愚者の行進
神は平等である。それは富む者にも貧しき者にも、善人にも悪人にも。
神は平等である。故にその手は何者に差し伸べられることはない。
中条慶一は己の手の内にある十字架を見つめた。冬の外気で冷えたそれは、中条には無慈悲な神の象徴に思えた。
「どうした中条。具合でも悪いのか?」
盟友の心配する声により、彼の意識は現実へと引き戻される。
「何でもない、大丈夫だ」
「ならいい、そろそろ時間だ。急ぐぞ」
肩に背負った銃を背負い直し、中条は歩き出した仲間の後を追った。歩く先には既に他の仲間が集まっていた。
「間に合ったな。では行こう。母国の為に」
そして彼等は歩き出した。年若い彼等が軍服を着、足並みを揃えて歩く姿は、一見すれば軍隊の行進演習に見えた。しかし彼等にとってこれは演習ではなく実戦だ。彼等はこれから戦場へと向かう。国のために、理想のために、そして未来のために・・・。
経緯も理由も、ここですべてを語り尽くすには長すぎて、語ることで変わるものは何もない。ただ彼等は愚者と呼ばれる者達であり、神が作りし運命の道化ということを理解しておいてもらいたい。
愚者が白き雪の上を行進する。しかしその足跡は雪に埋もれ消えゆく。まるで彼等がいたという痕跡を消すかのように―――。
小さなマリア像に祈る後ろ姿は、どこか神秘的に見えた。
長い漆黒の髪が床に落ちることもかまわず、十字架を両手で握り、棚の上から自分を見下ろすマリアにひざまずく恋人の姿は、中条にはマリアよりも美しく見えた。
彼女は後ろに立つ恋人の方を振り向かないまま祈り続ける。
「――荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人はみな、神の救いを仰ぎ見る』―――」
「ここに来るのはこれで最後だ。君と会うのもおそらく最後となるだろう」
恋人の声を聞いていないかのように彼女は聖なる言葉を紡ぎ続ける。
「――深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。―――」
「君はそれでいいのか?」
歌うように発していた言葉はここでようやく途切れた。神のための言葉を中断し、女はそれでも振り向かずに恋人のための言葉を紡いだ。
「あなたが何をしようとも、私は止めないわ。それが神の御意志なら従うべきでしょう」
「菫、俺は神の意志でするわけじゃない。これは自分の意志だ」
中条の恋人・菫は熱狂的なキリスト教徒だ。彼女は神の存在を信じて疑わない。
その祈りは必ず天におわす彼の方に届き、命が消えゆくときその魂は天国へと迎え入れられると。
しかし中条は異国から伝えられた神を信じてはいなかった。
すべての者を無償で救う存在、全知全能の存在などこの世にはないと考えていたからだ。
「ねえ、私ね、考えたの。こうやってあなたが私の元を去るのは、主が与えた試練なのではないかって・・・」
「俺は試練のために神に殺されると?」
「殺されるとは違うわ。あの方に選ばれたのよ」
「・・・君は俺よりも会ったことのない神を選ぶんだな」
それは侮蔑にも聞こえた。
部屋の隅で二人を窺っているのは、菫の世話をしている若い小姓の少年。名を太一という。それなりの財力を持つ菫の両親が、娘の世話役として一ヶ月ほど前に寄越した者だ。
二人の様子を心配そうに窺っている少年は、入る余地のない二人のどちらにも声をかけることができず、ただ見守るばかりだった。
中条は一度も自分を振り向かない恋人に背を向け、歩き出した。
もう二度とここには来ないことを知りながらも。
「私は・・・あなたを愛してるわ」
扉に手をかけようとした恋人に、聖女は背を向けたまま言った。
男はそんな彼女を見ないまま訊いた。
「神よりも?」
そこで応と答えれば彼は再び彼女を見たかもしれない。しかし彼女は何も答えなかった。
中条は出て行った。もう二度と会うことのない恋人に別れの言葉も告げずに―――。
一人きりになった菫はようやく立ち上がり、窓の外から去ってゆく彼の姿を目で追いつつ、恨むように呟いた。
「止めたってあなたは行ってしまうくせに・・・」
選ばせたのはあなただというのに。
自分よりも誇りと夢を選んだ。そこに自分のいる場所はない。
あなたは昔言った。「神は人を救わない」と。
あなただって私を救ってはくれなかった。
ただ傷つけるばかりの楽しかった記憶と罪の意識だけを残していく。どうして自分と一緒に生きることを選んでくれなかったのか。
出て行く中条を見送った太一が、ようやく口を開いた。
