をさせるべきです。革命への裏切りは大罪です。何としても叩かねばなりません!」

 劉班長はうむ、と頷き、壇上の女に向き直った。

「反革命分子、(シエ)(リウ)(シュエ)。お前の罪は何だ」

 いわゆる批判闘争大会において、五類分子(地主、 富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)と断定された人間は自ら罪を認め、自己批判を行わねばならない。それが許される唯一の道なのだ。自己批判を怠った場合は、罵倒のみならず暴行を受けることもあった。文峡が聞いた最も酷い話では――これは別の鎮での話なのだが――、裕福な富農夫婦が自分達の持っている中で最も高価な服を着せて壇上に立たされ、その場で服を脱ぎ、それを切り刻んで飲み込まされたという。しまいには、建てた家に使った本数分の釘を体のあらゆる場所に打たれ、死に至ったと聞いた。

 劉班長は同じ質問を、さらに二度繰り返した。ところが謝留雪は石のよう、何も答える様子がない。

 文峡は気が気ではなかった。沈黙は最大の抵抗となりうるが、それには壮絶な痛みを伴うことになる。文峡は、もしかすると女が恐怖のあまり何も言えなくなっているのではないかと思った。

 やがて群衆も怒声を浴びせ、中には野菜や石を投げつける者もいた。

 ――反革命分子を打倒しろ!

 ――共産党の裏切り者だ!

 ――徹底的に思想を改造しろ!

 あばたの秦が勢いよく挙手し、鼻息荒く立ち上がった。

「班長! その反革命分子には言葉だけでは足りないと思われます!」

 またしても取り巻きたちの拍手を浴び、彼女は得意気だった。劉班長は苦々しい表情になったが、近くで立っていた助手に顎をしゃくった。助手は頷き、いったん壇を下りてまた戻ってきた。

 その瞬間、人々は――文峡も含めてだが――息を飲んだ。助手は熱せられた鉄の棒を携えてきたのだ。批判闘争大会が始まって以来、白江鎮でこんな凶器が持ち出されてきたのは初めてのことだった。これまでは泥を口へ詰めたり、五類分子の証である帽子を被せて町中を歩かせたりするだけで、ここまで過激な手段を用いたことはない。

 助手は謝留雪の背後に立った。そして何のためらいもなく、それを女の背中に押しつけた。

 ジュッと肉の焦げる音がして、煙と共に微かな匂いが立ち上る。文峡は吐きそうになって、顔を背けた。

 だが、何と女は呻き声ひとつ漏らさない。体を震わせ、歯を食いしばって耐えていた。助手は立て続けに棒を突き立てたが、女は小さく身をよじるだけで、倒れなかった。それでも微かに鼻から息が漏れ、目をきつく閉じ、肌には大量の玉粒の汗が浮いている。

 またしてもあばたの秦が吠えた。

「班長! 頑固な反革命分子には、我々も徹底的な手段を用いるしかないと思われますっ!」

 人々はこの恐ろしい光景に肝を冷やしていたが、秦のこの発言にはかえって怒りが湧いたようで、何人かが鋭い視線を彼女に向けた。文峡も立場が立場なら、助手の棒をひったくってあの女の肥えた腹に突き刺してやりたかった。あばたの秦は周囲が自分に賛同しないとみてとるや、ヒステリックに怒鳴り始めた。

「何よっ、あんた達はそれでも革命を遂行する戦士なの? あの程度の懲罰を見たくらいで情けない! これで怖気づくようじゃ、いつまで経っても内側の敵を打倒出来やしない! それだけじゃない、あんた達だって同類だと思われるんだよ、いいのっ」

 その時、謝留雪の体がかしいだ。劉班長は表情にこそ出さなかったが、さすがにまずいと思ったか、批判の矛先を変えた。

「造反者は一人ではない! 文峡、お前の罪は何か?」

 文峡は弾かれたように立ち上がった。その狼狽ぶりが滑稽だったのか、荘厳な空気が和らぎ、群衆から失笑の声が漏れた。文峡は己に腹が立ち……同時に情けなく思った。彼は抵抗する勇気もなく、たどたどしい声で告げた。

