婚約破棄の理由が嘘だと証明された日、私は本当に選ばれました
私はセリナ・アルベール。伯爵家の娘で、つい先ほどまで王太子の婚約者だった。
だった、という言い方になるのは、今この瞬間、私の立場が音を立てて変わったからだ。
王城の応接間は、いつもより静かだった。壁際に控える侍女も、記録官も、誰一人として咳払いすらしない。視線が集まる中で、椅子に座ったまま、背筋を伸ばしていた。逃げ出したい気持ちはあったけれど、立ち上がれば余計に目立つと思ったからだ。目立つ行動は、だいたい後で後悔する。これまでの人生で、何度も学んできた。
正面に立つカイル王太子は、いつもと変わらない表情だった。怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。むしろ落ち着いていて、これから重要な決定を淡々と伝える、そんな顔をしている。
「セリナ・アルベール。これより、君との婚約を解消する」
その声はよく通り、感情の揺れを含まなかった。一瞬だけ息を吸い、次に吐いた。ここで声を上げれば、場が荒れる。場が荒れれば、話は別の方向に進む。そう考えてしまう癖が、私にはある。だから黙って聞く。
「理由は、王妃候補としての人格評価に関わる」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気が少しだけ張りつめたのを感じた。人格評価。王国リュミエールにおいて、それは最も重い分類だ。一度記録に残れば、後から覆ることはほとんどない。恋愛のもつれではなく、人としての欠陥だと宣告される形になる。
手を膝の上で重ねた。爪が食い込むほど力を入れてしまうと、震えが見えてしまう気がしたからだ。
カイル王太子は続ける。
「君は、妹君に対し、精神的な圧迫を与えていたと報告されている。私室で繰り返し責め立てる行為があったと」
その場に、低いざわめきが走る。誰かが驚き、誰かが納得したような気配が混じる。私は俯かなかった。俯けば、認めたように見える気がしたからだ。かといって、強く否定する勇気も出てこない。否定すれば、証拠を出せと言われる。証拠を出せなければ、嘘つきだと言われる。そうなる展開が、頭の中で簡単に想像できてしまう。
「以上の点から、君は王妃として相応しくないと判断した」
その言葉で、宣告は終わった。簡潔で、整っていて、反論の余地がないように聞こえる構成だった。もっともらしい。だからこそ厄介だ。
記録官がペンを走らせる音が、やけに大きく聞こえた。あの紙に書かれた内容は、今日の出来事として、公式に残る。私が何を言おうと、言うまいと、その記録が独り歩きする。
口を開きかけて、閉じた。何か言わなければ、このまま終わる。分かっている。それでも言葉が出てこなかった。ここで声を張り上げれば、妹の名が出る。妹の名が出れば、彼女はさらに庇護される。争いの中心になるのが怖かった。怖いというより、収拾がつかなくなる光景が目に浮かんでしまった。
「異議はないのか」
カイル王太子が問いかける。その声には、確認するような響きがあった。首を横に振ることも、縦に振ることもできず、ただ視線をまっすぐ返した。
「……ございません」
喉が少しだけ引きつった。それでも、声は出た。これ以上、場を長引かせたくなかった。長引けば、誰かが感情的になり、話が逸れる。逸れた先で、きっと不利になる。そう思ってしまった。
その一言で、すべてが決まった。
婚約は解消された。人格評価に基づく断罪として。
応接間を出たあと、廊下の窓から差し込む光がやけに眩しかった。足元が少しふらついたが、壁に手をつくほどではない。泣きそうになったけれど、ここで泣けば、誰かに見られる。見られれば、同情されるか、面白がられるか、そのどちらかだ。
私は伯爵令嬢だ。感情を垂れ流す立場ではない。そう言い聞かせて、歩き続けた。
ただ一つ、胸の奥で小さく、しかしはっきりと残っている感覚があった。
何もしていない。
その事実だけが、妙に重く、私の中に沈んでいた。
◇
婚約破棄から数日が過ぎた。王城の中は、表向き何も変わらない。人はすぐ次の話題を探し、昨日の出来事を「処理済み」にする。だからこそ、あの宣告も、すでに終わった話として扱われ始めていた。
