↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/46

# 第2話「落下」

扉の向こうに、空があった。

 

ただし、それは下へ向かって広がる空だった。

 

重い扉を開いた護送の者たちが、レイヴァスを粗い石の張り出しへと押し出した。足の下で小石が転がり、はるか下へ落ちていった。音は、すぐには返ってこなかった。やがて、聞き取れるか聞き取れないかというほどの小さな乾いた音が、底の方から頼りなく届いた。それまでの間に、レイヴァスは息を三つ数えていた。

 

彼は身を乗り出し、眼下を見た。

 

巨大な擂鉢だった。

 

大地を穿ったというより、大地そのものが恐れて口を開けたかのような、途方もない縦穴。穴の縁から底へ向かって、壁面は緩やかにすぼまり、幾重もの輪を描いている。輪の一つひとつが階層であり、その周縁には、崖にへばりつくように無数の灯りが連なっていた。灯りは家々の窓であり、市場の篝火であり、行き交う人々の提げる明かりだった。地の底に、街があった。いや、階層ごとに一つの国が積み重なっているとでも言うべき光景だった。

 

監獄カルナヴェイル。

 

英雄を閉じ込めるために、古い迷宮の周りに築かれたという場所。その実物は、噂のどれよりも大きかった。レイヴァスは四分の一の長命種の血による鋭い目で、可能な限りの奥を覗いた。だが灯りの連なりは下へ行くほど細く、霞み、やがて闇に溶けて消えた。底は見えなかった。見えないことが、この穴の答えの全てであるように思えた。

 

風が吹き上がってきた。

 

下から上へ、穴の底から空へ向けて、絶え間ない風が吹いていた。風には土の匂いと、遠くの炉の煙の匂いと、人の暮らしの匂いが混ざっていた。何百年も前から、英雄たちはこの風に吹かれながら落ちていったのだ。落ちることを選んだ者もいれば、選ぶ余地なく落とされた者もいただろう。レイヴァスは自分がどちらの側なのかを、まだ決めかねていた。罪は本物だった。用もまた、本物だった。その二つが一つの体に収まっていることの気持ち悪さを、彼は風の中でしばらく味わった。

 

「乗れ」

 

護送の者に促され、彼は鉄の籠へ足を踏み入れた。

 

籠といっても、鳥を入れるようなものではない。人を縦穴へ降ろすための、鉄格子と厚い板で組まれた大きな昇降の仕掛けだった。四隅から伸びる太い鎖が、上方の闇の中で一つに束ねられ、軋みながら巻き上げの機へと続いている。床板は長年の昇降で擦り減り、鉄の縁は無数の手が触れた跡で鈍く光っていた。何人もの英雄が、この籠に乗って落ちていったのだろう。その誰もが、もう一度この鎖を昇って帰ることはなかった。

 

鎖が軋み、籠が沈み始めた。

 

胃の腑が浮き上がるような感覚とともに、縁の石壁がゆっくりと上へ流れていった。護送の者は二人だけ同乗し、残りは縁に残って、やがて小さくなった。籠は穴の壁面に沿って降りていく。壁は迷宮そのものの岩肌で、ところどころに古い彫りの跡や、巨大な柱の断面のようなものが顔を覗かせていた。レイヴァスは試しに、降り際ですれ違った壁へ指先を触れた。冷たく、硬く、爪の先で引っ掻いても、粉一つ落ちなかった。

 

壊れない壁だ、と彼は思った。

 

かつて何人もの囚人が、この壁を砕いて逃げようと試みたに違いない。それでも壁は壁のままであり、柱は柱のまま、天井も床も、人の絶望を受け止めるだけ受け止めて、形を変えたことがないのだという。迷宮は監獄より古い。監獄は迷宮の周りに後から築かれた殻に過ぎず、その殻の中で、人は迷宮の許す範囲でしか生きられないのだった。

 

やがて、最初の階層の周縁が近づいてきた。

 

上層だった。

 

灯りは明るく、人のざわめきは穏やかだった。周縁には整った建物が並び、広い市場の気配があった。布を広げた店先に食料や衣類が積まれ、配給の列に並ぶ人々の顔には、まだ外の世界の名残のようなものがあった。ここには刑期があり、満了すれば釈放される者がいる。地の底でありながら、最も空に近い場所。レイヴァスは格子越しにその景色を見た。ここに落とされるはずだったのだ。あの日の戦いがなければ、彼はこの灯りの中にいたはずだった。

 

籠は止まらなかった。

 

上層の灯りが上へ流れ去り、籠はさらに沈んだ。空気が、目に見えない仕方で重くなり始めたのは、その頃からだった。

 