「鎮の人間に、反革命的な劇の脚本を書きました。子供たちに……教えたりもしました」

 途端に、広場が怒号で満たされた。さきほどの謝留雪に対する凄惨な仕打ちは、誰しも息を飲むばかりで気後れしてしまった。だが「あばたの秦」の言うように、そのような態度は反革命分子の味方だと告発されかねない。劉班長が批判の相手を文峡へ変えたのは、そうした読みもあってのことだったのだろうか。

 劉班長が怒鳴った。

「それは既に知っている! 自己批判をせい」

「私は改造に努め、今後……今後一切、反革命的な劇を見せません。人にも教えません。私がやってきたことは、国や人民に対し害を与える行為でした」

「お前のような悪質分子が現場にいたことは、教育機関の多大な汚点である! 我々はそれを学ばなければならない。文峡、お前には反省の意思が見られない。よって、今日ここでお前の教えた生徒達の言葉を聞き、しっかり改造に努めるように!」

 文峡は劉班長の言葉の意味がわからず、一瞬呆然とした。ところが、群衆の一角にいた人影が一斉に立ちあがったのを見て、ようやく理解に至った。

 彼の教え子達だ。全部で十四人、文峡は彼らと視線を合わせるのが忍びなく、俯いた。すると助手に頭をはたかれ、顔を上げるよう怒鳴られた。

 逆らうことは出来ない。彼は観念した。ややあって、一人の男の子が、携えていた作文を読み始めた。

「文峡、あなたは僕達に反革命的思想を植えつけるべく、間違った教育を施した。それは、偉大なる建国の父である毛主席に対する裏切りである!」

 その子供は白軍(バイチュン)といって、クラスの中でも最も賢い生徒だった。気が利いてお茶目なところもあり、皆の人気者だった。もちろん、文峡も彼を愛していた。それがどうしたことだ。公衆の面前で、自分を罵倒する文章を聞かせられるとは。文峡は悔しさの余り、涙を流しかけた。こんな仕打ちには耐えられない。

 革命の初期、学校の教師達は真っ先に打倒の対象となった。今ではその多くが度重なる運動の中で亡くなっていた。打倒の対象がなくなってきたので、ついに美術や伝統芸を嗜む人間にまで類が及ぶようになったのだ。

 文峡は若い頃に大学で伝統劇を学び、家の商売を継ぐ傍ら脚本の仕事を請け負っていた。子供達が学芸会を行う時は毎年、臨時の演技指導員として動員されていたのだった。だが文化大革命が始まってから二年余りで、演劇は有害・無害・有益なものに区別され、有害なものに関しては打倒の対象になったのだ。

 白軍の演説が終わると、群衆は一斉に拍手した。劉班長は名簿を読み上げていき、次々と生徒を指名した。文峡は何度も壇上から飛び降りて、地に頭を打ちつけて死にたい衝動に駆られた。教え子達の演説は地獄の音楽そのもの、いつ終わるとも知れない。一時間経ったか? それとも二時間か? 文峡の心をナイフのように突き刺し、傷口を深く広げていく。

「次、常信聞(チャンシンウェン)!」

 劉班長が大きな声で指名したが、返事がない。白軍が手を挙げた。

「劉班長、常は欠席です!」

「何故、欠席なのか」

「体調不良です」

 すると、白軍の隣にいたちびの子が挙手した。

「常は文峡と仲が良かったので、悪質分子かもしれません!」

 人々が微かにざわめいた。五類分子には大人子供の区別はない。富農の子はやはり富農のレッテルを貼られ、どこまでも革命を妨げる存在なのだ。

 文峡は痛ましく思った。教え子が自分のために打倒の対象となるのは、自分がいたぶられるよりずっと辛い。

 劉班長が頷いた。

「よかろう! 常家に関しては、よくよく取り調べを行うこととする。本日は解散!」

 群衆は去って行った。劉班長は壇上の者に明日の朝六時に広場へ集合することを言いつけ、留雪の縄を解き、部下と共に帰っていった。

 文峡は泣いた。こんな日々が、あとどれほど続くというのだろう。やはり飛び降りていれば良かったのだ! むざむざ生き延びて、こんなみじめな思いをすることも無かったろうに!

