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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第26話「記録屋の帳面」

記録屋が現れたのは、剣の刃付けが始まった日の昼だった。

 

 工房の戸口に人影が立ったことに、最初に気づいたのはガルムだった。若い職人は鞴の手を止め、怪訝な顔で言った。

 

「親方、客だ。……いや、客かどうかも分からねえ。さっきから、ずっと立ってる」

 

 戸口の男は、炉の明かりの届かない場所に立っていた。年は四十ほど。痩せてもいなければ太ってもいない。顔立ちは平凡で、目も鼻も口も、どこかで見たことがあるような気のする作りをしていた。だが、どこで見たのかは思い出せない。粗末な旅装束に、古い帳面を小脇に抱えている。その帳面だけが、男の年月を語っていた。革の表紙は擦り切れ、紙の端は幾度も捲られた跡で丸くなっている。

 

 レイヴァスは、その顔に見覚えがあった。下層で、一度だけ言葉を交わした男。市場の喧噪の中でも、境界の夜のざわめきの中でも、気づけば視界の端にいた男だった。

 

「記録屋」

 

「お久しぶりです、レイヴァス殿。下層では、ゆっくりお話しする間もありませんでした」

 

 男の声は低くも高くもなく、工房の熱気の中でもざらつかなかった。グリムニルが炉の前から顔を上げ、男を一瞥した。その一瞥には、客を迎える職人の目とは違う、硬いものが混じっていた。

 

「用があるなら、外で話せ。炉の前は、鉄の気が立つ」

 

「ええ、もちろん。長居はしません」

 

 記録屋は、あっさりと一歩引いた。その引き際の良さが、かえって男の得体の知れなさを際立たせていた。レイヴァスは作業の手を置き、工房の外の、日陰になった壁際に男と向かい合った。通りでは中層の昼の営みが続いている。荷を運ぶ声、店先の呼び声、遠くの槌の音。その日常の真ん中で、記録屋の周りだけが、音が遠いように感じられた。

 

 

「中層にも来るのか」

 

「記録は、階層を選びません。人が動き、出来事が起きる場所には、私も参ります」

 

「誰に頼まれて」

 

「頼まれる、というのとは少し違います。付け続けることが、私の役目ですから」

 

 問いに、答えの形をした言葉が返ってくる。掴もうとすると、指の間から零れる。レイヴァスは、男の抱えた帳面に目をやった。

 

「その帳面には、何が書いてある」

 

「色々と。誰がいつ落とされ、どの階に坐り、どの道を辿ったか。腕輪を重ねた者の名も、あれば。……開いてみますか。あなたの関心のある頁があるかもしれません」

 

 記録屋は帳面を開いた。紙は古く、文字は細かく、几帳面な筆跡で埋まっていた。名と、年と、階層と、短い注記。人の一生が、数行に畳まれて並んでいる。その整然さが、レイヴァスにはまず恐ろしく映った。

 

「これは、かつて腕輪を重ねて深く降りていった者たちの記録です」

 

 男の指が、頁を辿った。

 

「この者は、下層から深層へ降りるために、三つの輪を重ねました。貸したのは、かつて同じ戦場に立った男と女。降りてから二年、深層の入り口付近で消息を絶ちました。戻ってはいません」

 

 指が、少し先へ進んだ。

 

「この者は、迎えの輪で降りた者です。下の派閥に迎えられ、格を慣らして、五年を深層で過ごした。やがて輪を返し、自分の足で下層まで戻ってきた。記録にある限り、数少ない、帰ってきた一人です。……戻ってきたとき、この者は随分と老いて見えたそうです。年月以上に、と注記があります」

 

「戻らなかった者の方が、多いのか」

 

「圧倒的に」

 

 記録屋は、淡々と言った。

 

「降りる理由は様々です。力を求める者、逃げる者、誰かを追う者、呼ばれたと信じる者。ですが、記録の終わり方は、だいたい同じです。ある日を境に、それが途絶える。死んだと書ける者は、むしろ幸いな方かもしれません。死が確かめられた、ということですから」

 

 頁が捲れる音が、乾いていた。名の列は続いていた。重ねた輪の数、降りた深さ、最後に目撃された場所。どの名にも、かつては外の世界で語られた物語があったはずだった。英雄譚の主人公として、人々に希望を与えた日々があったはずだった。それがここでは、数行と、途絶えた記録の空白に変わっている。

 

 記録屋は、もう一頁だけ捲った。

 