その流れに逆らうような場所が一つだけある。記録保管室だ。
王城の奥、石壁に囲まれた静かな部屋で、レオン・グラントは机に向かっていた。彼は侯爵家グラントの当主でありながら、王城では文官として記録業務に就いていた。
会議に呼ばれることもなく、決定に関わることもない。ただ、決定された事柄を紙に残し、整理し、次に引き渡す。それが彼の役目だった。
今日の仕事は、先日の婚約破棄に関する一連の書類をまとめることだった。王太子の宣言文、記録官の筆録、関係部署への通達写し。それらを時系列順に並べ、保管用の束にする。
単調な作業だ。だからこそ、彼は細部を見る。仕事として慣れているから、というだけではない。文字と日付がずれる感覚が、どうにも気持ち悪いのだ。合わないものは、合うまで並べ直したくなる。
彼は一枚の紙で、手を止めた。
婚約破棄理由に添付された補足資料。妹君からの申告内容を要約した文書だ。そこに書かれている日付に、彼は視線を戻した。
「……この日、か」
声に出すつもりはなかったが、喉が勝手に動いた。
その日付は、別の束で何度も見たことがある。王城外の修道院に関する往復文書だ。確か、伯爵令嬢セリナ・アルベールが滞在していた期間と重なる。
偶然だろうか。そう思って、彼は隣の棚から別の箱を引き出した。修道院関係の書類は、すでに整理済みだ。日付順に並べられている。
該当する日を探し、彼は指を止めた。
「……いるな」
そこには、確かにセリナ・アルベールの名前があった。滞在開始と終了の日付。同行者の欄には侍女の名。署名も揃っている。
彼は眉をひそめた。妹君の申告では、その日は王城内の私室で姉から責め立てられたことになっている。同じ日に、同じ人物が、二つの場所にいることになる。
彼は椅子にもたれず、すぐ次の書類を探した。修道院宛の往復文書。発送日、到着日、返送日。それらも、滞在記録と噛み合っている。
この段階で、彼は確信めいたものを持った。だが、それを口にする相手はいない。彼は判断する立場ではない。判断材料を整える立場だ。
だから、確認する。
彼は追加でいくつかの箱を開けた。侍女の配置表、勤務日誌の写し。該当日を抜き出して並べる。作業は淡々としていたが、内側では引っかかりが膨らんでいく。
人格評価に基づく婚約破棄。その重さは、文官である彼も知っている。だからこそ、その根拠が事実かどうかは、曖昧なままにしてはいけない。
「合わないな」
今度は、はっきり声に出た。
彼は誰かを庇おうとしているわけではなかった。セリナ・アルベールと親しいわけでもない。婚約中に、廊下ですれ違った程度だ。挨拶を交わした記憶も、曖昧なくらいだ。
それでも、紙の上に並んだ情報が、同じ形をしていない以上、そのまま束ねる気にはなれなかった。
彼は新しい紙を取り出し、日付と出来事を書き出し始めた。感想や推測は入れない。ただ、どの記録に何が書かれているかを整理する。
時間がかかる作業になることは分かっていた。けれど、ここで手を止めれば、この違和感は誰にも見つからないまま消える。それは、記録を扱う者として、どうにも落ち着かない。
レオン・グラントは、静かにペンを走らせ続けた。
まだ、この時点では確信と呼べるものはない。ただ、確かめる価値があると感じただけだ。
それだけで、彼には十分だった。
◇
婚約破棄からしばらく経っても、私の生活は驚くほど変わらなかった。変わったのは立場だけで、朝は来るし、食事も運ばれる。使用人たちの態度が少しだけ慎重になったのは、私がどう反応するか分からないからだろう。気まずさは伝わってくるけれど、腫れ物に触るような扱いをされるよりは、まだましだと思っていた。
屋敷の庭を歩きながら、頭の中で何度も同じ場面を思い返していた。王城の応接間、淡々と読み上げられた宣告、あの静けさ。あれが公式記録として残っている以上、今さら私が何を言っても意味はない。そう考えることで、これ以上考え込まないようにしていた。
◇
変化が起きたのは、私の知らない場所だった。