 ようやく泣き止むと、もう壇上は彼一人だけになっていた。謝留雪はいなかった。

 五類分子は彼以外にも十人余りいたが、告発を恐れて互いに気遣いを見せたりすることはなかった。

 文峡はのろのろと帰宅した。


 七日後、文峡の恐れていたことが現実になった。前回の批判闘争大会を欠席していた常家が家族全員で壇上に立たされていた。他に立っていたのは彼と、謝留雪だけだ。

 文峡は震えを抑えるので精一杯だった。これは怒りのせいか、それとも恐れのせいか。

「大丈夫。すぐに終わるわ。黙っていればいいの」

 不意に、横合いから女の小さい声が飛んできた。ちらりと見やったが、謝留雪は俯き、自分の足元を見つめている。

 彼女は今回も酷い目にあった。劉班長の靴でふくらはぎを何度も叩かれた後、左手の爪を三枚はがされ、集会の最後まで指から血がしたたり続けていた。数え切れないほどの罵倒も浴びたが、彼女は依然として俯くばかり、何の反応も示さない。

 あばたの秦はこの有様に怒って抗議した。

「班長、この女の家を焼き払ってやります! それくらい強硬な手段をとらなければ、打倒することは出来ません!」

 常信聞は、半ば泣くような声で文峡に対する打倒文を読んだ。めざといあばたの秦はその子供には教育が足りないと叱責し、その両親をも痛罵した。

 文峡は心が切り刻まれる思いだったが、それとは別に信聞がここまで己を慕ってくれていたことに感動を覚えた。信聞は劇が大好きだったが、生来内気な性格で、クラスの学芸会でも目立つことはなかった。歌も下手だった。だが文峡はそのことを咎めたり、分け隔てをしたこともない。

 大会が済むと、常一家は暗然たる面持ちで帰っていった。文峡はかける言葉もなく、ただその場にたたずんだ。

 己がひたすら恨めしい。だが、前回のように衝動的な死を望むことはしなかった。彼が変な気を起こして死んでしまえば、打倒の対象が一人減ることになる。そうすれば、常家に向く矛先の数や鋭さが増してしまう。それだけは出来ない。彼らへの批判を軽くするためにも、文峡が耐えねばならないのだ。悲壮な義務感は、彼の胸を熱いもので満たしてくれた。久しく忘れていたような感覚だ。

 壇上に跪いていた謝留雪が、ゆっくり立ち上がった。怪我をした足を引きずりながら、こうべを垂れて去っていく。彼はふと思い出したことがあった。広場には彼ら以外誰もいない。勇気を振り絞ると、その背に声をかけた。

「さっき、あなたが俺に声をかけてくれたのか?」

 女はのろのろと振り返った。彼女の左手からしたたっていた血は、飴玉みたく凝結している。

「いいえ」

「だったら、俺の気のせいだったんだ」

 謝留雪は視線を落とした。

「私……ただ、自分を励ましていただけなの」

 文峡ははっと相手を見た。彼も、痛いほど彼女の気持ちがよく分かったのだ。

 謝留雪はもうきびすを返して、広場の出口へ向かっていた。破けたズボンから覗くふくらはぎはぱんぱんに膨れ上がり、相当手ひどくやられたのがわかる。文峡は自宅に薬がいくつか残っていたのを思い出し、彼女を追いかけた。

