失恋男に乾杯
ボイドは自分の婚約者である令嬢、エレナを見ていた。
エレナの視線の先には、ある男。
そしてその男、ユリウスもまた、エレナを見ていた。
2人は視線を交わし、クスリと笑い合っている。
ボイドはそうして幸せそうに笑うエレナを見るのが、好きだった。
この学園では、貴族の学生たちの間で「秘密の恋人」というものが流行っていた。
それは婚約者のいない学生同士が、婚約が決まるまでの間だけ、自由に恋愛を楽しむというものであった。
そして、エレナとユリウスもまた「秘密の恋人」だった。
しかも2人の仲は学園内でも「お似合い」と言われるほどの仲睦まじさであったが、エレナはボイドと婚約してしまった。
エレナとユリウスの「秘密の恋人」は終わったはずだった。
しかし、恋心とは厄介なもので、そうそう終わりにできるはずもなかったのである。
ボイドとエレナの婚約は両家が2人の意思を全く無視して取り決められたものだった。
2人の邪魔をしてしまったのは、ボイドだった。
少なくとも、ボイドはそう感じていた。
しかし、エレナはそんなことはおくびにも出さず、ボイドに対して優しい笑みを見せていた。
そんなエレナのことを、いつしかボイドは本当に好きになっていた。
これは、彼女のために身を引くと決めた、男の物語である。
…
「エレナには、秘密の恋人はいたのか?」
「え?なぁに急に」
「気になった」
教室移動中、ボイドはそれとなくエレナに尋ねた。
2人が婚約して、半年が経っていた。
ボイドは気になったというわりには、エレナを見ずにそっぽを向いている。
エレナはそれにクスリと笑って答えた。
「いたわ、流行りだったしね。でももう終わった事よ」
そう言ったエレナの目や声色から、ボイドはエレナの寂しさを感じ取った。
エレナはいつの間にか自分を真剣に見つめるボイドに気付き、少し困った顔をした。
「なに?まだ続いてるんじゃないかって思った?」
「いや…」
そうして、ボイドはまた目をそらした。
そんなボイドをエレナは可笑しいというように笑った。
ボイドは、そうして笑うエレナを、どこか寂しげな表情で見ていた。
…
ある日の学園の個室テラスで、ボイドとエレナは向かい合って座っていた。
今の季節にしては冷たい風が、2人の間に吹いていた。
エレナは温かい紅茶を飲みながら、婚約が決まってから始まった、週に1度のティータイムを過ごしていた。
「エレナ、話がある」
「ん?なぁに?」
ボイドは真剣な眼差しでエレナを見つめる。
エレナはキョトンとした顔で、ボイドを見た。
いつも、どこか後ろめたそうな顔をしているボイドが、今日はなにか決意したような顔をしていたからだ。
「そんな顔をして、どうしたの?」
「俺は、君と婚約破棄したい」
「え・・・?」
エレナの手から紅茶の入ったカップが滑り落ちた。
ガシャンと地面にぶつかり、バラバラになったカップの破片に残る紅茶が、ゆらゆらとボイドを写した。
「君のことを、俺では大切にできそうにない」
「だから、俺から、婚約破棄をさせてもらう」
「ま、待ってボイド!どうして!?」
「耐えられないだろう!」
ボイドが大声を出した。
なんだなんだと、他のテラスにいた生徒たちが2人をじろじろと見ていた。
「好きでもない奴と婚約させられたなんて!耐えられないだろう!」
「そんな…!!」
エレナはあまりのボイドの言い草に、両手で口を覆った。
学生たちはボイドの言葉に、ひそひそと噂話を始める。
しかし、ボイドはそんなことを気にもかけず、言葉をまくしたてた。
「君とは正式に婚約破棄させてもらう」
「両家の取り決めなど、知った事か」
「俺は、自由に生きさせてもらう」
「君も、好きに生きるといいさ」
「ま、待って!!」
それだけ言うと、ボイドはその場からスタスタと去ってしまった。
残されたエレナは唖然と座り込み、涙を流した。
「どうして…」と呟きながら。
その日から、学園中で「ボイドがエレナにひどい言い草で婚約破棄を言い渡した」との噂が流れた。
そうして噂には尾ひれがついていくもので、やれ殴っただの、カップをエレナに投げだのと、ありもしないことまで囁かれた。
それから数日後、噂はボイドの両親の耳にも入り、ボイドはひどく叱られ、失望され、勝手に親の決めた婚約を破棄する、女性も大事にできない、そんな息子はいらないと家を追い出された。
