表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

孝行したい時分に親はなし

暗い玄関にカギを差し込み戸を開ける。

「ただいま」と一言。然しその声は奥闇に響くだけで全く人の気配なし。「母さん?」僕は問いかけるようにしながら。電気をつける。

 そこには一片の慈悲さえない光景。母は、冷たい床に倒れ、全く動く気色が無かった。

「母さん、母さん。」声を思わず荒らげる。ハンドクリームの入ったビニールを思わず後ろに投げ、母の体に触れる。

救急車を、そう思い携帯電話を取り出す。手が震えてうまくナンバーを押せない。何度も間違えては消しを繰り返しやっとの思いで消防署に電話をかけ、救急車を呼ぶ。

立地の関係か、救急車が来たのは電話から約五分後と迚早かった。

 足元に落ちたハンドクリームを拾い上げる。

「何ともない、何ともない」そう、言い聞かせながら。

      *

 母は脳梗塞だった。発見が遅れた所為で一命はとりとめたものの、植物状態、意識はなかった。

 手元のハンドクリームの入った袋がやけにずっしりと重たく、手汗でじっとりとしていた。――幸せは突然にして崩れ去ったのだ。

 医者からの面会許可がでて母のベッドの脇に座る。母の目は今にも開きそうなのに開かない。まるで嘘のようだ。

 医者が曰く、これは持っても一か月ぐらいだという。

――親の死、それはもっと先の話だと思っていた。けれどそれは目の前にある。

 「もしも、もっと早く俺が働いていれば、親孝行できたのに。」もしもと言って後悔するのはやめると決めた筈なのに思わず口をついて出る。

 孝行したい時分に親はなし、正確に言うと母はまだ生きているが最早亡いも同然だ。

改めてみる母の顔、皺だらけで、浅黒くなった肌。随分と変わってしまったその顔に残る面影は正しく優しかった母のそれだ。

「息子さんですか?」不意に声をかけられる。

「ええ、」と相槌。声の源は母の担当と思しき若い看護婦だった。手にはおしぼりを持っている。

「今から何をするんですか?」と僕が問うと、彼女は「軽く顔や腕を綺麗に拭くのです。」と言う。

「あの、」と僕。色々なものがこみ上げる。「それ、僕にやらせて頂けないでしょうか。」看護婦はその提案に一瞬驚いた風だが直ぐに笑顔になり「ええ」と言い、僕におしぼりを渡してきた。

僕はそれを握り、母の顔を丁寧に拭き始める。額、眉間、瞼、頬。

昔僕が寝るときこうしてマッサージの様にしてもらうのが好きだったっけ。

「頭のやぁま、のぉぼって、下谷に降りて、毛虫坂登って、花一本おって、方々で叱られて、口惜し事よ、無念なことよ――」思わず口ずさむ。

「なんですか、それ。」と看護婦。

「昔、小さい頃にこうやって歌いながら、それぞれの顔の部位を撫でてもらったんです。」そう、遥か遠い日を見つめる。あれはきっと、幼稚園の頃の話だろう。

 一通り顔を拭き終わると一度おしぼりを濯ぐ。

「僕、もしもという言葉が口癖なんです。」不意に口をついて出る。

「でもそれでずっとその場に立ちどまって、母にも沢山の迷惑をかけてしまいました。もう、もしもと言わないと決めたんですがねぇ、もしもと言いたくて仕方ないです。もしも、もっと早くに孝行できたらって。」そう言った後「初対面の人に何を言ってるんでしょうね」と少し恥ず。

 だが、若い看護婦さんは真剣な面立ちだった。

「それはあなただけではないですよ。だからあまり気に病まないでください。」と看護婦。すぐに「すいません、私なんかが言えた義理なんかじゃないですよね。」と一言付け足す。

「いえ、ありがとうございます。少し、気が楽になりました。」僕は看護婦にそう礼を言う。「こちらこそ」と看護婦。

 「私も、そうだったんです。私、恥ずかしながら看護学校を何度も浪人して、やっと三度目で入って、それまで私の両親にもの凄く迷惑をかけて、やっと看護婦に成れたと思ったら、突然の事故で、両親二人とも亡くなってしまいました。だから、こんな事を言うのも不謹慎といいますか、なんというのでしょうか。あなたのお母さんはそれでもまだ生きています。だからどうか、まだ最期の時までの時間を大切にしてください。」看護婦は自分の過去を思い出してか少し泣きそうな、でも優しい眼で僕を見た。

「ありがとうございます。あなたのお蔭で大切な時間に気付くことが出来ました。」深々と頭を下げる。

 「いえ、出過ぎたことを。すいません。」と彼女は照れ臭そうに言う。

 「それでは、何かありましたらお母様の直ぐ脇に設置されたナースコールにてお呼びください。どうぞ、ごゆっくり。」彼女はそういうと部屋を出た。

 先ほどのタオルをもう一度水洗いして、母の腕、手のひらを拭き始める。やはりその手は固い。

「そうだ。」と僕は手元の袋からハンドクリームを取り出し、手に擦り込んでゆく。ガサガサの、ボロボロな手。ずっとこれで家事をしていたのだろう。もっと早く気づきたかった。

「母さん。」そう呟いたとき、母の眉間が僅かに動いた気がしたが、直ぐに見間違いだとわかる。ドラマの様な奇跡はそう起こるもんじゃあない。

 手を拭いた後、足も拭く。指の一本一本。踵は手よりももっと固かった。

――それから間もなく一週間後、母は亡くなった。享年五十六歳。決して長いとは言えない人生。

 あの人は幸せだったのだろうか。

「もしも」もしも僕がもっといい息子だったら、そう言いかけた。けれども言うのを辞めた。不意に、あの少年に「もしもと言っても無駄なだけだ。」と言われた気がしたからだ。

 線香を立て、手を合わせる。

こんな形式上のもの、前ならばこういった物を形だけのものと馬鹿にしただろう。だが今はこういったものは所詮死人のための物ではない、残された人間への慰めなのだという事をよく知っている。

 「じゃあ母さん、行ってくるから。」そう言ってスーツを着込むと家を出る。

 外にでる瞬間、日の光に混じって色んな人物が浮かんで見えた。アイツに父さんに、母さん、そして、あの少年が。

「さぁ今日も仕事だ。」僕は自転車をとばす。人生の分かれ道など気にせず突っ走る、そういった思いの表れと共に


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