「待て。送っていこう」

「結構よ。私達が一緒にいるのを誰かが見つけて、告発するかもしれないもの」

「この際、反革命分子のレッテル一枚増えたところで、どうってことはない。あんた、大会に来る度に散々痛めつけられているじゃないか」

 だが謝留雪は聞く耳を持たず、さっさと行ってしまった。

 彼は少々腹を立てた。あの女は元共産党員だ。五類分子の身分に落ちても、かつて打倒していた相手と同類に思われたくないのかもしれない。まあ、その心理も理解出来ないことはない。だが、それでも腹立ちが抑えられなかった。お互いの境遇を思えば、助け合ってこそではないか?

 三か月が過ぎた。文化大革命の波は鎮まるどころかますます荒ぶり、大勢の人間を飲み込んでいった。文峡と謝留雪は相変わらず矢面に立った。しかし二人の距離は以前と変わらなかった。大会中はお互いに顔を向けることすら許されないし、大会が終われば終わったで、文峡はとっとと帰宅していた。

 革命委員会は文峡の改造教育の一環として、革命劇の鑑賞を命じた。子供達が紅衛兵の恰好をして毛主席を称える、貧しい階級の子供が努力して国のために尽くす、といった類の内容が多い。自分が教えてきた伝統劇は、何が悪かったのか。玉堂(ぎょくどう)(しゅん)梁山泊(りょうざんぱく)(しゅく)(えい)(だい)西廂記(せいしょうき)……。全ては上塗りされ、何一つ残っていない。ああ、これが中国の至るところで起こっているのか……。

 謝留雪への打倒も留まるところを知らず、殴る蹴るはもはや習慣となっていた。彼女への暴力は、劉班長が率先して行った。決してやり過ぎるところまではいかなかったが、それでも見られたものではなかった。

 ある日、謝留雪は髪を剃り落とされ、裸足の足裏を皮ベルトで打たれた。大会後、彼女はいつも通りに帰ろうとしたが、血塗れになった足裏の痛みは尋常でないらしく、何度もその場に膝を崩してしまう。季節は晩秋、風は人を凍てつかせんばかりだ。

 ――放っておいたら、帰れなくなるだろう。

 文峡はとうとう、うずくまっている彼女に話しかけた。

「俺が送る。家を教えてくれ」

 謝留雪の体がびくりと震えた。そしてそのまま倒れてしまった。文峡が慌てて彼女を抱え上げると、相手はうっすらと目を開けて文峡を見上げた。彼は周囲に誰もいないことを確認してから、ゆっくりと歩き出した。

 通りはすっかり闇に飲まれている。ここ数年、鎮の人々は夜は早く休み、朝は遅く起きるようになっていた。きっかけはあの「あばたの秦」のせいだったか。夜中に明かりがともっていれば、昼間することが出来ない反動的な活動をしている可能性がある、彼女は大会でそう熱弁したのだ。

「あそこが家よ」

 謝留雪が弱弱しく手を上げ、通りの角を指し示した。文峡は驚いた。

 それは家ではなかった。馬小屋だったのだ。

「私、この鎮に来た時は家が無かったから。あそこをあてがわれたのよ」

 文峡は頷くことも出来なかった。馬は革命騒動の中で盗まれるやら売り払われるやらでもういなくなっていたが、まさかそこに人を住まわせようとは。

小屋の中には、藁をしきつめた寝台が置かれていた。文峡は彼女をそこに横たえると、いったん家に引き返し、薬を持って戻った。

その時にはもう、謝留雪はすっかり寝入っていた。足裏に薬を塗りつけてやった彼は、後々のためにとっておこうと、それを小屋隅の棚上に置いた。棚上には、共産党員であったことを示す手帳と印章があった。

