第五話
ミリーはかつてない程の幸福と充足感に満たされていた。オフィーリアに薦められ流し読んだ下らない恋愛小説の一節と同じように、ミリーの世界は色を変えて輝いている。愛し、愛されること。ただそれだけでこんなにも変わってしまう自分に少し恐怖を感じながらも、彼女はこの時確かに幸せだった。
「ミリー、なんだか最近とても楽しそうね」
鏡台越しにオフィーリアの不思議そうな瞳と目が合った。好奇心を滲ませる青い瞳に居心地の悪さを感じてミリーは手元に視線を戻す。オフィーリアの柔らかな金髪を流行りの髪型に結いあげながら、誤魔化すように薄い笑みを浮かべた。
鈍いオフィーリアに気付かれてしまうぐらい浮かれた空気を出しているなんて、これではあの人に迷惑をかけてしまう。それはミリーの望むものではなかった。
「そう?」
「ええ、瞳が輝いているもの! 誰か良い人でも出来たのかしら?」
そんなんじゃないわ、と苦笑しながら否定するミリーにオフィーリアは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ふふふ、私はミリーの親友だもの。答えたくないのならこれ以上詮索はしないわ!」
偉いでしょう? とでも言うようにオフィーリアが期待を含んだ眼差しを投げ掛けてくる。普段ならばそうした視線を無視するミリーは珍しく寛容な気分だったので「ありがとう、私の親友」と茶化すように返した。
オフィーリアと話しながらもミリーは手を休めずに動かしていた。複雑に編み上げた髪の仕上げに絹のリボンを結ぶ。崩れや歪みがないことを確認して顔を上げると、鏡に映ったオフィーリアの青い瞳に何故かうっすらと涙が浮かんでいた。
「い、痛いところでもあった?」
慌ててミリーが訊ねると粗雑なところのある彼女にしてはゆっくりと首を振る。ミリーが結った髪を崩さないよう、気を遣っているのだとわかった。
「ち、違うのよ、ごめんなさい」
誤魔化すようにオフィーリアが笑った拍子に、化粧を施したばかりの頬を涙が伝っていく。あ、とすまなそうな顔をしたオフィーリアが「あなたが、」と言いかけ、そこで口を噤んだ。珍しいこともあるものだ、と思いながらミリーは白粉の用意をする。作業の片手間に「なに?」と素っ気なく聞くと、オフィーリアは恥ずかしそうにはにかんだ。
「あなたが初めて私のことを親友と呼んでくれたから、うれしかったの」
「ごめんなさい、ミリー。あなたの仕事を増やしてしまったわね」謝るオフィーリアの声がミリーにはどこか遠くに聞こえていた。
私たちが、親友?
そんな馬鹿なことがある訳がない。孤児院時代は勿論、今だって私たちは友達ですらないのだから。ミリーを包んでいた幸福は一瞬にして遠ざかり、懐かしい嫌悪感が戻ってくる。思わず顔を強張らせたミリーを、美しい青い瞳が悲しげな眼差しで見つめていた。
「ごめんなさい、ミリー。本当は気付いていたの、あなたが私を親友と思っていないこと。少し考えてみたら、そんなの当然のことなのに、私は本当に愚かだから……」
オフィーリアの声が震えている。やめて、と血の気を失った顔でミリーが言ったのに、オフィーリアは止めてくれるどころか振り返ってミリーを一心に見つめた。
「でもね、愚かなオフィーリアは今日で最後にするの。あなたにした私の罪は消えることはないし、これ以上の言い訳もしないわ。だけど私、あなたを親友と呼ぶことは止めない。一生あなたに片思いだっていいの、私のことを許す必要もないわ」
「だけどお願い、」言いかけたオフィーリアの言葉をミリーの悲鳴のような叫びが遮った。
「もうやめてたくさんよ! あんたの話なんて聞きたくもない!!」
