第二話 戻ってきた日常
今回はちょいと短めです。
6月も下旬に入る頃である。
先日の事件が遥か彼方の大昔に起きた出来事のように感じるのだが、実際のところはまだ2週間しか経ってはいない。
智昭は知らないことではあったのだが、実は裏の世界───魔術師たちの世界のことだ───で有名に成りつつある。もともと〈神殺し〉という稀有な力を持っているのだ。それが先日のジョアッキーノの襲撃事件によって更に名を挙げたといっても過言ではない。つまりはそういうことであった。
事情を知らない智昭本人からしてみれば迷惑以外の何物でもないのだけれど、そうなってしまったものは仕方がない。最早後の祭りである。アフターフェスティバルなのだ。
と何故英語で言ったのかは不明なのだが、そんな些細なことは脇道にでも捨て置けばよい、ということなのである。気にしない、気にしない。一休み、一休み、といこう。
まあそんな感じではからずも裏の業界で有名になった智昭だが、そんなことは露知らずいつも通りの平々凡々な日々を送っているのであったりする。
◇
「ふあー、眠っ」
そんなセリフを欠伸と共に口から漏らす。
まだ眠たげな眼を擦りながら通学路を歩く姿はそこら辺の学生たちとまるで変わりはしない。内に秘めたる力が周りとは余りに隔絶しすぎていることを除けば、本当にただの一般人にしか見えないところが不思議だったりもするのだが。
「また夜更かしでもしてたんですか?」
その眠たげな眼をした、いまいち締まりのない顔の男子生徒の隣を歩いているのは絶世の美少女だったりする。この上なく羨ましいことに。本当にいつか闇討ちされるんじゃなかろうか。
現に今だって、周りの男子生徒が憎しみを視線に籠め、歯を食いしばり、今にも殴りかかってしまいそうな腕を必死に押さえつけながら、拳を握りしめているのだ。
彼らの心の声は一字一句違わずに同じことを叫んでいた。『ああ、憎しみで人を殺せたら』と。
そんなわけで、眠たげに歩く学生───智昭のことだ───は一瞬背筋をゾクリとさせた。
「何か今一瞬不穏な空気を感じたな・・・」
いつものことか、と思いつつもつい言葉に出してしまう智昭。
仕方あるまい。十人に訊けば七人は羨むような状況下にあるのだから。そして、羨まない三人の内、二人は興味がなく、一人は男性に興味がある感じになるだろう。あくまでも独断と偏見だが。
「そうですか? 気のせいじゃないでしょうか」
周囲の空気を全くといっていいほど感じていない智昭の隣を歩く美少女───もちろん玲奈のことだ───はそう返答する。
まあ、大抵こういうことは本人は気づかないものである。第三者のほうがよっぽど気が付くだろう。
と、ここでいきなり智昭の体勢が崩れた。
「どーん」
そう口で言いながら、智昭に背後からぶつかるのは、智昭の数少ない友人である有希であったりする。
「うおっ! 何すんだ!」
突然のことで驚いた智昭は叫ぶ。
突撃してきたのが誰かわからないまま。
「びっくりした?」
笑いながらそう尋ねる有希を見て、初めてぶつかってきたのが有希であることがわかり、安堵の息を吐く智昭。一瞬過激派が攻撃してきたかと思ったのだ。過激派なんて言うと、どこぞの原理主義を思い浮かべるが一切関係ないので悪しからず。
流石にそんなことはないか・・・と思い、やられたからには仕返しを、の精神で智昭は驚かしてきた有希を逆に驚かしてやろうかと考え始める。
だがどうしようか・・・。そもそも有希が驚いているところはそんなに見たことがない。何をすれば驚くか・・・。あまり変なことをしても仕返しが怖い。一瞬驚くけど、すぐに笑って流せるような、そんなものはないか。
歩きながらそう思考を続ける智昭。無言で考え続ける。
その沈黙を有希は勘違いする。自分の悪戯で怒っているのではないかと。結論から言えば、それは間違っているのだが、誰だって思うだろう。自分が悪戯をした後、相手が黙っていたら怒っているのでは、と。
そんなわけで、若干シュンとした態度になった有希は智昭に尋ねる。