文峡はため息をついた。

――俺もよくよく馬鹿な男だ。この女は自分を迫害していた人間と同じ側にいたんじゃないのか。それをこんな風に面倒を見るなんて。

不意に、隅の方で大きな影が動いた。

「誰だ?」

 闇の中で双眸が光り、探るように文峡を見ている。ややあって、影はゆっくりと近づいてきた。

 文峡は絶句した。影はあばたの秦だったのだ! 革命の功労者、人々の畏怖の対象が、何故ここにいる? 文峡は驚きの余り、体中がマヒしてしまった。

あばたの秦は腰に手をあて、厳しい面持ちで聞いた。

「悪質分子が、ここで何をしているのっ?」

「お、俺はただ――」

「さっさと失せなさい! さもなきゃ今度の大会で、お前の足腰がきかないようにしてやるよ!」

 文峡は謝留雪をちらっと見た。あばたの秦は、ますます彼女を酷い目に遭わせるつもりなのではないだろうか。何せ革命の敵を見つけたとあれば真っ先に叩いてきた人間だ。

 彼は逡巡した。謝留雪のような人間を助けるだけの義理はない。彼は命が惜しかった。

 気がつくと、もう足先は出口を向いていてよたよたと小屋の外まで走り出していた。自分の家あたりまで戻ってきて、ようやく罪の意識が湧き始めた。

 あばたの秦の顔、血まみれになった両足、馬小屋の壁に散った血の飛沫……。

あれ以上の暴力をふるわれたら、謝留雪は死んでしまうかもしれない!

 文峡は身震いして、首を振った。冗談じゃない。自分が見捨てたばかりに彼女が死んだとあっては、一生後悔することになる。彼は決して善人とはいえないが、人を見殺しにする愚か者ではない。いや、そんなものにはなりたくないのだ。既に彼は人としての扱いすらされていなかった。これ以上、他人から苛まれる口実を増やしたくないのだ。

 文峡は全力で馬小屋に駆け戻った。

 だが、現実は彼の思い描いた光景と異なっていた。あばたの秦はそこにいなかった。

「戻ってきたの?」

 か細い声を聞いて、文峡はぎょっとした。謝留雪がいつの間にか目を覚ましていたのだ。

「気になったんだ。さっき、あの女が……」

 文峡は何だかわけがわからなくなった。ちらりと棚に目をやると、例の手帳が目に入った。

「君は、本当に党の人間だったんだな」

「それが?」

 謝留雪はにべもない。

「何も毎回、あんな辛い目に遭っていることないだろうに。自己批判すれば、すぐにでも元の地位に帰り咲けるはずだ」

「それはしないわ。私は間違っていないもの。ありもしない罪を認めて、一生恥を忍んで生きていくの?」

「自己批判して元の地位を取り戻せば、誰も君を責めないだろう。それどころか、評価するかもしれない」

 すると、女はせせら笑った。

「あなた男でしょう? 何でそんな軟弱な考え方をするの?」

 文峡は歯を噛みしめた。自分が恥知らずなのは、とうにわかっている。

「君は、いったいどうして反革命分子にされているんだ?」

「劉班長に打倒されたから」

「え?」

「私は隣村の班長だったけど、その時、国営売店をやっていた劉班長を打倒して、地位を剥奪したの。でもどういうわけか彼は復帰して、今度は私を打倒した……」

 謝留雪は天井を見つめ、ぽつぽつと語った。

「あとで聞いた話だけど、あの男は平身低頭して色んなつてを探し回ったそうよ。そして私のことを徹底的に調べ上げて、沢山の罪を着せたわ。今時、何もかも言い方次第で罪になる。だけど私は屈したくないから、こうして耐えているの」

 文峡は黙り込んでしまった。この女の愚かしいまでのプライドには、頭が下がるようでもあり、呆れかえりもした。

「いつか死ぬことになったら、どうするんだ」

「死なないわ」

 彼女の眼は怪しく輝いていた。

「耐えて待っていれば、必ず逆転の機会はあると、わかっているんだもの」


 大会が開かれ続けた。革命の火は尽きるところを知らない。人という薪が、その火の中で燃やし尽くされない限りは。

 壇上に立たされる五類分子の数は増える時もあれば、減った時もあった。大半は自己批判をして己の罪を認めた。許されることもあれば、そうでないこともある。文峡は後者の一例だった。

