第一話
「……ミリー?」
呆然とした様子で呟かれた懐かしい名前に、内心盛大に舌を打った。
有り得ない。マジで有り得ない。
絶対に会いたくない相手と、故郷から遠く離れた異国の娼館で客と娼婦として再会する確立などたかが知れているはずだ。……たかが知れているはずなのに、何故かこの身に今現実として起きてしまっている。
脳裏に「運命」などというちんけな言葉が過ったが、こんな運命なんかクソ喰らえである。
しかし今更嘆いたところで時間が巻き戻ることはない。だからこそ、この場をどう切り抜けるべきか考えなければならないのだ。
思い切り悪態を吐いてやりたいのを堪え、ルージュを引いた唇を微笑みの形に引き上げる。腰かけていたソファからも立ち上がらず、衣装のスリットから覗く白い脚を見せつけるように組み替えてやった。
私の挑発的な動きに見開かれたままだった男の茶色い瞳が我に返ったように剣呑な光を帯びる。男の殺気立った雰囲気に、部屋の隅で立ち尽くしていた小間使いがヒッ、と小さな悲鳴を上げた。
「ねえ、そんなに怖い顔をなさらないで、こちらにいらして。お話でも致しましょう」
普段よりも高く艶っぽく聞こえるような声で、部屋の入り口で立ち尽くしたままだった男を私の対面のソファに招く。途端に「リリアンヌ姉様っ」と怯えた調子の小さな声が私の行動を咎めたが、視線も向けずに聞き流した。
大方、太客であるお貴族相手に挨拶も名乗りもしていないことを注意しようとしているのだろうが、そんなことは私は勿論向こうだってどうでもいいハズだ。
案の定、男は何も言わず私の対面のソファに腰を下ろした。私と男の間に漂う妙な雰囲気に、ただ小間使いだけがおろおろと狼狽えている。それでも仕事をこなそうと、香りの高い茶を入れたケナゲな彼女に「下がっていいわ」と伝えて部屋から追い出す。正真正銘二人きりになった部屋で、ようやく男が口を開いた。
「盗みを働き逃亡したと思ったら、次は娼婦か。お前はどこまで罪深い女なのか、その愚かさにはまったく頭が下がる」
……あああああ、うっぜえ。マジうぜえ。相変わらずクソ嫌味な陰険野郎だな。
セリフに反して嘲笑を滲ませた声に心の中では中指を突き立てつつ、優美な微笑みは崩さない。男に対抗するように、くすり、とわざとらしく笑い声をこぼすと鋭く睨み付けられた。ここにさっきの小間使いがいたらぶっ倒れるんじゃないかというぐらいの迫力である。この陰険野郎は無駄に顔が整ってるからな、死ね。
「どなたかとお間違いではございませんの? ご存知の通り、わたくしはリリアンヌ。当館の娼婦、リリアンヌですわ」
「はっ、いつまでその薄汚いネコを被るつもりだミリー」
うるせえな、だからミリーじゃなくてリリアンヌだっつってんだろ!
などと正直に言える筈もない。「まあ……困ったお客様だわ」と苦笑するように言うと、茶色い瞳が益々苛立たしげに細められた。
「さっき、話をしようと言ったな」
ええ、と頷き、湯気の薄れ掛けた茶を口に含む。花のような甘い香りが広がるのに、飲み下した舌には独特の苦みがこびりついた。……あの小間使い、使えねえ。
思わず顔を顰めた私をよそに、それなら、と男が言う。
「二年前の話をしようじゃないか」