第三話 取引
妊娠検査薬を使った。
陽性だった。
中絶をまず考えることにしたが、二〇万程度の金を捻出するほどのポテンシャルはないのは、言うまでもないことだ。
私は純一に電話をかけ、彼に妊娠したことを告白した。
『それは残念だね。でも、僕との子かもしれないよ。ねえ、産んでくれないだろうか。結婚してくれないだろうか。なあ、僕の稼ぎは少なくないよ。君は面倒なことが嫌いなんだろう。なら僕と結婚すれば、家事を分担して、君は何も働かなくていい』
「私が働きたくないなんていつ言った? それに、あなたとの子ではなく、レイプされて生まれた子なんて知れたら、その子が学校でどんな仕打ちに遭うか、考えたことあるの?」
『なあ、何故君は、そう卑屈なんだい? 分かってるか? 中絶は殺人なんだぞ? 法律では出産してからが人間とみなされることは知ってるが、忘れたか? 僕たちは人間なんだぞ? 君は変わっているよ』
「そうよ。私は人間よ。だから中絶する。あなたの理屈を借りればそうよ」
『しまったな』
彼は冗談めかしく失笑した。私は電話を切った。
私はぞくぞくしていたのだ。命が胎内に宿ることは、それはめでたいことだと思う。それがレイプされたことによって生まれた子だろうが、変わることはない。理屈で説明できることではない。一般的な通念のものでもない。心の底から嬉しいのだ。
コンビニ弁当をチンして食べ始めた。割り箸を割り、人参の煮物に手を付け、咀嚼した。なんども噛みしめながら食べた。ぽろぽろ涙が零れた。そして泣きじゃくりながら、弁当を平らげた。
キャンプから帰ってから五日後、中曽根から電話があった。大学のゼミの同級生だった、容姿の整った男だ。純一といい勝負だと思う。
『涙子さん、俺だよ。会って話さない?』
「おう中曽根、久しぶり、どしたの」
『来月からロサンゼルスに出張するんだ。それまで、会っとこうと思って』
「あんた相当暇なんだね」
『うん、暇すぎて慣れないことしちゃった。表参道のカフェでどうよ』
「おーう、しゃれてるね。そういうとこ、中曽根らしい。会おう会おう」
表参道は気圧されるほど人が多い。何の用事があって、こんなに毎日大量の人が赴いてくるのだろう。表参道は、路地裏に出ると、違った顔を見せる。なんというか、ヨーロッパ建築風な感じがするのだ。私は割と気に入っている。中曽根も好きらしい。
私は花柄のワンピースに白いトートバッグを提げ、麦藁帽を被って、渋谷の辺りで降りた。うんざりするほど人が多い。
指定されたカフェで、先に座って待つ。そのカフェは洋書が積まれてあり、自由に取って読んでいいのだった。
それを適当に取って読んでいると、中曽根が来た。小柄で童顔な中曽根は、今日も可愛らしいオーラを放っていた。まったく危害を加える人物には見えない。だからといって気を許すとか許さないとかは関係ないけれど、うっかり私は妊娠したことを話してしまった。ただ、レイプされたことは伏せておいた、つまり、純一との間で生まれた子だと告げた。
「なんでそんな男とセックスしたの」
「キャンプで意気投合しちゃって」
「最低だよ。ゴムも使わないでさ。涙子さんもどうかしてる」
「ごめんなさい。それで、下ろすか下ろさないか迷ってるの」
「下ろせばいいじゃん。お金、出すよ」
「本当?」
「うん、返さなくていい。ただし、条件がある」
また、体を売れとでもいうのだろうか。
「俺、ずっと涙子さんのことが好きだった。その、純一って奴と別れてくれ」
「もちろんそうするけど」
「じゃあ、俺は金を払う、そして君は子どもを下ろす。それでいいね」
「うん」
すると中曽根は、鞄から何かを取り出した。
「今の会話、全部録音しといたから」
彼はレコーダーを持っていたのだった。
「……やっぱりあんたもそういう人間なんだ」
「勘違いしないで、身体で払えって言いたいわけじゃないんだよ。ただ、お願いがあるんだ」
セックスで済めば面倒なこともないのだけれど。ところが、彼はこんな提案をした。
「僕の娘の家庭教師をしてほしい」
「え、あんた結婚してたの」
「そうさ。涙子さんのことは好きだったけど、他に愛していた人がいてね。高校時代から交際していたんだ。娘は中学受験を控えている子だよ」
私は、思わず噴き出した。