第四話
ミリーは一度厨房に寄りグラディスの好きな茶と菓子を用意すると、こっそりカップを二つ持ち出した。緊張しながらも何気ない顔を装って使用人用の通路を通り抜けグラディスの部屋に入ると、彼は既にカフスを外し寛いだ様子でソファーに座っている。何気なく目に留まった捲ったシャツの袖から覗くその腕の意外な太さにミリーは動揺し、思わず視線を反らした。
「ミリー、大丈夫だよ。さっき人払いをお願いしたからこの部屋には当分誰も近寄らない。そんなところにいないでこっちにおいで」
グラディスはミリーの内心も知らずに微笑みながら手招く。おずおずと落ち着かない様子で近寄り、ローテーブルに茶器の仕度を始めたミリーの手際をグラディスはじっと観察していた。視線を感じ緊張しながらも特に粗相もせず、なんとか仕度を済ませたミリーはほっと息を吐く。瞬間、グラディスが彼女の腕をぐっと引き寄せた。
突然のことに声も出せずグラディスの胸に抱き止められたミリーは混乱しながら顔を上げる。しかし考えていた以上に間近にあったグラディスの琥珀に似た瞳とかち合った途端、絡めとられるように見いられた。
グラディスの瞳の奥にもう一人のミリーが見える。波打った黒い髪に、白い痩せた顔。グラディスやオフィーリアのような華やかな顔立ちとはとても言えない、地味で陰鬱とした印象を与える顔。瞳だって、グラディスのような琥珀色でもオフィーリアのような澄んだ青でもなく、どこまでも暗い黒だ。
なんて似合いの色だろうか?
ぼんやりとそう思いながら、ミリーの胸は痛んだ。これまでガラス窓やオフィーリアの鏡台越しに幾度も見てきた自分の顔と色なのに、ミリーの胸は何故か軋むような痛みに襲われる。
理由のない痛みに顔を歪めたミリーを、琥珀の瞳がじっと見つめていた。
「この状況で考え事なんて、妬けちゃうね。ミリー」
グラディスの声に弾かれるようにミリーが目を見開く。驚くほどの至近距離でグラディスが楽しそうに口の端を持ち上げていた。ミリーの白い頬がカッと熱を持つ。
「え、あ、ぐ、グラディス様?!」
「うん、グラディスだよ。ようやく僕に気付いてくれたようだね」
「す、すみません! え、あれ、でもなんでこんな……!?」
「ミリーを抱きしめてみたかったから。だめ?」
だめ? と首を傾げつつ、グラディスはいっそう楽しげな様子でミリーの細い腰に左腕を回し引き寄せる。予想外の返答に顔を赤くしたまま絶句したミリーの頬を、グラディスは追い討ちをかけるように空いている手でなぞった。
「知ってたよ、ミリーがいつも僕を気にかけてくれていたこと」
グラディスの突然の言葉にミリーは驚いて息を飲む。心臓が嫌な風に跳ねた。
「ふふ、いつも心配そうに見てくれていたよね。さっきみたいに直接声をかけてくれることは珍しかったけど、それでも僕はミリーのことをずっと知ってたよ」
この人はどこまで知っているのだろうか。
ミリーの胸に秘めた密かな淡い恋心さえも見透かしたような茶色い瞳の恐ろしさに、ミリーの身体に震えが走る。グラディスはすっかり血の気の引いたミリーの青白い頬をなぞるのを止め、黒くうねった髪をゆっくりと鋤いた。
「この家で君だけが僕を見ていてくれた。オフィーリアではなくて、グラディスを選んでくれた」
グラディスの声が、表情が泣きそうに歪む。ミリー、とグラディスが震える声で彼女を呼んだ。
この過去を思い返すたび、今の私は幾度も考えずにはいられなかった。この時、ミリーがグラディスの腕を振りほどき逃げ出していれば、グラディスのお茶の誘いを断っていれば、ミリーは。
「僕は君が好きなんだ」
グラディスの言葉はミリーに強い衝撃を与えた。雷に撃たれたかのようにミリーの身体が一度大きく震える。少しの沈黙のあとようやく、あえぐように震える唇が小さな声を絞り出した。
「す、き?」
「うん、君が好きだ」
グラディスの言葉がミリーの身体の隅々へ沁み渡っていく。泣くつもりなど無かったのに、ミリーの瞳の端からぼろりと涙が零れ落ちた。誰かに好きと言われたのは、ミリーの十四年と少しの人生において初めての経験だった。
どうしよう、声が出せない。得体の知れない温かな感情で胸がいっぱいになり何も言えずにただ泣くミリーに、グラディスは不安そうに「ミリーは?」と訊ねる。考えるまでもなかった。
「あなたが好き」
頭を通さない飾り気のない本心がミリーの唇から零れ出た。途端に、ミリーの呼吸がグラディスに奪われる。一度、二度、三度。離れがたいと言いたげに交わされ、その度に深くなる口づけにミリーの呼気が乱れる。心音が早い。いつの間にか体勢が変わり、グラディスの向こうに羽の生えた天使が踊る天井が見えた。
「君が好きだ」
いい? 掠れた低い問いかけに、ミリーは訳も分からないまま頷いた。壊れたように涙を流し続けるミリーの瞳を宥めるようにグラディスが優しく口づける。
「可愛いね、ミリー」
天使を追い出した黒い瞳に、グラディスは一人静かに笑った。