第三話
男爵邸での最初の一年は、孤児院にいた頃とそう変わりはなかった。毎日馬鹿女の起こす騒動に巻き込まれ、ミリーが責任を取らされる。やっかみも嫉妬も受けるし、本来屋敷の中で一番身分の低いミリーは当然苛めも受ける。下げたくもない頭だって下げ、思ってもいない感謝の言葉を毎日口にしなければならない。
それでもそんなふざけた日々から逃げ出さずに堪えることが出来たのは、「勉強」をすることが出来たからだ。マナーから始まり、美しい発話練習に綴りの練習、飾り文字、裁縫にお茶の入れ方、センスの磨き方と沢山の書物。侍女としての教育に必要のないはずの外国語や楽器、ダンスの練習、乗馬や詩作も「親友と一緒に受けたいわ」というオフィーリアたっての希望で勉強することが出来た。(この点に関してはミリーは心からオフィーリアの非常識さに感謝していた)
この教育を受けることが出来なければ、そして……オフィーリアの義兄、本来は彼女の従兄であるグラディスの存在が無ければ、ミリーはとっくに逃げ出していた。そして、今の私が目覚めることも、きっと一生なかっただろう。
ミリーにとってグラディスは、将来の主という点を除いても特別な存在だった。唯一の実子オフィーリアが行方不明となった為に、将来の後継者として男爵の弟から養子に迎えられたグラディス。しかし実子オフィーリアが家に戻ってきた為に、彼の立ち位置は男爵邸において複雑なものになっていた。
この国に女子の継承権はない。実子がオフィーリアしかいない以上養子に頼るしか家を存続させていく道のない男爵家だが、それでもオフィーリアに家を継いでほしいと男爵夫妻が考えていることは使用人の誰もが知っていた。
家族団欒の輪の中から、グラディスの姿が徐々に消されていく。ミリーは、一人孤立しつつあったグラディスの姿に自身を重ね合わせ、そうしていつの間にか淡い恋心さえ抱くようになっていた。
憧れ混じりの淡く甘い恋情が決定的なものへ変わったのは、ミリーが男爵邸に来て迎える二度目のある秋の日だった。
「グラディス様」
「ん……、ああ、ミリーか。どうかした?」
ミリーの声にゆっくりと振り返ったグラディスの顔が力なく微笑む。普段より青白い顔をしたグラディスに、ミリーは思わず眉を寄せた。今二人がいる廊下に他に人がいないことを確かめると、ミリーはグラディスに近寄る。失礼かとは思いますが、とミリーは小さな声で気遣わしげに続けた。
「どこか体調が思わしくないのですか? 顔色が随分悪いようですが……」
「ああ、うん。最近寝つきが悪くてね」
ミリーにはバレたか、とグラディスは青白い顔のまま柔らかく笑う。ミリーはその姿に痛々しさを覚えずにはいられなかった。今、男爵夫妻とオフィーリアは領地視察と称して二週間程の旅行に出掛けている。真実視察であるならグラディスも共に赴くべきであるが、男爵はグラディスの勉学を理由に同行を許さなかった。今までにないあからさまな男爵夫妻の態度に、ミリーのような使用人にも柔らかな態度を忘れない朗らかな性格のグラディスが心を痛めない訳がないのだ。
体調不良を言い訳に(勿論仮病だが)この視察と称した旅行からなんとか逃れていたミリーは、グラディスに対して深い同情を寄せずにはいられなかった。そんなミリーの様子に気付いたのか、グラディスはそっとミリーの手を握る。
「君さえ良かったら、一緒にお茶でもどうかな。久しぶりに誰かとゆっくり過ごしたい気分なんだ」
整った顔に控えめな笑顔を浮かべて誘うグラディスの言葉に、ミリーは頬を赤くして俯く。ただの使用人でいたいのならばグラディスの誘いは断らなければならない。しかしミリーは、この寂しげな青年の誘いを断ることが出来なかった。
俯いたままミリーが頷く。
「ありがとう、ミリー」
だから愚かなミリーは、グラディスの甘い茶色の瞳が冷徹な色で光ったことを見落としてしまったのだ。