3
ずいぶん間が開きました。
しかもまだ続きます。
申し訳ない。
くらやみのなかをただよっていた。
まわりには何もない。自分の体の感覚もない。眼球カメラだけが切り離されて浮かんでいるようだ。
どれくらいここにいるのかもわからない。ほんの数分か、あるいは数か月か。
以前、どこにいたのか思い出そうとしても、思考は靄がかかったようにはっきりとしない。
自分の名前を口に出してみようとしたが、口がないことを思い出した。
ただ在るだけ。
不意にくらやみのどこかから匂いが漂ってきた。機械の油とわずかな腐敗臭。
匂いの元は辿れない。くらやみ全体が匂いを発しているようだ。
匂いはだんだんと濃くなっていく。と同時にくらやみが徐々に薄らぎ、周囲が明るくなり始めた。
最初は様々な方向に走るぼやけた線が見えた。線は徐々に輪郭を表し、幾筋ものケーブルになった。自分が横たわり、ケーブルがむき出しになった天井を見上げていると気づく。
頭は動かせない。何かに固定されているようだ。
思い出した。僕は停止していたのだ。
「お目覚めかな?」
足元から男の声が聞こえた。頭を下げ、目線をやりたいが、それもできない。
「君たちはこの街においてもっとも高度な自律機械であるようだ。そのため今は体を拘束させてもらっている」
声にはかすかにノイズが混じっている。どうやらスピーカーを通して喋っているらしい。
男の口ぶりからして435号もすぐそばにいるのかもしれない。
「君たちの任務はすでに解除した。これより新たな任務を命じる。任務コードを受け取ったのち、ただちに行動を開始しなさい」
ポチ。そうだ、ポチはどうしているのだろう。きっと僕の帰りを待っているに違いない。
彼の病気はだんだんと酷くなっている。急いで彼の元へ帰らねば。
「現在地点における安全地点確保のため、街中心部にNC2空中機雷を投下する。お前たちはもっとも効果的な投下地点を選定し機雷を誘導せよ。任務コードは2N63569JNK」
頭の中はポチで一杯なはずなのに、僕の圧縮されたネズミの脳みそは新たな任務を理解し、計算し、予測のために動き始めている。
435号は新しい指令を承認したようだ。確認の通信が僕の受信機にも挿入される。
僕も新たな指令を承認した通信を返しながら、自分がどこまでいってもただのアンドロイドでしかないことを思い知らされていた。
外はすでに朝を迎えていた。冬の日差しは厚い雲に遮られ、空気はどんよりと濁っているように見えた。
指令を出した男は神羊型貨物飛行船に載って移動しており、僕らは郊外の上空に浮かぶ飛行船の上空見張台から街を見下ろしている。
上空300mから眺める街はまるでミニチュアの作り物のように見えた。これから僕らはあのミニチュアを破壊するのだ。
「そろそろ行かない?」
隣に立つ435号が口を開いた。機雷の投下場所はすでにほとんど決まっている。でも僕はあえて街をあらためて観察してから決めようと提案した。指令には【速やかに】という文言はなかった。どれだけ時間をかけても構わないはずだ。
僕がそう伝えると、彼女は悲しそうな目をした。
「あなたの気持ちはわかるわ。でもこれはもう承認された指令なの」
彼女の言いたいことはわかる。一度承認された指令はコードと共に取り消しの指令が下されないかぎり達成されなければならない。
しかしこの街をNC2機雷で破壊したら、確実にポチまで死んでしまう。仮に瀕死のポチに手術を施し、命を助けられたとしても、僕らの自己保存は命令されていないので、その後の面倒を見られない。
NC2は地下数十mにも達する巨大なクレーターを作り出せる。この街の下水道も潰滅するだろう。
もし僕に胃があったなら痛みのあまり張り裂けている。
機雷投下地点は駅舎と決まった。少しでもポチから離れたところにしたかったが、最も効果的な位置はここしかない。
駅舎周辺は地盤が掘り返されるので、周囲のビル群は爆風の第一波を加速しより遠くまで効果範囲を広げた後、地盤から崩壊し、吹き戻しの第二波でよりダメージをくらう。