「この者は、輪を重ねずに降りた者です。迎えも、正道もなしに、供給の路を逆に辿ったと注記がある。四十八時間の刻限の中で、深層の縁まで辿り着いたらしい。最後の目撃は、衰弱して壁にもたれ、自分の名を何度も唱えていた姿だったそうです。その先は、ありません」

 

「四十八時間」

 

「ええ。深さに耐える格を持たない者は、その刻限の中で壊れていく。記録には、その壊れ方の早さまで残っている者もいます。音に耐えられなくなった者、光を見られなくなった者、仲間の顔を思い出せなくなった者。……降りることは、誰にでもできます。降りて、なお自分でいることが、難しいのです」

 

 レイヴァスは黙って聞いていた。潜るための準備として、武具を打ち、輪のことを考え、道の匂いを嗅いできた。だが、記録屋の語る者たちは、その全てを用意してもなお、途絶えた者たちだった。用意の先にあるものは、用意だけでは測れない。そのことを、乾いた頁の列は静かに示していた。

 

「戻ってきた者は、その後どうなった」

 

「様々です。二度と降りなかった者もいれば、戻ってきてすぐに、また降りていった者もいる。後者の記録は、だいたい短い。二度目の途絶えは、一度目より奥で起きる。……深さは、一度知った者を、放ってはくれないようです」

 

 男の言い方は、警告のようでもあり、ただの感想のようでもあった。その曖昧さが、かえって言葉の重さを増した。レイヴァスは帳面から目を上げ、通りを行く人々を見た。この中層で静かに暮らす者たちの中にも、かつて深く降りて、戻ってきた者がいるのかもしれない。戻ってきた代わりに、何かを奥へ置いてきた者が。

 

「なぜ、そんな記録を付ける」

 

「忘れられるためです」

 

 男は、初めて、ほんの少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

 

「この監獄では、人が消えることが多すぎる。消えた者は、誰の記憶にも残らなければ、初めからいなかったことになる。帳面に残れば、少なくとも、その者がいたことだけは残る。……それが救いになるかどうかは、私には分かりませんが」

 

 

 やがて、記録屋の指が、ある頁で止まった。

 

 レイヴァスは、その頁の名を見た瞬間、息の仕方を忘れた。

 

 オルドヴァン。大楯の英雄。罪状、大虐殺。投獄の年と、送られた階層。監獄の中での足取りが、他の者より少しだけ詳しく記されていた。中層を過ぎ、下層に長くは留まらず、腕輪を重ね、深層へ降りていった経緯。その筆跡は、いつもと同じ几帳面さだった。

 

「先達の記録も、あるのか」

 

「ええ。落とされた英雄は、皆、ここに」

 

「その先は」

 

 レイヴァスは、頁の続きを見た。深層の通路の名。最後に目撃された場所の注記。夥しい血を流しながら、奥へ進む後ろ姿を見た者がいたこと。その証言が、短く記されていた。

 

 そこで、記録は終わっていた。

 

 次の行はなかった。次の頁にも、オルドヴァンの名はなかった。深層の途中で、ぷつりと途絶えたまま、その先の年月がどれだけ流れても、一行も書き足されていない。死んだとも、生きているとも、書かれていなかった。書けなかったのか、書かなかったのか。それすらも、帳面は語らなかった。

 

「ここから先は、ないのか」

 

「ありません。私の帳面では、ここが最後です」

 

「深層の奥まで行った記録屋は、いないということか」

 

「記録は、届く範囲でしか付けられません。届かない場所のことは、空白のまま残す。それが、この帳面の決まりです。想像で空白を埋めることは、記録ではありませんから」

 

 男の言葉は筋が通っていた。筋が通っているからこそ、レイヴァスは、その空白の重さに圧された。オルドヴァンは、その空白の向こうへ進んだ。託けを残し、腕輪を残し、血を流しながら。それでも進んだ先に何があったのかは、誰の帳面にも残っていない。

 

 レイヴァスは、懐の奥の布包みに、無意識に触れていた。託された腕輪の重さが、掌に返ってきた。自分もまた、いずれこの帳面に名を連ねるのだという思いが、静かに胸を冷やした。自分の頁の最後が、空白になる日が来るのかもしれない。

 

 

「あなたの頁も、既に始まっています」

 

 記録屋が言った。レイヴァスの思考を読んだような、あまりに自然な一言だった。

 

