水流
「もしも」、僕はいつもそう繰り返していた。きっと僕だけじゃないはずだ。「もしもあの時に」そう言ってつぶやく人はきっと少なくない。勝手な想像だが、人間である以上一度は思ったことあるのではないか。
もしも、もしも、もしも。そう繰り返す日々。惰性だった。
目が覚めるとカーテンの隙間から橙の斜陽が薄く部屋を照らしていた。時刻はおそらくもう夕方、強いて言うならば十六時といったところか。おそらく、というのはそれがカーテンの隙間から漏れる光からの想像でしかないからだ。今日はなんてことない平日。私はふつうこんな時間まで部屋の中、ましてや襤褸布のような毛布にくるまっていてはいけないはずの人種である。しかし、私には外へ出る必要性がなかった。既に、大学を中退したのだ。大学は所謂難関校。僕はそんな世間から言わせると勿体ないことをしたはずなのにこれと言って心持ち普通だった。
ぼさぼさの髪を掻き毟り、放ってある携帯電話を取り文を打つ。
「おはよう、今起きたよ」というなんてことない短文に顔文字などで装飾を施す。これでも一応彼女はいるのだ。返信は送ってすぐに来た。でも、これもまた、惰性なのだ。近くにあったチャルケを貪りボンタン飴を口に放り込むとまた少し思いにふける。
何度過ごしても慣れない。斜陽というものはどうしてこうも心持ち憂鬱にさせるのだろう。子供の頃からそうだった。特に日曜日、さくらももこのちびまる子ちゃんが始まる頃はまだいい。しかしサザエさんが始まる頃には日と同時に子供の僕の心まで西の方。この気持ちはただ遊んでばかりだった小学生の頃から変わらない。
「吁。」カーテンから漏れる斜陽に抱かれ、そういった憂鬱な気持ちになる。
今にして思うと僕の人生の最盛期は高校生だった。あの頃は沢山の人に囲まれて幸せだった。
「皆俺よりは下だった。」僕はプライドがやたらに高く、自信過剰だった。それでも実力は伴うのだ。文句はないはずだ。今でこそ見た目落ちぶれたがポテンシャルは健在なのだ。
長い溜息一つ、昔の人がいう様に魂の抜けるような長いの。
「俺はいつからこんなことになったのか。」とぼやく。一人称が話すときは俺、心では僕なのがこの僕の性格をよく物語っている。カーテンの隙間から見える日はまだ高かい。布団にくるまりぼうっとただ床を見つめる。
母は健在、父も金持ち。僕がこうしていたところで何ら問題ない。
顔だって痩せれば悪くないし、第一彼女がいるのだ。その点も問題ない。僕には様々なポテンシャルがあるのだ。
「でも、これじゃあ、いけない」
僕は常に自責の念に追いやられていた。それもそうだ。現状父に養ってもらい飯は決まった時間に母に部屋の前まで持ってきてもらう。そんな生活なのだから。幾ら才能、ポテンシャルがあるといわれ続けたところでこの現状である。
「もしも」 ――もしもあの時もっと努力をしておけば、そんな気持ちが胸を満たす。
「ねぇ、今の君の“もしも”、やり直しが叶ったら君はやり直す?」
少年の声。数秒ほど考えた後、なぜ少年の声がする、と私は声の元を見た。誰か親の客人の子供だろうか。いや、しかし誰かが訪ねてくるなどあり得ない。それは何より僕がよく知っている筈だ。
「お前はなんなんだ。俺の部屋で何をしている?」少し威圧的に聞く。自分でも思うが子供に対し幾らなんでも大人げなく、またその傲慢ちきな態度が長い引きこもり生活による社会性の低下をも示していた。
「君はうちの客人か何かの子供か?」すると黙ってかぶりを振る。否、のようだ。
「今度は僕が聞いていい?」少年は少しかぶりを傾けながら言う。
「お兄さんは驚かないの?僕がここにいることに。」不思議と疑問の念はわかなかった。そこにいるからいるのだろう、ただそうとしか浮かばない。
「ああ、さしておどろきゃせん。で、もしもがなんだと」僕は先ほどのこの少年のいった事に話を持っていく。少年は顔色変えず、ただ少年らしくない変に大人じみた、そう、蛇に憑かれた、言い方は悪いがまるで悪人のような顔でいたずらに笑い、言う。
「そのまんまの意味さ。」そういい、軽く息を吸い、続ける。
「もしも君が“もしも”が叶うセカイを望むなら、僕がそこにつれってってあげるよ。」 ――もしものセカイ、夢のような話だ。こんな話当然断るはずもない。
「君、からかうのはよくないよ。もしものセカイなんてあるはずないじゃないか。やり直せるもんならとっくにそうしているさ。」今度はやや大人の体裁を保ち乍、ひきつった不自然機械的な笑顔で言う。すると少年少し鼻白んだ様子。
「ひどいなぁ。もしもが叶うセカイはすぐそこにあるんだよ。」いたずらに笑う。
「ああ、行くさ。もしものセカイ。本当に在るんだとしたらな。」少し焦り上ずった声で言ってしまった。それに対し少年はクスクスと笑い顔。本当に子供らしくない奴だ。
「うん、いいよ。」彼はかぶりを縦にふり答えると同時に僕のベッドより先が一色一面黒になり、柔らかい、よく水を含んだ泥に沈むように僕たちは引き込まれていく。そこには一種アブストラクチャーのような、沢山の色の流れがあった。一本一本の流れ、その中には、沢山の“僕”がいた。
「なんというか、時って本当に流れ見たいだな。」わかりきっていたことだが、こうして目にして再実感する。
「流れだよ。」一緒に時をさかのぼりながら少年は言う。
「流れだよ。それも、川の、流れ。」少年の目はどこか寂しげで、空虚といったらいいのだろうか、目には変わらないが彼の目から彼の空虚な感情、一種悟りといったものを感じた。
「僕たちの時は“川の流れ”なんだよ。上流の細い一つの水脈から始まって、下流に行くほど沢山の流れに分かれていく。ただ、海に出てしまえばもうそこで一つの大きな海の一つにしかなれない。そして、何より下流から上流には逆らえないんだ。」少年は言う。
「何より、上流、小さい頃は激流で、流れが速いところまでそっくりだな。」僕は少年の言葉に被せるようにこう続けた。
そうだ、子供の頃はあんなに激流だったのに、今は、体感年数こそ早いが、環境の流れはあの時ほどの激流ではない。
「じゃあ、これはポロロッカってわけか。」僕は海が川へと逆流するあの光景
を思い出しながら呟いた。
「確かにポロロッカの様だね。でも、少し違う、逆流とは違うんだ。唯一川と違って逆流は、起きないんだ。」少年はいたずらな笑いを浮かべる。何か向うのほうが大人の僕より前にいる気がして少し鼻白んだ。
「なぜお前はそうも子供らしくないんだ。」思わず口をついて出る。
「僕が子供らしくないのは何より君が知っているはずさ。」
ぴしゃり。早口だった。
「ああ、そうだな。」といった後、しばし無言。
すこし気まずかったので僕はアブストラクチャーのような風景を見る。
高校生の時の僕が後ろにいて、前には中学生の頃の僕、そしてその向こうには――
「さぁ、もうすぐ着くよ。」少年がそういうと同時に、眩い光とてつもない眩暈が僕を襲った。