「お嬢様、よろしかったのですか?」
一ヶ月前から彼女に仕えている太一は、二人の愛の深さなど知らない。
しかしこのまま別れたままでは、本当に二人は二度と会えない気がした。いや、そもそも彼の余命はわずかなのだということは、太一も知っていた。それでも言わずにはいられなかった。
そんな太一に菫は優しく言った。
「太一、心配してくれてありがとう。でもこれでいいの。これも神の御意志なのだから」
神を信じない者からすれば、神を信じて疑わない者の姿は滑稽に思える。目に見えもしない、会ったこともない者に救いを求め、偶然を運命と信じて疑わない。苦しいことがあれば、それも神の与えた試練と堪え忍ぶ。
その姿は現実逃避か、ロマンチストだ。
しかし太一は彼女を馬鹿にすることはできなかった。彼女のそんな姿さえ美しいと思えてしまうからだ。
「――主よ、あなたが罪を総て心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたの元にあり人はあなたを畏れ敬うのです。――」
聖書の言葉を紡ぎ、今度は天に向かって祈った。
昨日から降り続いている雪は、地を白く染める。たとえこれが地上の者に寒さを与え、時には死を与えるモノとわかってはいても、ただ美しいと思えた。神が降らせているように思える。
明日は聖誕祭だ。この国にはそれを祝う者も少ないが、信じる者にとっては主が誕生した大切な日だ。この日を忌まわしいと思ったことはない。
しかし今年、その日は血に染まる。神の子が誕生した日は、愛する人の命日となる。
菫は祈った。彼の命を救うことがないのなら、せめてその魂に安らぎを与えてほしいと。
しかし、心の底ではわかっていた。本当はそんなことを望んでいるのではないと、自分の本当の望みは、決して叶うことがないとわかっていながらも、この汚いとも言える欲望を止めることはできない。
「――わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます――」
太陽の光は厚い雲に遮られ、地上には届かない。
しかし降り続ける雪の白さは太陽の白い光に似ている。だがその白さにまぶしさはなく、暖かみもない。それは眠りの色、そして死の色だ。
「――見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。――」
聞き届けられない祈りは雪と共に地に落とされる。そして融けて消えてゆくのだろう。まるで最初からなかったかのように―――。
理想と正義だけで生きていけるほど世界は甘くない。世界は不完全で、未成熟だ。
誰かにとっての正義は誰かにとっての悪であり、またその逆もあり得るのだ。
いや、そもそもこの世界には完全な正義も、完全な悪もないのだ。
すべての物事には裏と表があり、それは視点を変えることで違った見解ができる。
彼等も同じだ。彼等が行おうとしていることは愚かに見えるし、しかし賢明にも思える。
この時代、いや多くの時代で国に逆らうことは勝ち目のない戦いに身を投じることなのだろう。
時代を味方にしなければ、そこに勝利はあり得ない。勝者のみが英雄となり、敗者はただの愚者と成り果てる。彼等は間違いなく後者で、いずれ歴史に埋もれる名もなき登場人物にすぎないのだ。
それを彼等はわかっているのだろうか。
いや、たとえわかっていても、あふれ出す想いを押さえることはできない。それは落ちてゆくガラス玉のように、地に落ちて砕けるその時まで―――。
政権を悪用する政治家達を倒し、新たな政権を立て直す。彼等の目的は至極単純でありきたりなものだった。
いつの時代でも上に不満をもち、反旗を翻そうとする者達はいる。彼等はそのほとんどが失敗に終わり、罪人として世に認知されることになる。
ここにいる彼等も同様だった。若さ故の正義感が身を滅ぼすことも知らず、己の正義を信じて疑わない。自分たちが国を救うのだという英雄願望に取り憑かれ、そして若さ故の浅はかな行為であっけなく命を落とす。
軍服に身を包んだ中条はすぐそばでまだ着替えをしている仲間に背を向け、窓際にある机の引き出しを開けた。鍵の掛かっていない引き出しは抵抗もなくその内側をさらけ出す。元々自分以外使わない机に鍵など不要だ。そもそもこの部屋に他人を入れること自体ほとんどないことだし、また隠すほどの物も持ち合わせていない。
引き出しに収められていた私物の中から、中条は鎖の付いた十字架を取り出した。純銀製のそれは高価な物なのだろうが、中条はどんなに金に困ってもそれだけは手放さなかった。