「もしかして・・・怒ってる?」
智昭はすぐに返事をしようとして、思いとどまる。これはチャンスだ、と。これを上手く利用すれば有希に対して何らかの意趣返しができるかもしれない。
「別に怒ってはいないけど・・・まさかこんなことをされるなんてな・・・」
ふぅ、とわざとらしくため息を吐く智昭。その動作は第三者から見れば、いちいちウゼェとか思うような動作ではあるのだが、有希はそんなことを考える余裕もなかった。
今の智昭のセリフは、怒っているというよりも呆れているというニュアンスを前面に押し出したものだ。故に、有希は何時まで経っても子供っぽいんだな・・・と智昭に思われたように感じている。まあ勘違いなのだが。
ふと、智昭は有希がどんな顔をしているか見てみる。そして、思いのほか自分の行動の効果が出過ぎているのに気が付いた。予想以上に有希が思いつめているのを、『アレ?これどうしよう?』とか思っていたりするのである。全て自業自得以外の何物でもないのだけれど、この状況にどう落としどころをつくるか、悩まざるを得ない。下手にドッキリでした、みたいなオチをつければ恐ろしいことが待っているかも知れない。というか、ほぼそうなるだろう。別に真剣に怒っているわけでも呆れているわけでもないのだが、それをいきなり明かせば何をか況や、である。
よって、智昭は苦悩する。どうしたものか、と。どうすれば笑って流せるだろうか、と。
そもそもどうして、朝の何気ない登校でこんなにシリアスな空気になっているのか。色々と悩みは尽きないものである。ざまあみろ、とも思わないでもないのだが、空気がよろしくないのはいただけない。
と、その頃、玲奈はというと、どうやら空気を読んで黙っていたのだった。具体的な内容を理解しているわけではなかったが、なんとなく二人の間の空気が良くないことは察知できたので、静かに周りの風景を見ながら歩いていた。余談だが、この周りの風景を見るというのは、玲奈にとってかなり重要なことである。最近はあまり目立っていないが、玲奈は極度の方向音痴である。知らない場所はたとえ地図があろうとも迷い、選んだ道は悉く外れるという滅茶苦茶ぶりだ。ただ、いくらそれほどまでの方向音痴だとしてもきちんと覚えた道は流石に間違わない。つまり、そういうわけで周りの風景と共に道を覚えているのであった。因みに、玲奈が苑宮市に着いた時以外に道に迷っていないのは、必ず誰かと一緒に出掛けていたからである。それ以外の方法であれば、確実に迷っていただろう。しかし、今はもう一人で個人的なものを買いに出かけられる。もし、まだそれが出来なかったら最早介護が必要なレベルだ。
話が大分逸れてしまったが、取り敢えず現在は只今智昭と有希との間の絶賛空気の重い沈黙が問題である。いかにこれに対処するか。果たして誰が解決できるのか。そう疑問に思ってしまうほど気まずい雰囲気だ。
ここで
「やふーーー」
と叫びながら走ってくる変なのがいた。
「おいおい。どうしたよ? なにこの堅い雰囲気? 葬式でもあったの?」
『え? 何言ってんの、この人!?』と玲奈はその人物の態度に仰天した。辛うじて表情だけは押さえたが、それでもその動揺は動きにでた。誰も見てはいなかったが。
ところがだ。玲奈の予想とは違い、今や増えた一人を足しての三人の空気が元に戻った。いや、元に戻った、は言い過ぎだが、少なくとも重く沈殿したものを巻き散らかすぐらいの勢いはあった。巻き散らかしちゃダメじゃねえか。
流石はそれなりにつるんでいる連中である。この葬送行進曲が流れていそうな空気でも恐れず話しかけるとは。
素直に玲奈は感心した。自分ではこうは出来ないな、とも思った。
そんなことを考えていると、いつの間にか二人の空気はいつも通りで、三人で仲良く話していた。玲奈は何か物寂しい気持ちを感じながらも前の三人の会話に加わろうと一歩大きく踏み出したのであった。
最早日の光によって見えなくなりそうな下弦の月だけがそれを見ていた。