数日後、伯爵家に一通の連絡が届いた。差出人は王城文官部。内容は簡潔で、「婚約破棄記録の一部について確認が必要」とだけ書かれていた。理由は記されていない。
その紙を手に取って、しばらく眺めていた。胸がざわついたが、期待はしないようにした。期待すれば、裏切られた時に余計につらくなる。そういう展開も、これまで何度も経験している。
指定された日時に王城へ向かうと、通されたのは見覚えのある建物の奥だった。応接間ではなく、書類保管に使われる一室。そこにいたのは、王太子でも重臣でもない、若い文官だった。
「セリナ・アルベール様ですね」
落ち着いた声だった。名乗られた名前は、レオン・グラント。役職は低いと聞かされたが、態度は必要以上に卑屈でも高圧でもない。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「いくつか、日付の確認をさせてください」
彼はそう前置きして、紙を一枚差し出した。修道院の宿泊名簿だった。視線を落とし、すぐに内容を理解した。そこに書かれている日付は、例の「私室で妹を責め立てた」とされている日と同じだった。
「この期間、こちらに滞在されていましたね」
問いかけは穏やかだった。詰問する調子ではない。だから、正直に頷いた。
「ええ。体調を崩した侍女の付き添いで」
その時のことは、よく覚えている。だからこそ、あの宣告を聞いた時に、胸の奥で何かが引っかかっていた。その日、王城にいなかった。いなかったから、妹と顔を合わせることもなかった。
レオンは別の書類を重ねる。往復文書の控え、同行した侍女の署名。すべて同じ日付で揃っていた。
「こちらも一致しています」
彼は淡々と告げる。そこに評価や感想は混ざらない。ただ、事実が並べられる。
思わず、指先を握りしめた。同じ日に、同じ人物が、二つの場所にいることはできない。それは、誰にでも分かる単純な話だ。
「つまり……」
言葉が途中で止まった。続けてしまえば、希望を口にすることになる。それを怖れていた。
「はい。場所的に成り立ちません」
レオンは、私の代わりに結論を口にした。声は変わらない。けれど、その一言で、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ動いた。
何もしていない。その感覚が、初めて外から裏付けられた気がした。
それでも、まだ確定ではない。そう自分に言い聞かせる。ここで気を緩めれば、また足元をすくわれる。慎重でいなければならない。
「他にも確認を続けます」
レオンはそう言って、書類をまとめた。私に期待を持たせないためだと、なんとなく分かった。だから礼を述べただけで、余計なことは言わなかった。
部屋を出たあと、廊下の窓から差し込む光が、あの日ほど眩しく感じなかった。世界はまだ変わっていない。けれど、完全に閉じていた扉に、細い隙間ができた気がした。
その隙間を、無意識のうちに、何度も思い返していた。
◇
王城から戻ったあと、落ち着かない時間を過ごしていた。期待しないようにしているつもりでも、頭の中では同じ考えがぐるぐる回る。もし、もしもだ。あの記録が間違いだと示されたら、どうなるのか。考え始めると、止まらなくなるから、庭に出たり、本を開いたりして、無理に意識を逸らしていた。
それでも、数日後に再び王城から呼び出しが来た時、胸が大きく跳ねた。手紙を持つ指に力が入り、紙が少し歪んだ。期待しない、期待しない、と自分に言い聞かせながら支度をするのは、正直かなりしんどい。
◇
今度通された部屋も、前回と同じだった。レオン・グラントは、すでに机に資料を並べて待っていた。顔を上げて私を見ると、軽く一礼する。
「追加で確認したい点があります」
その言い方が、やけに事務的で助かった。大げさな前置きがあれば、こちらの心構えが追いつかない。
彼が差し出したのは、妹の申告内容をまとめた文書だった。視線を落とし、そこに記された言葉を追う。読んだことのある内容なのに、今日は妙に引っかかる。
「この部分です」
レオンが指で示した箇所を見て、思わず瞬きをした。
妹が私から言われたと主張している言葉。その中に、ある予定の話が含まれている。王城行事の配置変更。日程の確定。それは、私も後から知った内容だった。