最初は耳の奥の詰まりとして来た。高い山に登った時のそれとは逆の、沈むための圧。次に、肩に薄い布を一枚掛けられたような重さが加わった。気のせいだと思う間もなく、二枚、三枚と、目に見えない布は増えていった。レイヴァスの鋭い感覚は、この階から下の世界全体が、上の世界とは違う重さを抱えていることを告げていた。

 

そして、手首の輪が目覚めた。

 

判決の間で感じた、あの微かな吸い上げが、強くなった。輪の内側の刻みが熱を持ち、脈打つたびに、彼の内側から何かが確かな量をもって抜けていく。血ではない。力でもない。もっと奥にある、彼がこれまで人々に与えてきたはずのものの残り火のような――希望や、夢や、灯してきた未来の対価とでもいうべきものが、糸ではなく束になって、下へ、下へと引かれていった。

 

取り立て、という言葉を彼は知っていた。

 

英雄の輝きは借りものであり、監獄ではその返済が求められる。払う量は階層で決まる。上に行くほど少なく、下へ行くほど重く。彼はそれを知識として知っていた。だが知識と、自分の身から何かが抜けていく実感との間には、深い溝があった。籠が一丈沈むごとに、胸の奥が少しずつ空になっていく。空腹に似ていた。だが腹に食べ物を入れても、この空きは埋まらないだろうということが、直感で分かった。

 

彼は格子に手を掛け、体重を支えた。

 

力を封じられた身に、この重さは堪えた。膝が笑いかけ、彼は歯を食いしばって姿勢を保った。護送の者たちは、この圧に慣れているのか、平然と立っていた。いや、平然を装っているのだと、肩の張りが教えていた。彼らとて、長くはここに留まれない身のはずだった。

 

「初めては、誰でもそうだ」

 

護送の一人が、抑揚のない声で言った。

 

「深さに体が慣れるまでは、立っているのも苦しい。無理に抗うな。抗えば、余計に持っていかれる」

 

助言なのか、忠告なのか、あるいは単なる手続きの説明なのか、判別はつかなかった。レイヴァスは短く頷き、力の入れ方を変えた。受けてきた男の流儀だった。抗うのではなく、流す。圧の向きを読み、体の芯をその流れに沿わせる。すると重さそのものは変わらないのに、呼吸だけがわずかに楽になった。受けるとは、屈することではない。彼はそれを、骨身に染みた型として知っていた。

 

中層の周縁が、眼下に広がった。

 

上層よりも建物は重厚で、灯りの色にも深みがあった。鍛冶の音が遠くから響き、炉の火の赤い明滅が見えた。ここには名工の工房があり、武器を打つ音とともに、英雄たちの日々の営みが積み重なっているのだろう。市場は上層より大きく、人の流れも速かった。深い階層で掘られた素材が運び上げられ、取引され、外の世界へ送られていく。監獄の表の役割は、深部の素材の確保だという。この光景を見れば、それが建前だけではないことが分かった。ここは牢ではなく、閉ざされた一つの世界だった。

 

彼の格は、本来この中層に相当するはずだった。「英雄」。それが人々が彼に与えた名であり、外の世界で今も語られているはずの輝きだった。だが剣聖殺しの危険度が、その格の上に重くのしかかり、彼をさらに一段深くへ押し込んだ。悪名は輝きの一種だが、純粋な英雄譚より不安定で、場所によって効き目が揺れる。自分の格が今この瞬間、どれほどの重さに耐えられるのか、レイヴァス自身にも測りかねた。測る術は、落ちてみる他になかった。

 

すれ違う籠があった。

 

上へ向かう籠には、深部で掘られたという素材が山と積まれていた。見たこともない鉱石の結晶が篝火の光を受けて鈍く瞬き、獣のものらしい巨大な骨が、縄で固く縛られて積まれていた。それらは外の世界へ運ばれ、金になり、武具になり、薬になり、やがて英雄譚を潤す糧になるのだろう。監獄が何のために回り続けているのか、その一端が、昇っていく籠の重さの中に見えた。落ちる者と、昇る素材。その対比の冷たさに、レイヴァスはしばらく目を奪われた。

 

籠は中層にも止まらなかった。

 

灯りが再び上へ流れ、闇の帯を抜けると、圧は一段と増した。輪の熱はもはや微かではなかった。手首の内側が、焼けた鉄を当てられたようにじりじりと痛んだ。抜けていくものの流れも太くなった。彼は息を整え、抜けていく感覚に意識を向けすぎないよう努めた。数えれば負ける。そういう種類の消耗だと、長年の戦場の勘が告げていた。受け流し、やり過ごし、必要な時に必要な分だけ力を使う。生き延びるための呼吸を、彼は地の底への道で学び直していた。

 

「もうすぐ、境だ」

 

護送の者が言った。

 