ポチを手術するはずだった動物病院は第一波で瞬時に蒸発するだろう。
駅舎までは435号に連れられて行くことになった。
彼女の背中に手を回し、吊り下げられるようにして空を運ばれる。
見下ろす街は徐々に大きさを増していき、ミニチュアからヒトのいなくなった廃墟へと変わっていく。
「435号、頼みがある」
僕が彼女にそれを告げたのは駅舎まであと数百mというところだった。
「最後にポチに君を会わせたいんだ。それくらいの時間の猶予はあるだろ?」
435号の顔を見上げると、美しい顔が少し歪んでいるように見えた。
それでも彼女は頷き、駅舎を飛び越えていく。
ポチは下水道のクッションの上で震えていた。その呼吸は弱弱しく、今にも止まってしまいそうだ。
やさしく撫でながらそっと声をかける。なるべく穏やかに。少しでもポチに悪い影響がないように。
「ポチ、435号だよ。彼女を君に会わせたかったんだ」
ポチは何も反応しない。ただ苦しそうに呼吸をするだけだ。
435号は僕の横に立ちつくしている。
「435号、ポチだよ」
そう声をかけると、彼女は翼の端からマニピュレーターを出し、おそるおそるポチに触れた。
そのときポチがかすかに動いた。
435号は一瞬体をこわばらせ、翼を引こうとしたが、僕はそれを止めた。
彼女が僕を見る。困惑しきった顔だ。
ポチが首を回して彼女のマニピュレーターをそっと舐めた。
たったそれだけ。
それだけで十分だった。
僕と彼女はポチをなんとしてでも守ることに決めた。
「時間はあとどれくらいある?」
「わからないわ。通信が入ってすぐにやれと言われたらそこでおしまいだし」
僕と彼女はすぐに動物病院に移動してポチの治療を始めることにした。
動物病院の本を高速でめくりながらポチの症状に合致する単語を検索していく。
発熱、嘔吐、脱力・・・合致する病気が見つかった。
「尿毒症だ」
治療設備はすぐに見つかった。点滴と利尿剤。
すぐに点滴を打つ。
こころなしかポチの具合が良くなってきたように思えた。
「これでしばらくは安心かな」
435号が安心したようにため息を漏らした。
「それでこれからどうするのR-B2。しばらくは動かせないわよ」
それが問題だ。
僕らはいま爆風の投下地点を選定していることになっている。
いつまであの男が待っていてくれるかわからない。
そして僕らは“二人で”機雷を誘導するように指令を受けている。
435号にポチを任せ、僕が機雷を誘導する、という手は使えない。
八方ふさがりだ。ポチは危機を脱したように見えるが、僕らどちらかの助けがなければ完全に回復しないだろう。
太陽はすでに中天をすぎ、日差しは午後のものに変わり始めている。
いつあの男から指令が来るかわからない。
と、435号が口を開いた。
「R-B2、一つ手を思いついたわ」
「その手が成功する可能性は?」
「半々って感じね」
計算能力を備えたアンドロイドらしからぬ返事だ。
「あの男にポチをまかせるのよ。人間はペットを必要としてるわ。だいたいの人間は。あの男ならポチの世話もできるだろうし、ポチにとってもその方がいいかもしれない」
名案には思えなかった。あの男が動物嫌いならすべて終わりだ。
でもこれ以外の案もない。
男に通信を入れた。
『問題発生か?』
男は開口一番そう言った。
当然の反応だ。
「いえ、ただヒトの暮らしていた痕跡を見つけたので、作戦実行についてあらためて確認の必要があるかと」
嘘ではない。
ヒトの暮らしていた痕跡ならあらゆるところにある。
もし男が機雷投下を思いとどまればそれでいい。
『作戦を実行せよ。生存者は存在しないとすでに確認済みだ』
「しかし、つい最近まで飼育されていたと考えれる犬を発見しました」
「繰り返す。生存者は存在しないとすでに確認済みだ」
そう告げて男は一方的に通信を切った。
これで万事休すだ。