謝留雪も相変わらず壇上にいて、俯く抵抗を続けていた。それは度々民衆の非難の的となったが、どういうわけか、いつしか彼らの中には、謝留雪へ同情に近い視線を向ける者も表れた。説明のつかぬ、何とも不思議なことだった。

しかし文峡はある日、その秘密に気がついた。時として、自己批判をする人間は自分の罪を認めるというよりは、聴衆に向かって媚びているような印象を与えるのだ。そういう態度が気に食わなくなって、民衆はむしろ彼らを拒否する。謝留雪の態度は反抗的だが、実に堂々としたものだった。革命は常に英雄を求めている。彼女の気概は、例えそれが打倒すべき敵であったとしても、賞賛に値するものではないのか?

 彼女は自己批判をしないかわりに、五分間何かを話すことを強制された。謝留雪はいつも、最初の数分黙しているのだが、やがてゆっくり口を開いたかと思うと、蛇口を捻ったかのように言葉が流れ出す。実質、しゃべっていることは三分にも満たないのだが、内容はどれも心に訴えかけるものばかりだった。自分が打倒されたこと、裏切られても間違った罪を認めてはいけないこと……。壇上に立たされる五類分子はその話を我が身のことと重ね、歯を噛みしめて涙を流す者もいた。

 当然、劉班長はそうした演説を認めず、こっぴどく彼女を打ちのめした。しかし文峡が驚いたことに、あばたの秦は謝留雪に手加減を始めたようだった。演説を耳にしても、あの容赦ない罵倒の数々を、謝留雪には一切浴びせなかった。劉班長がかえって躍起になり、謝留雪を責め立てた。

 その年の六月は、鎮での闘争運動が始まってちょうど二年と半年にあたるため、より規模が大きかった。具体的には、鎮のあらゆる五類分子が集められた。その数は三十人余り。中には老婆や子供もいる。いずれも自分の名前と罪状の書かれたプラカードを首から下げていた。

 劉班長が高らかに宣言した。

「我々は五類分子を打倒し続けていたが、未だに造反の根をもぎ取るところまでは至っていない! 我々はまだまだ甘いのだ! 偉大なる毛主席は、革命は激しくあるべきだとおっしゃっている。我々もさらに苛烈な運動を推進しなければ、決して革命の日の出を見ることは無いだろう!」

 人々が拍手喝采、劉班長は誇らしげな顔で二歩退いた。

 文峡は周りに気づかれないように、隣で膝をついている謝留雪へ目をやった。彼女はいつも通り落ち着いていた。

 自己批判が始まるまさにその時、広場にクラクションの音が鳴り響いた。人々が慌てて左右に散り始める。

 車が三台入ってきた。いずれも党幹部専用の車だ! 劉班長は唇が裂けんばかりに笑みを浮かべた。記念すべき大会の日に、わざわざ党の幹部が訪問してきたのだ。彼としては己の成果を誇示出来るし、鼻高々だろう。

 車から六人の幹部が降りてきたので、劉班長はその場に駆けつけて挨拶をした。普段威厳たっぷりの劉班長がへいこらしているので、群衆は恐れの表情を浮かべている。幹部は会釈するのみで、すぐに壇上へやってきた。腕章をつけた幹部の一人が、人々を見まわして言った。

「ここに、秦美静(メイチン)はいるか!」

「は、はい! 私ですっ」

 立ち上がったのは何と、あばたの秦だ。彼女に美静などという、滑稽なほど外見に不釣り合いな名前があったことを、鎮の誰もが忘れていた。

「では、秦同志。今朝、君のもとにある書類が届いているはずである。読み上げたまえ!」

 あばたの秦はごくりと唾を飲んだ。文峡はこの展開にすっかり困惑した。人々も同じ気持ちのようだ。あばたの秦は、傍らに置いてあった紙袋から、封筒入りの書類を取り出し、中からさらに一枚の紙を開いて、大声で読み始めた。