前方の壁面に、巨大な横穴が口を開けていた。中層と下層とを分ける、関門のような場所だった。籠は速度を落とし、横穴へ向けて斜めに寄っていく。横穴の奥には、別の昇降の仕掛けが見えた。ここから先は、鎖も、籠も、護送の者も替わるのだという。下層へ降りるということは、管理する側にとっても、一つの境を越えることだった。

 

境を越えた瞬間、音が変わった。

 

上の階層のざわめきが、厚い布を隔てたように遠くなり、代わって、低く、地の底から響くような音が満ちてきた。原生の獣の遠吠えか、風の唸りか、それとも迷宮そのものの呼吸か。レイヴァスの耳は、その音の中に、獣の気配の層を感じ取った。この迷宮に罠はない。脅威は、壁でも仕掛けでもなく、ここに元から棲む獣たちだ。上でも下でも、その約束は変わらない。

 

 

新しい籠へ移され、鎖が掛け替えられた。

 

ここからの護送の者たちは、上の者たちより無口だった。革の鎧に深部の素材らしい鈍い光沢の金具を付け、目つきは鋭く、籠の床への立ち方ひとつにも地底の者の慣れがあった。彼らはレイヴァスの手首の輪を一瞥し、刻印を確認すると、互いに短く頷き合った。下層行きの新入り。剣聖殺し。その肩書きが、ここではどのように響くのかは、まだ分からなかった。

 

降下が再開した。

 

周縁の灯りは、上の階層に比べてまばらになり、色も変わった。篝火の赤、炉の橙、そして見慣れない青白い光。市場らしい広場が見えたが、人の影は警戒するように壁際を歩き、店先の品も覆いを掛けられたものが多かった。住まいの建ち方にも、守りを意識した固さがあった。下層。勇者、賢者、聖者といった格の者が落とされる場所。終身の宣告を受けた者たちが、それでも日々を営み、取引し、生きている場所。

 

圧はさらに増した。

 

もはや布の重さではなかった。水の中へ沈むような、身の周りの全てから押し込まれる圧だった。輪を通じた取り立ても、彼の予想を超えて太い流れとなり、胸の奥の空きが、はっきりと飢えの形を取って疼き始めた。彼は格子を握りしめた。力を封じられ、武器も持たない今の身で、この重さに耐え続けなければならない。耐えられなければ、どうなるのか。その答えは、まだ誰も教えてくれていなかった。だが彼の感覚は知っていた。この重さの下で空っぽになった者は、二度と元の英雄には戻れないのだということを。

 

「見ろ」

 

護送の者が顎で示した。

 

眼下の闇の中に、ひときわ大きな灯りの集積が現れ始めていた。周縁に沿って長く伸びる街並みと、その中心でひときわ高く燃える篝火の列。そして街並みの手前、壁面を大きく刳り抜いて造られた、巨大な門の輪郭が見えた。両開きの扉は閉ざされ、扉の上には古い文字が刻まれていたが、距離があり、読み取ることはできなかった。門の前には人影が点々と見え、近づく籠を見上げる気配があった。

 

彼の思考の隅で、何かが静かに疼いた。

 

深さそのものが呼んでいるような感覚だった。輪を通じて抜けていくものの流れとは別に、底の方から、彼を引き寄せる何かがあった。それは声ではなかった。光でもなかった。ただ、強い力を持つ者を奥へ誘うと噂される、この迷宮の古い性質のようなものだった。彼はそれに抗うように格子を握った。呼ばれているから行くのではない。行く理由は、自分の中にある。そのはずだった。そのはずだと、彼は繰り返し確かめた。確かめる必要があること自体が、既に何かの答えであるような気がして、彼は格子から目を逸らした。

 

下層の門だった。

 

籠はゆっくりと速度を落とし、門前の張り出しへ向けて沈んでいった。レイヴァスは手首の輪を見た。輪は熱を持ち続け、脈に合わせて光を――外へ抜けていく何かの、最後の明滅のような光を、微かに帯びていた。彼は拳を握り、開いた。力は戻らない。だが足は立つ。息は続く。それで十分だと、今は思うことにした。

 

やがて、籠が止まった。

 

鉄の床が、石の張り出しに重い音を立てて着いた。鎖の軋みが止み、代わりに門の向こう側から、ざわめきと、獣の遠い声と、金属の触れ合う音が押し寄せてきた。下層の空気は、上のどの階層とも違った。土と、煙と、血の混じらない獣の匂いと、そして英雄たちの張り詰めた気配が、濃く満ちていた。

 

護送の者が籠の格子を開けた。

 

レイヴァスは一歩、石の上に足を下ろした。その足に掛かる重さは、籠の中の比ではなかった。地そのものが、彼を引きずり込もうとしているかのようだった。だが彼は倒れなかった。受けて、流して、立った。

 

巨大な門が、低く唸って動き始めた。

 

開いていく扉の向こうに、下層の灯りが溢れていた。剣聖殺しの英雄の、終身の暮らしが始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。