ボイドとエレナの婚約は、こうして正式に破棄された。
それからボイドは、1度も噂を否定しなかった。
その噂を本当か尋ねられたときには、フッと笑うだけだった。
悪い噂が流れ過ぎたせいか、ボイドは学園を退学になった。
そうしてエレナが婚約破棄になったことで、エレナよりも身分の低いユリウスがエレナの次の婚約者になることができたのだった。
そのことをエレナは、今まさに学園を去ろうとするボイドに伝えようとしていた。
「ボイド…貴方が婚約破棄を申し出たから、私はユリウスと婚約したわ…」
「そうか、それはよかったな」
エレナの言葉を聞いたボイドは、婚約破棄を言い渡す前にエレナに見せていた、優しい笑顔で言った。
エレナはその表情を見て、あることに思い至った。
「ボイド…貴方まさか!私とユリウスが秘密の恋人だったこと…!!」
「ああ、知ってた」
「どうか君が、幸せであることを祈るよ」
そうしてエレナが止める間もなく、ボイドは走り去ってしまった。
残されたエレナは、あの時と同じようにまた、座り込み、涙を流したのだった。
そこに、今度は恋人となったユリウスが現れ、エレナを抱きしめた。
…
それから8年の時が過ぎた。
学園卒業後、数年間家業の引継ぎをし、ようやくエレナとユリウスは結婚した。
今は新婚旅行で港町を訪れていた。
そこの宿の店主から、妙な噂を耳にしたのだ。
「8年前に家を追い出された貴族の店員がいる酒場の酒がうまいんですよ」
「その貴族だったやつの舌がよかったみたいでね」
「彼が選ぶ酒が最高なんですよ」
「治安はあんまりよくないですが、お忍びで覗いてみてもいいかもしれませんね」
2人は顔を見合わせた。
8年前・・・もしかすると・・・。
2人はその酒場に向かった。
酒場のドアを開くと、がやがやと強面の男たちが酒を飲んでいた。
なるほど、たしかに治安は良くないかもしれない、そうユリウスは思った。
「いらっしゃい」
エレナの耳に聞き覚えのある声が聞こえた。
ハッとそちらをみると、8年前とはずいぶん背も身なりも変わった彼がいた。
「ボイド!!」
「ボイドぉ?お嬢さんこいつはハイドだぜ!」
「そんな…いいえ!あなたはボイドよ!」
エレナはまっすぐにボイド…今はハイドと名前を変えた青年を見た。
ハイドは、困ったような顔をして、エレナに告げた。
「ボイドは、もうこの世にいない」
「俺は、ハイドだ」
「あなた方のことは知らない」
エレナは目を見開く。
そう言った彼の姿が、8年前と同じだったからだ。
「ボイド…貴方は貴族を追われて…こんなところに」
「それは違う」
「こんなところなんて言わないでくれ」
ハイドは、正面から否定した。
「たしかに、俺はボイドだった」
「でも今はハイドとして、ここにいる」
「エレナに、また会えるとは思わなかった」
「…2人は、結婚したんだな」
ハイドは、2人の左手の薬指に輝く指輪を見た。
それは、ハイドにはとても眩しく、しかし彼が望んだものでもあった。
「君たちが幸せな姿を見れて、よかった」
「なんでここに来たかはわからないけど、ここは貴族がくるような場所じゃない」
「さぁ、帰った帰った」
「待てよ!エレナはずっと…!!」
ユリウスが前に出て、ハイドを問い詰めようとした時、1人の屈強な男がズイッと3人の間に入った。
「お客さん、そういうことですので、お引き取り願えますかな?」
「…エレナ」
「ユリウス…いいの、行きましょう」
ユリウスはエレナの手を引いて、店を出ようとした。
最後にエレナが振り返り、ハイドを見つめ、口を開いた。
「ハイド、どうかあなたも幸せで…」
バタンとドアが閉まった。
ハイドは、近くの椅子に座り、静かに床を見つめた。
「俺は、十分幸せだよ。エレナ」
そう呟いて、ハイドは涙を流した。
それを見た1人の客が、ハイドに酒を渡す。
「おうおう!ハイドォ!なんかしらねーが飲め飲め!」
「そーだそーだ!失恋は飲んで忘れちまえー!」
「やめろよ!仕事中だぞ!」
「ハイド!今日はもういい飲んじまいな!」
「マスター!!」
ハイドは酔っ払いたちに囲まれ、泣き笑いながら飲んだ。
誰かがゆっくりと酒場の歌を歌い出し、1人、また1人とそれに乗った。
やがて大合唱となり、各々肩を組み、一晩中飲み明かした。
ハイドの涙は、乾いていた。
「失恋男ハイドのこれからに!かんぱ―――――い!!」
「「「「かんぱ――――い!!」」」」