「偉大なる毛主席の中国共産党に代わって、代弁す。共産党文化大革命委員会浙江省白江鎮班長・劉乗(チェン)(チャン)は、反革命分子の処断において過りを犯し、数多くの同志を傷つけ、党の名誉をも傷つけたことが確認された……」

「でたらめだ!」

 話半ばで、劉班長が顔を真っ赤に染めて叫んだ。

「嘘だ! 誰がそんなことを書いた! これまで改造に努めて、わしは正しく生まれ変わったんじゃ!」

 あばたの秦は手紙を持つ手を震わせ、ちらりと党幹部に不安げな視線を投げた。相手は頷いて促した。

「秦同志、続けなさい!」

「はい! よって、劉乗成は班長の地位を剥奪し、思想改造のため県に身柄を引き渡す。後任は……秦美静同志ならびに、謝留雪同志……。謝留雪同志の処遇については、党内で既に決定しているため、異論は認めない……とのことです!」

「ふざけるなっ」劉班長が声も枯れよとばかりに怒号を上げた。「秦美静が何をやった! 成果もない、無名の人間だ! 謝留雪は反革命分子だぞ! 党の裏切り者だっ。許せるものか!」

 しかし、彼の叫びは負け犬の遠吠え程度の効力しか発揮しなかった。党幹部は謝留雪を立たせ、ぴかぴかの印象をその手に渡すところだった。

「秦同志、上がりなさい。代わって集会の指揮を務めるように」

「はいっ」

 あばたの秦は胸と尻を突き出しながら堂々と歩いた。地位を得た彼女はあたかも水を得た魚、誰の目にもこれまでとは違う存在にうつった。

 続いて、党幹部は謝留雪を振り向いた。

「謝同志、君はもともと党員だ。これからのことについて語りなさい」

 謝留雪は重石を抱えたように緩慢な動作で立ち上がった。壇上の真ん中に立つと、普段そうしているように、数分の何も語ろうとしなかった。やがて、すっと息を吐いてから語り始めた。

「白江鎮の皆さん、社会主義の革命の同志達……、私はようやく潔白を証明することが出来ました。私は、もともと共産党員でしたが、劉乗成によって打倒され、無理やりこの鎮に連れてこられ、吊るし上げに遭ったのです。私は、ただ我慢することしか出来ませんでした。今日のところは、体の疲れもあり、五分の長丁場は持ちそうにありません。一言だけ皆さんに伝えます。革命では時として、あらぬ罪を着せられることがあります。そんな時、逃げないで欲しいのです。罪を認めるというのは、屈することです。敵に降伏することです。私達に尊厳があるとするなら、最後まで一人一人がそれを守らなくてはならないと思うのです。ですから革命において、人をそのような立場に立たせることこそが最低の行為だと、私は思います。己のために人を売るような行為は、許されないはずです。この言葉を、どうか忘れないでください……。終わります」

 自然と拍手がわいた。劉班長へ送られたものより、ずっと大きく、心からの拍手が。何とも不可思議なのだが、鎮の全員が何年も前から彼女の復帰を願っていたかのような雰囲気だった。党幹部達はむしろこの演説が気に入らないようだったが、周りの流れにおされて渋々手を叩いていた。

あばたの秦がエヘンと咳払いをして、高らかに言う。

「本日の大会はこれで解散とする! 今後、五類分子に関してはあらためて綿密な取り調べを行い、真の敵を見つけ、打倒する! また今日のことは党幹部の決定であり、そのことを胸に留めておくように。以上!」