そして今、これを持って行くべきか思案していた。
二度と会わないと言って別れた彼女との最後の繋がり。出会って間もない頃、彼女から贈られた物だ。神を信じていない自分が、唯一持ち続けた信者の証。それは信者よりも、中条にとっては彼女との絆の証だった。これを持っていたからといって、神の御加護を受けられるわけではない。
しかし今捨てる気にはなれなかった。彼女に未練がないわけではない。しかしもはや自分は死地へ赴く存在。長い生を願うものではない。
「中条、そろそろ行くぞ?」
突然、後ろから声を掛けられた。振り向くと、着替え終わった仲間が、扉の前で自分を待っていた。
「ああ、今行く」
そう言って中条は手にしていた帽子を被り、十字架を軍服のポケットに入れた。
十二月二十四日午後十一時四十分。異国の子供達が赤い服の翁を待ち、眠りについている時間、彼等は白い雪の絨毯に足跡を付けていた。目指すは内閣総理大臣家宅。狙うは国の頭領の首。
銃を肩に掛け、軍服の上から支給品の黒いコートを着ている。それだけで冬の寒さを防ぎきれるものではないが、彼等は誰一人それを訴えることはなかった。
吐く吐息が白くなろうとも、肩や帽子に雪が積もろうとも、彼等は歩き続けた。
積もった雪は彼等の歩みを止める力もなく、蹴られては宙に舞い、踏みつぶされ固められる。
彼等は運命に流されたのだろうか
それともあらがったのだろうか
いや、あらがうことさえも運命だったのだろうか
中条が去ってから、菫は休む間もほとんどなく祈りを捧げていた。
食事を出しても二口三口しか口を付けず、手のひらに跡が残るほど十字架を握りしめ続けている。
太一はその様子を見守りながらも、時折窓から外を見ていた。積もっていく雪が時間の経過を表す。
先程外に出て連絡をとったのは既に三時間も前のこと。中条が戻ってきていないこと、そして計画は予定通り行われることを知らせるものだった。もうこれ以上連絡の必要はないだろう。これで自分の役目も終わる。
そのはずなのに、自分は彼女のそばを離れることができない。
心の内を占めるのは達成感よりも、苦痛を与える罪悪感だった。彼女に対するものなのかもしれない。
しかしそんなことを考えている自分に、菫は驚くべきことを言った。
「太一、そんな辛そうな顔をしないで。私は最初からすべてわかっていたのだから」
それは最初、彼が帰ってこないことを言っているのかと思った。
しかしそんな甘い予想はすぐに打ち砕かれた。
「あなたがやっていることを責める気はないわ。あなたはそれが正しいと思ってやったことなのだから」
太一は驚愕の顔を表し、繕うことも忘れて口を開いた。
「なぜ・・・いつから知っていたのですか?」
彼女の前で自分の正体が露見するようなことはしなかった。それなのになぜ?
自分の落ち度を探す太一に、菫は優しく言った。
「最初から。あなたがここに来たときから。父は私と彼の付き合いを反対していたし、政府とも繋がりがある。
彼が反政府を掲げていることはわかっていたし、それを探るためにあなたをここに寄越したのはすぐに見当が付いた」
「なら、なぜすぐに追い出さなかったのですか? そうすればあの男を助けることができたかもしれないのに」
そこまで言うと、菫はゆっくりと視線を向けた。
「あなたも彼も自分のやるべきことをやっている。そこに私が何を言っても変わるものではない。きっとあなたがいなくても結果は変わらなかったわ」
今度は太一が黙ってしまった。それでもわずかな勇気を振り絞り、一番の疑問をぶつけた。
「あなたは・・・僕を恨んでいますか?」
目を固く閉じ、顔を上げることもできなかった。
どんな罰を受けても仕方がないと思っていた。だが、どんな痛みも殺気も来ず、やってきたのは自分の顔を包み込む暖かな手だった。
驚いた太一が顔を上げると、そこには聖母の顔があった。
「あなたを罰することができるのは神だけ。そして私にあなたへの恨みはない。だってあなたは今、私のために苦しみ、泣いてくれているのだから」
言われて初めて気づいた。太一は泣いていた。頬を伝う涙の冷たさにようやく気づき、雫は止める間もなく地に落ちた。
太一は涙を乱暴に袖で拭うと、外に飛び出そうとした。
「もう、遅いわ」
扉を乱暴に開けた太一の背中に、声が降りかかった。
「そんなことない、あきらめられません!」
そう言って少年は扉を閉める時間も惜しみ、開けたまま外へ飛び出した。
窓から走り去る太一を見送った菫は、再びマリアに向かって跪き、祈りを捧げた。
