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第8話 パラドックスとデコヒーレンス

ポンポンポンと、子猫は小さな手でピンポン玉をつつく。

コロコロコロと、部屋の隅に転がってゆくその玉を追いかけ、追い越して先回り。

そしてまた同じようにチョイチョイとピンクの肉球でピンポン玉をつつく。

飽きるまで繰り返す遊び。ガラス細工の藍色の目。ピンと立った長いしっぽ。

子猫というのは、どうしてこうも可愛いのだろう。


けれど今は頬を緩めるわけにはいかない。

四畳半の僕の部屋の床に座り、この猫を飼う許しを請うために、光瀬とソラは神妙な顔で僕を見つめているのだ。


このアパートは大家が無類の猫好きだということで、ペットは猫までなら飼えることになっている。

そして僕自身も猫は好きだ。僕が反対する理由は何もない。それなのに・・・。

その僕に向かって、いつも態度のでかい光瀬が不安そうな顔で許可を求めているのだ。

一緒にいるソラには申し訳ないが、ここでからかわない手はないだろう。

僕のいたずら心が揺さぶられた。


「じゃあ何? ここに猫を連れ込む準備をするために光瀬は今日、僕を映画に誘ったのか?」

少し不機嫌な声を出してみた。

「まあ・・・それもある」

「それも?」

「いえ、まさにその為です」

光瀬は叱られた小学生のような顔をした。昼間中学生をこらしめた人物とは、とても思えない。

「僕を連れだして、ネコトイレや餌や首輪や爪研ぎなんかをソラに用意させたわけ? そこまで準備したら、猫を追い出しにくいだろうと考えて?」

「反論の余地もありません」

光瀬は兵隊のようにキリリと答えた。

あれ?

光瀬も少し冗談モードに入ったのだろうか。

僕が本気で怒ってないのがバレてるんだろうか。


ぴょこんと子猫が僕らの間に飛び込み、ヒョイと二本足で立つと、ピンポン玉めがけてジャンプした。

勢い余ってコロリと一回転。

その仕草が可愛くて、僕は思わずクスクスと笑ってしまった。

光瀬とソラは顔を見合わせてニンマリした。僕の芝居もここまでか。

しかし・・・それでは悔しい。


「じゃあ、こうしようよ。光瀬がシュレーディンガーの猫のパラドックスを解いたらこの猫を飼ってもいいよ」

あくまで主導権を握りたい僕は、苦し紛れにそう言ってみた。

シュレーディンガーの猫に、そんなに興味は無かったのに。


「シュレーディンガーの猫のパラドックスの解? ・・・本気で言ってる?」

光瀬は嫌なものでも見たように眉をひそめた。

「え? 光瀬は知ってるんだろ?」

「そりゃあ、すでにいろんな説があるからね」

「じゃあ、一番光瀬が正しいと思う答えでパラドックスを説明してよ。箱の中の猫が、原子核崩壊の不確定性原理である『重ね合わせ』に連動していながら、死んでいながら生きているという奇妙な状況にならない訳を」

「2番目に正しいと思う答えでいいか?」

「なんで2番目なんだよ。1番でいいだろ?」

僕が突っ込むと、ソラも頷いた。

ソラはシュレーディンガーの猫の話など知らないだろうに、光瀬の口から出てくるものは何だって楽しみにする習性がある。

どこか、無邪気な子犬のようなヤツだ。


「2番目でいいか?」

「しつこいな。いいよ。じゃあ、2番目で」

そもそも1番でも2番でも僕はどっちでもよかった。ただ、弾みで言っただけなのだから。


「シュレーディンガーには申し訳ないが、このパラドックスはまるきり成立してないんだよ」

光瀬は滑らかな口調で切り出した。


「ミクロの素粒子の振る舞いを、マクロの猫に連動させてみようとしたのは分かるが、その世界の壁はとても厚いんだ。あっちの世界とこっちの世界はまるで違う。『あなたと私は住む世界が違うのよ!』ってドラマでヒロインが泣きながら叫ぶよりも、もっと世界が違うんだ」

「よけいな例題はいいから」

「つまりは、ミクロの世界の現象である原子核の崩壊を、マクロの住人である放射線探知機に探知させようとした段階で、すでに第一のデコヒーレンスが起こっている」

「デコヒーレンス?」

僕は聞き慣れない言葉を復唱してみた。

「そう、デコヒーレンス。つまりは、『そのこと』が、ある事象に何らかの影響を与えてしまうことだよ。ほら、例えば電子の存在は、観測すること自体が電子に影響を与えてしまうだろ? そのせいで位置や速さが特定できない。つまりは観測自体がデコヒーレンスなんだよ。ついでに言うと、猫が息をしたり熱を放出することだって、めちゃくちゃデコヒーレンス。もうパラドックスどころじゃない」

光瀬はニンマリした。


「量子の世界はあやふやなんだと言ったハイゼンベルグに反論した意気込みは認めるけど、やはりこの思考実験には無理があったんだよ」

「ちょっと可愛そうな気もするな。量子の世界はそうなんだから追求するなって言われたら、物理学者として反論したくなる気持ちも分かるけどな」

僕がそう言うと、ソラが少し不服そうに呟いた。

「猫を使うからダメなんだ。実験に猫を使うから」


物理と関係のない、そんなところで反論するソラが可愛くて、僕も光瀬もプッと笑った。

しかし案外的を得ているかもしれない。


猫を使わなければ、この思考実験にともなう少々不快な後ろめたさくらいは軽減されたのかも知れない。


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