「これ……」
喉の奥が、少し詰まった。その予定が決まった日のことを覚えている。侍女たちが慌ただしく動き、知らせが回ってきたのは、問題の日付より後だった。
「この予定が正式に決まったのは、こちらの日です」
レオンは別の紙を並べる。日付が明確に書かれている。通達文の写しだ。
言葉を失った。妹の申告では、その予定を前提にした会話が、もっと前に交わされたことになっている。順番が合わない。知り得ないはずの情報が、先に出てきている。
「時間の並びが、逆です」
レオンは淡々と告げた。責める調子ではない。ただ、事実を置くだけの声だ。
思わず、机の端を握った。頭の中で、ばらばらだった点が、急に一本の線になった気がした。偶然では済まされない。勘違いで片づけるには、無理がある。
「私は……」
言葉が溢れそうになって、慌てて口を閉じた。ここで感情をぶつけても、何も変わらない。変わるのは、記録だけだ。そう分かっているのに、胸の奥が熱くなる。
「確認は、ここまでです」
レオンはそう言って、書類をまとめた。彼は私を見ない。見る必要がない、という態度だった。それが不思議と心地よかった。
「これも、事実として扱われますか」
私が尋ねると、彼は一瞬だけこちらを見た。
「記録に基づいています」
それだけだった。でも、その一言で十分だった。
部屋を出たあと、立ち止まって深く息を吸った。胸の中で、何かが確実に崩れていく音がした。それは、私が悪いのだと、自分に言い聞かせてきた考えだった。
言えなかった。黙ってしまった。それは事実だ。けれど、なかった出来事を、あったことにされる筋合いはない。
そう思えた瞬間、視界が少しだけはっきりした。
◇
王城から戻ったあと、不思議な感覚に包まれていた。安心とも違うし、解放とも言い切れない。長い間、胸の内側に貼りついていた紙が、端からゆっくり剥がれ始めている。そんな感じだ。ただ、完全に剥がれきるまでは、手を離してはいけないとも思っていた。途中で油断すれば、また元に戻る。それは避けたかった。
数日後、三度目の呼び出しが届いた。文面は前と同じく簡潔で、余計な期待を煽らない。だから、必要以上に考え込まず、支度を整えた。こういう時、気持ちを高ぶらせすぎると、ろくなことにならない。
◇
部屋に入ると、レオン・グラントは机に複数の冊子を並べていた。前回より量が多い。紙の束を見ただけで、胸が少しざわついた。
「勤務日誌です」
彼はそう言って、冊子の一つを開いた。侍女たちが日々の業務を記したものだ。誰が、どこで、何をしていたか。それが淡々と書かれている。
その形式をよく知っている。貴族の屋敷でも同じような日誌が使われているからだ。だからこそ、そこに嘘を書くことの重さも分かる。一人が誤魔化しても、他が合わせなければ成立しない。
「問題の日の分を、すべて確認しました」
レオンの声は、相変わらず落ち着いている。机の上には、複数の侍女の日誌が開かれていた。視線を移し、同じ時刻の記述を追った。
そこに書かれている内容は、驚くほど揃っていた。
妹は泣いていた。
部屋に籠もり、侍女が交代で付き添っていた。
姉の姿は確認されていない。
何度読み返しても、その構図は変わらない。喉の奥が、きゅっと縮むのを感じた。妹が泣いていたこと自体は、否定しない。けれど、その場に私がいたことにはなっていない。
「全員一致です」
レオンは淡々と告げる。声に力は入っていない。だからこそ、逃げ場がない。
椅子の背に、ゆっくり体を預けた。頭の中で、これまでの出来事が繋がっていく。場所が合わない。時間が逆転している。そして、第三者の記録が揃っている。
偶然では済まされない。そう判断するだけの材料が、もう十分に積み上がっていた。
「これで……」
言いかけて、言葉を止めた。続きを口にするのが、少し怖かった。ここまで来ても、どこかで裏切られる気がしてしまう。
「虚偽の可能性が高い、という整理になります」
レオンが、私の代わりに結論を述べる。感情を排した言い方だった。それが、今はありがたい。慰めや同情を向けられると、かえって自分が弱くなる気がした。