ミリーの胸にはオフィーリアへの強烈な嫌悪感と同じぐらいの恐怖が渦を巻いていた。オフィーリアの謝罪が、わけもなく恐ろしい。混乱と興奮で息を荒げ、全身で拒絶を示すミリーにオフィーリアは視線を落として俯いた。
「……ごめんなさい、ミリー」
それからミリーとオフィーリアの関係はこれまで以上にぎこちなく、よそよそしいものへと変わった。ミリーがオフィーリアを寄せ付けないのだ。その一方で、グラディスとミリーは逢瀬を繰り返し関係を深めていく。
愛情と憎悪。二つの感情に振り回されながらミリーは冬を迎えた。
オフィーリアの一四歳の誕生日を控え、男爵邸の誰もが忙しなく動きまわっていた。目前に迫った誕生パーティーのせいであることは間違いないが、殺伐としながらも皆どこか浮足立った雰囲気を纏っている。普段より笑い声の増えた邸内で、ミリーだけが冷めた瞳で黙々と仕事をこなしていた。
オフィーリアとの関係がこじれてから、ミリーは下働きの仕事を任されることが増えていた。この日もメイドのように清掃を命じられ、冷たい水のせいで指先を赤くしながらガラス窓をひたすら拭き清めていく。
廊下の窓磨きが終わったミリーは、次にグラディスの部屋へ向かった。少し期待をしながら扉を開けたが、事前に聞いていた通り室内にグラディスの姿はない。一瞬気落ちしたものの、すぐに気を取り直してミリーは作業を開始した。
彼女は掃除が嫌いではなかった。黙々と汚れと向き合う地味な作業ではあるものの、本来の美しさを取り戻した姿を見ると達成感が湧いてくる。それに今ミリーが掃除をしているのは愛おしいグラディスの部屋だ。彼に少しでも快適に過ごしてほしい一心で、ミリーは念入りに取り組んだ。
その気持ちがミリーの幸福を潰すことになるなんて、知りもしないで。
本棚の裏に隠すようにあった、丁寧に布で包まれた少し大きな包み。嫌な予感がしなかった訳ではなかった。それでも、過去に失くしてしまった大切なものだったら大変だと、ただの好意で布を開いてソレを見つけた時、ミリーは自分の足元が突然崩れ去ってしまったように感じた。震える指でソレと一緒に出てきた黒い革張りの本を開くと、覚えのある字が繰り返し、執拗なまでに誰かへの「愛」を語っている。
『今日も彼女は美しい。麦の穂のような豊かな金髪、宝石のような煌めきを宿した青い瞳。まるで物語の天使のようだ。月日を重ねる毎に彼女の輝きは増していく。早く彼女に結婚の申し込みをしたいものだが、それには養父が邪魔だ。まったく忌々しい』
『いつも彼女の傍にいる、目障りなアレ。どうやら俺に好意を抱いているらしい。アレを利用すれば彼女に近付く足掛かりとなるのではないだろうか。計画を考えよう』
『計画が成功した。あっさりと身体を許す尻軽かと思えば、どうやら処女だったらしいが。機嫌をとり歯の浮くようなセリフをアレ相手に一々考えねばならないのは面倒でしかないが、顔や髪、瞳の色の冴えなさはともかく意外と身体は良かった。性欲を解消する相手としてはちょうどいいかもしれない』
『養父の存在が相変わらず目障りだ。そろそろ彼女も十四になる。学院へ入学してしまう前に計画を実行に移す必要があるだろう。計画にはアレの存在も不可欠だ。すっかり俺を信じ込んでいる様子は滑稽過ぎて笑いが込み上げてくるが、未だ俺にはアレが必要だ。アレを活用すれば必ず彼女に近付くことが出来るはず』
『待っていてくれ、愛するオフィーリア』
ミリーは立っていられずに膝をついた。身体がぶるぶると震えだし、呼吸も浅く早いものになったが、それでも文字を追い続ける。
やがて、繰り返しページを捲っていた指先が動きを止めた。虚ろな目が宙を彷徨い、ふとソレの上で止まる。
ミリーが結い上げ、ミリーが施した化粧。額縁の中、覚えのある姿でいつかのオフィーリアが幸せそうに笑っていた。
終わらない上に暗い。
今度こそあと1、2話で過去話終了の予定。