 党幹部達が真っ先に拍手したので、群衆もそれに従わないわけにはいかなかくなった。あばたの秦の取り巻きに至っては歓声を上げている。

 劉班長が一人地団太を踏み、車へ戻り始めた党幹部へすがりついて叫んだ。

「党の皆様、わしは貢献してきたんです! 本当です、どうか後生ですから、わしを助けてください」

 党幹部の返事は、三日後に改造教育の赴任先の迎えが来るので、大人しく自宅待機するように、の一言だけだった。

 あばたの秦、もとい秦班長はにこやかな顔で謝留雪の手を握った。

「謝同志、これからは一緒に運動を推進し、革命を進めましょう。私達、きっと仲良くやれるわね!」

「もちろんですとも」

 謝留雪もにっこり微笑んだ。彼女の笑みは紛れもない、共産党幹部のそれだった。


 五日のうちに、闘争の見直しが行われた。驚くべきことに、それまで五類分子とされていた人間の殆どは名誉を回復した。五類分子は全員いなくなったのだ。というのも、本来革命の敵であった知識人や教師、医師や富農といった人間は、革命が始まって一年のうちに全員この鎮から姿を消していたからだ。ある者は殺され、ある者は自ら命を絶って、またある者は存在そのものを消され……。

 一度だけ、謝留雪が文峡の家を訪れた。彼女は身なりも立派になり、剃られた髪をごまかすべく幹部の帽子をかぶっていた。

「文同志、お変わりはない?」

「ええ、まあ」

 彼は淡々と返した。自分でもよくわからなかったが、謝留雪が地位を取り戻してから、文峡は彼女を避けるようになっていた。

「ご不満のようね?」

「さあ、それはどうだか。あまりいい気分じゃないってところです。まだまだ革命は続くみたいですからね。ところで、どうして元の地位に帰り咲くことが出来たんですか?」

「秦同志のおかげよ」

 こともなげな返事に、文峡はびっくりした。あばたの秦が、人助けをしたというのか?

「あなたが私を抱いて帰った晩のことを、覚えている?」

「はい」

「あの女は、私が共産党員だったから、自分の出世のつてになるものが無いかどうかを探りに来ていたの。だから、私は一つ提案したわ」

「何を?」

「つてがあるとすれば、それはこの私自身だと言ったの。劉班長のもとでは、いつまで経っても認めてもらうことは出来ない。私を助けてくれたら、あなたに相応の地位を与えて、これまで以上の境遇を与えてやれる、とね。そしてあの男が私にした仕打ちのことも話した。彼女はすぐに考えを変えたわ。私の手帳を使って党幹部に取り次いで貰って、劉班長の弾劾文を提出したの。長い戦いだったわ」

「あなたの演説は、見事なものだったと思います。鎮のみんなが認めていた」

「生き残るには、人々の味方であることをアピールしなくては。許してくれと膝を曲げるだけでは、かえって怒りをあおるだけだわ。だから、敵はいつまでたっても敵のままなの」

 謝留雪の言葉に、文峡はふっとため息を漏らした。

「でも、もう五類分子はいなくなってしまいました。今度は、どうやって革命運動を推進するんです?」

「打倒する相手はもう決まっているわ。あのあばたの秦よ」

「え?」

「ああいう類の人間は、放っておいたらますますまずいことになる。何せ劉班長を裏切って地位を得たんだもの。それに人を蹴落すことしか知らない人間が、革命に対して崇高なビジョンを持っているはずもないわ。これから先、革命は外部の敵より内部の敵を倒すのが先決なのよ」

 謝留雪の眼は本気だった。

 文峡はぞっとした。彼女もやはり、闘争の人だ。革命はまだまだ終わらない。外の敵、内部の敵、敵はいくらでも作り上げられる。そしてそれらを殲滅するまでは……。



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[良い点] ・田舎町での文化大革命時の批判闘争大会の様子が詳細に描かれ、中国事情に疎い人にも理解しやすい。特に可愛がった教え子に批判されるくだりは本当にリアリティショックがある。 ・あばたの秦のような…
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