「――わたしの犯した罪は海辺の砂よりも多く、咎は増しました。主よ、増し加わりました。わたしは天の高みを仰ぎ見るにはふさわしくありません。今わたしは心のひざをかがめてあなたの憐れみを求めます。主よ、あなたは悔い改める者の神だからです。ふさわしくないわたしを深い慈しみをもって救ってくださるからです。わたしは生涯絶えずあなたをたたえます。栄光はとこしえにあなたのものだからです。アーメン。――」
菫は閉じていた瞼を開き、マリアとその後ろに飾られたキリストの絵を仰ぎ見た。
「主よ、私は初めてあなたに恨みをもちます。それでも私はあなたを信じ、敬います。
主よ、なぜお見捨てになるのですか・・・」
神と悪魔の賭け事の被害者となったヨブは、どんなに辛い目にあわされても神を信じ続けた。
神は愛する者にこそ苦難を与え、人を試す。
しかしそれでも人は思う。なぜ、救ってくれないのかと―――。
我が神我が神
何故私をお見捨てになるのですか
太一は雪が降る中、走り続けた。
防寒具もほとんど身につけないまま、視界が雪と夜の闇に遮られようとも、太一は走り続けた。
中条達の行き先はわかっている。彼等がそこに到着する予定時刻は午前零時。菫の家から目的地までどんなに急いでも三十分以上かかる。
それでも、無駄と知りながらも太一は走り続けた。罪滅ぼしなのか、それもとわずかに残っていた善意なのか、行動の理由を考えている暇はなかった。
手はすでに氷のように冷たく、鼻は冷たく痛んだ。それでも彼の足は止まらなかった。希望がある限り彼は走り続けるだろう。
それが絶望という現実を眼にするその時まで。
そんな彼の姿を人はまた愚かと言うだろうか。
それともあれが人の姿だと言うだろうか。神にはわからない、哀れで美しい存在だと―――。
行進の行く手を阻むのは敵。彼らにとっては敵だ。しかしその力の差は比べるまでもない。 あらかじめ彼等の計画を知っていた政府は、一つの罰を与えるために彼等を待っていた。
向けられるのは彼等の数よりも多い銃口。一度火を吹けば、彼等の身体は文字通り蜂の巣となるだろう。
中条はこうなることを心のどこかで予測していたかもしれない。なぜならこんなにも心は静かなのだから。
聞こえてくる音も静かだ。まるで雪がすべての音を吸い取ってしまったかのように。
終わりはあっけなく、そして静かなものだ。痛みなど感じる暇もないだろう。
ただ今思うのは、ポケットから取り出した十字架をくれた、彼女の笑顔。自分がいなくなれば彼女は泣いてくれるだろうか。
中条は十字架を握りしめ、生まれて初めて神に祈った。
神よ、ただ一度だけあなたに願う
どうか彼女の未来に、幸多からんことを
銃声が響き渡った。
見えるのは雪の白と、それを溶かす血の紅。
その色は何よりも残酷で、しかし何よりも美しかった。
十字架は血の海の中で銀色に輝いていた。血に染まっても尚輝くそれは、まるで曇らぬ神の後光のようだった。
線香が出す煙が風に揺れている。晴れ渡った空は、春の訪れの近さを知らせている。
しかし風はまだ冬の冷たさを残している。薄着で外を歩くにはまだ早い。
喪服の女は新たな住人を迎え入れた墓石の前で、白く細い手を合わせている。一見するとごく普通の墓参りに見えるが、その女の手には銀色に光る異国の神の御印があった。
「お嬢様、そろそろ戻りましょう。風邪を引いてしまいます」
同じように喪服に身を包んだ少年がやって来た。
「ええ、わかったわ」
そう言っても彼女は墓の前を立ち去りがたい眼で見つめていた。少年はその姿を悲しそうに見つめていた。
彼女が持っているのは血の色が染みついて取れないままの十字架。
太一があの日出来たのは、彼が持っていた十字架を彼女に渡すことだけだった。彼女は泣くこともなくそれを受け取った。その時見た彼女の顔は、今でも忘れられない。何も感じないようで、しかし悲しさを感じるような顔だった。
「太一、どうしたの?」
気がつくと菫はすでに太一の前に立っていた。
「いえ、何でもありません」
「そう、ならいいけど」
そう言って菫は空を見上げた。空を泳いでいたのは鳥だった。名も知らない鳥。優雅に舞うそれは、人にはまねの出来ないことだ。
「もうすぐ春ね」
そう言った彼女の顔は見えなかった。
「そうですね・・・」
太一はそれに答えた。
それはまるで地上で起こった惨劇を知らぬかのように舞う。世界は何事もなかったかのように回り続ける。
すべては神の御心のままに
初の短編です。
学校の授業で書いたものですが、せっかくなので投稿しました。
暗い内容ですが感想・評価あればよろしくお願いします。