プロローグ
人は本当に悲しい時や絶望に達した時、涙は出ない。呼吸が苦しくなり、意識が飛びそうになるのを、必死に堪えることで精一杯になる。
人生で一番の絶望を感じた時、人はそうなるものだと、若くして僕は経験した。
姉さんが死んでから、六年経つ。今年で僕は二十一歳になる。
六年前。僕が十五歳で、姉さんが十八歳。その日は、蒸し暑さが一挙に霧散するような豪快な雨が降っていた。
教室の中。普段と変わらない光景。授業が退屈で、僕はいつも通り、窓の外を眺めていた。今日も同じ。変わらない日常のはずだった。
しかし、日常というものは、ある日、心の準備なくして崩壊するもの。それがあの日だったのだ。
授業中。教室の中に慌ただしい様子で、教頭先生が入ってくると突然、名指しで僕は呼び出された。
「君の姉さんが、病院に運ばれた」
教室から出ると開口一番、教頭先生にそう伝えられた。
どうして? と、聞こうとしたが、教頭先生の表情を見る限り、状況が深刻なのは直感できたので、僕は促されるまま、手配されたタクシーに乗り、病院に向かった。
病院に到着し、受付で姉さんの病室を聞こうとする前に、母さんの姿を見つける。僕が声を掛けるより先に、母さんがこちらを振り返り、互いに目が合った。
途端、僕は衝撃を受けて言葉を失う。
母さんは顔面蒼白で、怯えたように肩を震わせていた。普段、喜怒哀楽の中で、哀しみはほとんど表に出さない母さんだ。僕の嫌な予感は更に高まり、体に激しい悪寒が走る。
「母さん。姉さんは? 一体、なにがあったの?」
母さんの両肩を掴み、僕は急かすように聞いた。母さんは焦点が合っていない目を僕に向け、振り絞ったように声を発した。
「お姉ちゃん。学校の屋上から……飛び降りたって」
その瞬間、僕は意識が飛びそうになるのを、必死で堪えたのを覚えている。
起きている状況を理解できなかった。いや、正確には、理解したくないという拒否反応だったかもしれない。
どちらにせよ、僕は夢を見ているような、朦朧とした感覚のまま、その場に立ち竦んでいた。
「ねぇ、歩。お姉ちゃんが死んだら、悲しい?」
「ねぇ、歩はなんで生きているの?」
「ねぇ、歩はこの世界に絶望していない?」
姉さんは最近、僕の部屋に入ってくるなり、そんな突拍子もない質問を僕に投げかけてきた。
質問は酷く感傷的なものなのに、質問する姉さんは微笑んでいた。微笑んでいたけど、目の奥は危うく、深い悲しみの色になっていたことを、僕は薄々気付いていた。が、これは思春期に誰もが訪れる悩みだろう。くらいにしか、考えないようにしていた。
本当は、ざわついた嫌な予感を無理矢理、かき消そうとしていたのかもしれない。
当時、僕は受験生だった。だから、机の上で勉強に集中していた僕は、姉さんの質問に対し、曖昧な回答を返していた。というか、ほとんど聞き流していた気がする。
その時、姉さんがなんで、そんな質問をしてくるのか、気にも留めないようにしていた。嫌な予感はしたが、まさか、自殺を考えていたなんて、夢にも思わなかったからだ。
結局、自殺の背景には、イジメがあったのか、なにか別の悩みがあったのか、原因は最後までわからずじまいのままだった。
間違いない事実があるとしたら、姉さんは僕に助けてという、サインを送っていたということ。そして、そのサインを僕は無視し、姉さんの自殺を阻止できなかったのは、説明するまでもないだろう。
僕は一生をかけて、償わなければいけないと、霊安室で眠る姉さんを見て、覚悟を決めていた。
一時期、呵責にさいなまされ、鬱になりそうだったが、これ以上、両親を悲しませたくないという気持ちと、意外にもメンタルが強かったこともあり、僕は周囲から冷たい奴だと驚かれるくらい、早い段階で立ち直ることが出来た。
そして、僕は姉さんを見殺しにしたあの日から数日後、カウンセラーになる。という夢を持った。
いや、それは将来の夢なんていう、輝かしいものではない。
それは姉さんへの償いだった。