「レイヴァス・グランドール。剣聖殺し。アイゼン領の領民を守って領主マドルと対立し、当初は命令違反で上層への投獄が決まっていた。だが領民の反乱と私兵の鎮圧の最中、老剣聖ゴドリックと戦い、止むを得ずこれを殺めた。罪状が変わり、下層へ送られた」

 

 一言一句、まるで判決の文を読み上げるかのようだった。それだけなら、まだ驚きはしなかった。投獄の経緯は、記録として残るべきものだからだ。

 

「ですが、面白いのはここからです」

 

 記録屋の目が、わずかに細められた。印象に残らないはずの顔が、その瞬間だけ、レイヴァスの記憶に焼き付くような気がした。

 

「あなたは、初めからこの監獄へ入るつもりだった。剣聖殺しは想定の外でしたが、投獄そのものは、あなたの計画の内側にあった。……そして、あなたは一人で入ったわけではない。託されたものを、懐に抱えて入ってきた」

 

 通りの音が、遠ざかった。

 

 レイヴァスは、男の顔から目が離せなかった。託けのことは、誰にも語っていない。イリスにも、ガルフにも、グリムニルにも、その全ては話していない。断片を聞いた者はいても、計画の内側まで知る者は、外にも中にもいないはずだった。

 

「なぜ、それを知っている」

 

「記録ですよ」

 

 男は帳面をそっと撫でた。

 

「人の歩いた跡は、思いのほか多くを語ります。領を出る前のあなたの動き、領民の噂、剣聖との戦いの残り方。拾い集めれば、物語の形は見えてくる。……私の仕事は、その形を残すことです」

 

「拾い集めただけで、そこまで見えるのか」

 

「ええ。……少なくとも、私には」

 

 男は悪びれなかった。恐れも、得意もなかった。ただ、ずっとそうしてきた者の平静さだけがあった。その平静さが、レイヴァスには最も不気味だった。この男は、下層にもいた。中層にもいる。まるで初めから、自分の歩く先に帳面を開いて待っているかのように。

 

 そのとき、工房の戸が開き、グリムニルが出てきた。男は記録屋とレイヴァスの間に割って入るような位置に立ち、腕を組んだ。

 

「話は終わったか。鉄が冷える」

 

「ええ、ちょうど」

 

 記録屋は帳面を閉じ、小脇に抱え直した。グリムニルへの挨拶は、短い会釈だけだった。グリムニルもまた、男にそれ以上の言葉をかけなかった。長い年月をこの監獄で生きてきた名工が、この男に対して保っている距離。近づかず、追い払いもせず、ただ自分の炉の前には入れないという、その線引きが、二人の間の空気に滲んでいた。

 

「レイヴァス殿」

 

 去り際に、記録屋が振り返った。

 

「あなたの剣と盾が、もうすぐ出来上がるそうですね。良いことです。深く降りる者には、良い武具が要る」

 

「降りるかどうかは、まだ決めていない」

 

「ええ。記録には、決めた日のことだけを書きます。……楽しみにしていますよ、あなたの頁の続きを」

 

 男は通りへ出て、人混みの中へ歩いていった。不思議なほど目立たない歩き方で、三つ数える間に、どこへ行ったのか分からなくなった。レイヴァスはしばらく、その人混みを見ていた。誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らない男。けれど、その男の帳面の中では、誰もが数行の記録として残り続ける。

 

「あの男と、深く関わるな」

 

 背後で、グリムニルが低く言った。

 

「関わるつもりはない」

 

「関わるつもりがなくても、関わられることがある。……あの帳面に書かれるということは、誰かに読まれるということだ。お前の歩く先が、誰かの目の中にある。その気持ち悪さだけは、忘れるな」

 

 グリムニルは、それ以上は何も言わず、工房へ戻った。炉の火の音と、槌の音が、やがて普段通りに戻ってきた。だがレイヴァスの耳には、捲れる紙の乾いた音が、いつまでも残っていた。

 

 自分の頁は、既に始まっている。その頁に何が書かれ、どこで途絶えるのかは、まだ分からない。分かるのはただ一つ。その続きを書くのが帳面の男ではなく、自分自身の足でなければならないということだけだった。

 

 工房に戻る前、レイヴァスは一度だけ通りを振り返った。人混みは相変わらずで、記録屋の姿はどこにもなかった。だが、見られているという感覚だけが、背中に薄く残っていた。帳面の空白を思い出すたび、その感覚はこれからも戻ってくるだろう。オルドヴァンの空白の先へ進むということは、自分の空白の始まりを、誰かの目の下で迎えることでもあるのかもしれなかった。


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