第四話 恋とは
中曽根家のある、都営マンションにお邪魔した。
「いらっしゃい、涙子さん」
出て来たのは、長い黒髪の少女だった。
「ど、どうも」
私は、彼女を教えるのだな、と、着て来たスーツの裾を直した。
「さっきも言ったが、俺は来月から出張なので、申し訳ないんだが、この、由紀子の面倒をみてやってほしい。約束の金は明日、支払う」
「計算をしてみたら、お腹のなかの赤ちゃんはある程度の期間胎内にいないのであれば、そんなに費用はかからないとのことよ。だからもうお金はいらないわ」
「え、そんな」
「だけど、ま、あんたの真摯さに根負けして、面倒みてあげるわ」
「どこが真摯だと言うんだ、僕は君を一度だけだが脅したんだぞ」
うふふ、と私は笑って、
「さあて、由紀子ちゃん、矢吹涙子と言います。一応全教科見ようと思えば見れるけど、一緒に頑張ろう」
由紀子はうなずき、勉強机へと向かった。
白いレースのカーテンが、ひらひらたなびき、部屋に量感を静かに持たせている、漆黒のピアノがリビングに置いてある。私は由紀子にこの日は算数を教えた。由紀子の成績は非常に優秀で、用意してきた問題集は、有名私立大学付属女子中、いわゆるエスカレーター式お嬢様学校の水準のもので、舐めてかかった私は、結構苦労した。普通にこの子の方が私より頭がいいのではないのか。
講義を終えて、中曽根――由紀子の名をだしたことだし、彼の名を出した方がいいな、中曽根甲斐人は私たちにお茶とケーキを出した。甲斐人はそのまま、煙草を買いに出かけてしまった。由紀子は、私に尋ねた。
「先生は、どうして大学に行こうと思ったんですか」
「みんなが行くからよ」
由紀子は、だまってしまった。私は詫びるような気持で、
「人間が一番使ってはいけない部分って、どこだと思う?」
と尋ねると、
「脳ですか」
と答えられた。なかなか賢い子だ。
「それも正解かもしれないわね。どうしてそう思うの」
「わたしは、脳が停止した時間を、覚えているんです」
「へえ」
「事故にあったの。私は植物状態だったらしい。けど回復した。そのブランクの間のことを、わたしは、覚えているんです。そのときわたしは大きなチェス盤の上に立っていて、白いビショップの駒になっていました。そのまま、動くことはなかった。ゲームは停止したままで、わたしは、ええと、よくわかんないや」
「心地よかったのね」
「はい」
私は彼女の主張を非難するつもりはなかった。彼女の言葉は、ただの文章の羅列にすぎないとしか、実感できなかったからだった。私は彼女を賢いと思った、それは事実だ。ただ、彼女の作文の答案を採点するとき、内容はほぼ減点するところがない優れたものだったが、所詮文章は文章であり、私の価値観になんら影響も及ぼさない、退屈なものでしかなかったのである。彼女の口から発せられる言葉も然り、であった。
話は非常に飛躍するが、私は子供を下ろし、そして、ショックを受けた。純一が甲斐人を刺したのだ。私が甲斐人のマンションから出るところを、純一に見られたらしい。
病院で、私は急いで由紀子と一緒に甲斐人の見舞いに行った。甲斐人は思いのほか気丈だった。
「急所に当たらなくて良かった。来週には退院できるそうだよ」
「そう……」
「君が犯した最大の過ちはなんだと思う……?」
甲斐人は私に、ベッド脇のつつじの刺さった花びんを見ながら尋ねた。
「それは、恋をせずに、性交渉したことよ」
「その通りだ」
そして私は、甲斐人に接吻した。
「お兄ちゃん……」
由紀子はそう言って甲斐人のシーツにしがみつき、泣き始めた。
かわいそうな、由紀子。
[了]
小説を書いたのはおおよそ半年ぶりで、純文学を書いたのは1年ぶりじゃないでしょうか、これが純文学と言うカテゴリの条件を満たすものであれば。なんにせよひどい出来で、不快にさせてしまった方、申し訳ないです。こうしたリハビリ作として今作を書き上げましたが、完結はできましたが、完成はできなかったんじゃないかと思います。まあ、とにかく、久しぶりに純文学の読書や執筆を再開してきたなかで、いろいろやりたいことが見つかりつつあるので、またやっていきたいと思います。結びの言葉として、読んでくださり、感謝。よい連休をお過ごしください(今更かよ)。