第10話 だから彼は語らない
「僕らの体は何でできている?」
と光瀬が言うと、ソラは得意げに「細胞」と言った。
「うん、だけどな、もっともっと細かくしていけば、どうだ?」
「分子?・・・あ、元素、・・・電子・・・素粒子!」
「うん、そうだな。電子も素粒子だ。いまのところ、これ以上分解できないとされている最小単位が素粒子。素粒子のいる世界、それが量子の世界だ」
先生と生徒のような、微笑ましいやり取りが始まった。
僕はただじっと聞くことにした。
「そして人間だけじゃなくて、この星もこの宇宙も、すべての物質は素粒子でできている。どんなに調べたって確立でしか表せないような、不確かなものの集合で、この世界はできてる」
「何か妙だね」
「妙だろ? この世界は、実はとってもあやふやなものなのかも知れない」
「人間も?」
「うん、人間も」
光瀬はニコリと笑った。
「素粒子ってやつは観測しても、とびとびの値しか出ないんだ。ほら、ここからキッチンまで歩いたとすると、普通それは途切れることのない、一連の動きだろ?」
「う・・・うん」
「でも素粒子・・・つまり量子の世界の住人は違うんだ。ここに居たと思ったら次はあそこ。その次はもっと向こうに居る。『間』が無いんだ」
そうだ。確かにそんなことを授業で習った気がする。僕も興味深く聞いた。
「なんだかユーレイみたい」
ソラが笑った。
「うーん、幽霊か。ちょっと非科学的だな。これって、何かに似てないか? 比奈木」
「え? 僕?」
急に振られて、ボーッとしていた僕はドキリとした。
居眠りをしていて怒られた中学時代を思い出す。
「何だろう。とびとび・・・って」
「とびとびなんだ。間だが無い。0(ゼロ)か1なんだ。0.5とか0.7とかは無い」
「あ? コンピューター? 2進法のコンピューターだ」
「そう。あれほど複雑な処理をやってのけるコンピューターの頭脳はすべて0と1だよね」
「とびとびで、間だが無い。0と1意外は無い・・・」
僕は何とも不快な気分になっていた。
なんだ、この気持ちは。
「なんか、妙な気分になってこない?」
まるで心を見透かしたように絶妙のタイミングで言った光瀬を、僕は見つめた。
「この世には知らない方がいいってことだって、あるのかもしれないよ。デコヒーレンスで壁を作らなければ知られてしまう何かを、『彼』は隠しているのかも知れないね」
「彼って、誰?」
「彼は、彼だよ」
光瀬はニコッと笑った。
「そっかー。人間が頑張ってコンピューターを作ろうとするのは、神様の真似ごとなんだね」
子猫の頭をなでながら、ソラはつまらなさそうにポツリと言った。
正解であるはずのないその呟きは、なぜか僕をドキリとさせた。
「なあ比奈木。僕らは量子論を学ぶけど、量子というのは到底理解出来る領域じゃないんだよ。難解な一般相対性理論を100%理解出来る人間が、この世に例えば3人居たとしても、量子を100%理解出来る人間はこの世には一人も居ない。無理なんだ。どんなに頑張ってもさ」
「だから・・・」
僕は口ごもった。けれど、僕の代わりにソラが続けた。
「だからシュレーディンガーの猫は成立しなかったんだね。邪魔されたんだね、彼に」
訳知り顔のソラに、光瀬が笑いかけた。
「そう。この世には知らない方がいいって事もあるってことさ」
コロコロコロと、ピンポン玉が僕の足元に転がってきた。
それを追ってまたふわふわの白黒の毛玉が転がって来る。
この可愛い生き物も、「とびとび」で出来ているのか。
「なんか、シュレーディンガーの猫って、すごい問題を含んでるんだなあ。そんなこと、思っても見なかったよ」
僕は真顔でつぶやいた。
「比奈木は素直だなぁ」
「え?」
「信じたの? 今の」
「・・・え?」
「まさか信じちゃった? ちょっとでも」
「なに? ウソだったの?」
大きな声に反応して子猫はぴくりと体を固くした。
「ウソも何も、俺ごときがそんな謎、解けるわけないだろ? 量子の世界の謎を。俺に分かるのは・・・そうだな。シュレちゃんがこの実験に猫を使ったのは正解だということだけだよ。インパクトを狙った戦略であり、人々の記憶に残るためには成功したってことかな。腹立たしくはあるけど」
光瀬は子猫を抱き上げ、その鼻先にキスをした。
ボクにも抱かせてと、横でソラがはしゃぐ。
ミラクルワールドの扉を開きかけた気分だった僕は、一瞬にして現実に引き戻された。
いつもの僕ならここで不機嫌になるところだが、今はそんな気分になれなかった。
僕を作っている素粒子たちが、とびとびに僕の中を移動しているのを感じた。
本当は、この目の前にいる男は、全てを知ってナイショにしているのかもしれないという、バカバカしい考えが漂っていた。
「知らない方がいいってこと、あると思う?」
僕がポツリとそう訊くと、光瀬はゆっくり振り返った。
「あるかもな」
「じゃあ、物理学を追求することは怖いことなのかな。それとも意味のないこと?」
僕がそう言うと光瀬は、子猫をソラにそっと渡しながら笑った。
「そんなこと考えなくていいさ。物理は『ロマン』なんだよ。いつも言ってるだろ?」
「・・・ああ、そうだったな」
「ロマンは、追い求めるために存在するんだ。そういうもんさ」
「そういうもんかね」
僕も笑った。
ほら。光瀬のオチはいつだって、くだらない。
(END)