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柊メンタルクリニック  作者: 結城智
第1章 出逢い
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第3話 ターニングポイント

 カツ丼は値段の割にはボリュームがあり、カツも肉厚で、想像以上に美味しかった。


 お世辞抜きで、蕎麦ではなく、カツ丼を看板メニューにしても十分いけるじゃないかと思った。ただ、それは蕎麦を食べていない側の意見。拓は拓で「なにこれ。マジでうまいぜ!」と、感激の声を漏らしながら、蕎麦をすすっていた。


 会計の際、伝票を出し、拓は「会計別々で」と言って、一万円札を払う。


 店員さんは先程、出迎えてくれた女性だった。一万円札を受け取った彼女は、お釣りを拓に渡す。


「お姉さん。蕎麦、美味かったっすよ。俺、蕎麦に目がない方ですけど、ここの蕎麦は最高。もう、常連になりそうですよ」


 恥ずかしげもなく、拓は慣れた口調でお礼を口にする。一方、彼女は「ありがとうございます。また、いらしてくださいね」と微笑んで会釈していた。


「じゃあ、先行ってるな」


 会計を終えた拓は、振り返って僕にそう告げると、一足先に外に出ていく。この時、僕は少しだけ、拓の発言に嫌悪感を覚えた。


 あんな発言したら、僕もなにか店員さんに向け、料理の感想を言わなくちゃいけないじゃないか。という、小心者が抱えるような、小さな嫌悪感だ。


「あ、あの」


 仕方なく僕は、おずおずと切り出した。彼女は目を瞬きさせ「はい?」と返事をし、僕を真っ直ぐに見つめる。


 うわぁ、近くで見ると本当、美人だな。それに目力の強さ半端ない。ここでカツアゲされたら、財布ごと置いていきそうだよ。えっと、感想か。なにを言えばいいのだろう。うわー、全然、思い浮かばねぇ。拓の奴、後で延髄蹴りしてやるからな。


「あの、カツ丼も美味しかったですよ。あの肉厚なカツに染み込んだタレと、ふわふわの卵とじ。カツ丼を看板メニューしても変じゃない。あっ、でも、ここ蕎麦屋さんか。あー、僕、まだ蕎麦は食べてなし、蕎麦屋さんにそんなこと言うのは、失礼なのかな」


 なに言っているんだ、僕は。 滅茶苦茶、口下手なの、バレてるじゃないか。適切な言葉が思い浮かばず、僕は両手を動かしながら、感想を伝えたが、話しがまとまらなかった。これでカウンセラー目指しているなんて、恥ずかしい限りだ。


 しかし、彼女はそんな僕を見て、吹き出したように笑った。無表情だと冷たい印象があるその顔は、笑うと別人と思うほど、優しく、愛嬌がある顔だった。


「ありがとう。カツ丼を作ったのは、私なの」

「えっ! そうなんですか?」

「ええ。蕎麦、天ぷらはおじいちゃんなんだけど。カツ丼、親子丼といった丼ものは、私が担当してて。でも、うちは蕎麦が売りだから、今度は蕎麦を食べてみてね」


 と、急に彼女の口調が、営業トークではなく、親近感を持った口調に変わる。


 おじいちゃん。というと、彼女はバイトではなく、この店を手伝う孫ってことか。いずれ、この店をこの子が受け継ぐのだろうか? という勝手な想像を膨らましながら、僕は財布を開く。

財布には、千円札がなく、一万円札しかなかった。先程、拓も一万円札の支払いだったことを思い出し、僕は「お釣りありますか?」と確認しながら、一万円札を出す。


 途端、場の空気が変わるのを肌で感じた。


 なんだ、一体? 


 微笑んでいた彼女の顔が、急に怪訝そうに眉を顰め始めたのだ。そして、トレイに置かれた一万円札を睨むように見つめていた。


「あの、もしかして、お釣りないです?」

「いえ。ありますよ」


 彼女は僕の顔を一瞥すると、トレイあった一万円札を受け取り、そのまま、お釣りを渡された。


 どうやら、お釣りがないわけではないらしい。であれば、先程の間と表情はなんだったのだろう? 僕は少し気がかりな思いを残し、その場を去ろうとした。


「待って」


 背を向けた途端、彼女に呼び止められた。僕は少し驚いて、振り返る。


 彼女はメモ帳を切り取った用紙と、万年筆をテーブルに置くと「名前と電話番号をご記入ください」と告げられる。


 名前と電話番号を記入してください……えっ、なんで?  ポイントカードでも、もらえるのだろうか? 拓はもらっていなかったけど。


 素朴な疑問はあったものの、目力のある彼女の威圧に押され、僕は確認することも出来ず、万年筆を持って、自分の名前とスマホ番号を記入した。


「では、後程こちらから、ご連絡致します」

「は、はぁ……」


 彼女は僕の名前と電話番号が書かれた用紙を確認すると、万年筆を胸ポケットにしまう。そこにはもう、先程見せてくれた愛嬌のある笑顔はなくなっていた。


 そのまま、帰ろうと玄関の引き戸に手を当てた途端、僕はあることに気が付く。


 そういえば、ポイントカードをもらってない。なら一体、なんのために僕は、個人情報を提示する必要あったのだろうか? 気になるが、今更、振り返って聞くのも怖い。もう、帰りたい。


 外に出ると僕は振り返って、玄関口にある【柊】と書かれた、のれんを見つめていた。


「ずいぶん、遅かったな」


 外で待っていた拓が歩み寄ってくる。一瞬、先程あった出来事を話そうかと思ったが「いや、ちょっとトイレ行ってた」と誤魔化し、僕は駐車してある車の方へ歩いて行く。当然、嘘をつかれているなんて思っていない拓は「そっか」と、頷くだけだった。


 拓に事情を話したら、間違いなく、原因を追求するといって店に入っていくだろう。そういう面倒臭い流れになるのは避けたかった。


 まあ、悪用するにしても、名前とスマホの番号だけでは限度があるだろうし、そんなことをする人ではないだろう。


 なんの根拠もないが、今の僕は心配よりも、変な好奇心の方が優っていた。


「あっ。そうだ、拓」


 ミステリアスな気持ちになっているところ、僕は大事なことを思い出し、拓の方を振り返った。


「後で延髄蹴りしていい?」


 僕がそう言うと、拓は目を丸くしていた。


 「ん。なんだ、歩。プロレスしたいのか?」


 どうやら、当の本人は犯した罪に気付いていないようだ。ここで白黒はっきりさせようか。否、させない。させたら、僕はもっと惨めな思いをするだろう。拓が店員さんに、スマートな発言している中、僕は滅茶苦茶な発言になってしまったことは、闇に葬るとしよう。


 しかし、先程、店員さんが僕の名前と電話番号を聞いてきた理由。その事実をここで聞かなかったことは、大きなターニングポイントになっていた。


 そう、この出来事こそが、人生の分岐点になるとは、この時の僕は夢にも思わなかったはずだ。

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