深く息を吸い、ゆっくり吐いた。胸の奥で、ずっと絡まっていた糸が、ほどけていく感覚がある。
「私、あの日のことを、何度も思い返していました」
気づけば、口が動いていた。止めようと思ったのに、止まらなかった。
「何か言い方を間違えたのか、態度が悪かったのかって。そう考えないと、納得できなかったからです」
レオンは何も言わず、聞いている。遮られないというのは、こんなにも話しやすいものなのかと、少し驚いた。
「でも……」
日誌に視線を落とした。
「いなかった場所で、したことにされるのは、さすがに……」
それ以上は言えなかった。言葉にしてしまえば、溜め込んでいたものが一気に溢れそうだったからだ。
レオンは日誌を閉じ、書類を整えた。
「これらは、まとめて提出します」
その一言で、十分だった。私は頷いた。もう、私が何かを証明しようとする段階ではない。事実は、紙の上に揃っている。
部屋を出たあと、しばらく廊下に立ち尽くしていた。胸の奥に、静かな熱が残っている。怒りとも違う、悔しさとも違う。ただ、自分が否定され続けてきた時間が、ようやく終わりに向かっていると分かった。
泣いていたのは、妹だった。
そこに、私はいなかった。
その単純な事実が、こんなにも重く、そして確かなものになる日が来るとは思っていなかった。
◇
結果が出るまで、思ったより時間はかからなかった。
それは、感情や解釈を挟む余地がなかったからだと思う。紙の上に並んだ事実は、誰が見ても同じ形をしていた。
王城の会議室に呼ばれた時、以前ほど足が重くならなかった。逃げたい気持ちが消えたわけではないけれど、逃げても意味がないと分かっていたからだ。ここまで来た以上、最後まで見届ける必要がある。
部屋に入ると、カイル王太子がいた。あの応接間で見た時と同じ顔だ。ただ、決定的に違う点が一つあった。視線が、私を避けていない。
机の上には、レオンがまとめた報告書が置かれていた。分厚くはない。余計な言葉がないからだ。
重臣の一人が、内容を読み上げる。
滞在記録。
時系列の矛盾。
第三者の日誌。
どれも、私の感情には触れない。ただ、起きたことと、起きていないことを分けていくだけだ。
「以上により、婚約破棄理由とされた行為は成立しない」
その言葉が出た瞬間、胸の奥で、何かが切れた。張りつめていたものが、音もなくほどけていく。
続けて告げられたのは、訂正内容だった。
人格評価に基づく婚約破棄は不当。
虚偽の証言を根拠にした断罪。
記録は修正され、私の名前の横に残る評価は、真逆の意味を持つものに変わる。
カイル王太子は、しばらく沈黙したあと、私に向き直った。
「……確認を怠った」
それだけだった。謝罪として十分かと問われれば、足りない。けれど、私にとって大事なのはそこではない。彼に理解してほしかったわけではなかった。ただ、事実が事実として扱われることを望んでいただけだ。
会議が終わり、人が散っていく中で、私は立ち上がった。足は、ちゃんと前に出た。
会議室を出てすぐ、廊下の空気がざわついていた。さっきまで閉じられていた扉の前に、伝令の文官が二人走り込んできて、重臣たちに紙束を渡している。言葉は聞こえないのに、表情だけで分かった。もう、王城の中で止められる話ではない。
足を止めた。見届けるつもりはなかったのに、身体が勝手に動かなかった。ここで背を向けたら、また「処理済み」にされる気がしたからだ。
少し遅れて、カイル王太子が廊下へ出てきた。いつもの整った足取りのはずなのに、今日は靴音が妙に乱れていた。視線が落ち着かない。周囲の貴族たちが一斉に頭を下げるのではなく、遠慮のない好奇心で見つめている。
重臣の一人が声を張った。
「王太子殿下。王命により通達します。先日の婚約解消については記録を訂正し、根拠となった申告は虚偽の可能性が高いとして扱う。関係者の処分はこの場で告知する」
廊下が一瞬、水を打ったように静まった。
カイル王太子の肩が、ほんのわずかに跳ねた。彼は反論しようと口を開きかけ、すぐ閉じた。廊下の端に立つ記録官が、すでに新しい紙を構えているのが見えたからだ。言葉にすれば、また記録になる。
「併せて、王太子殿下は監督不行き届きとして、当面の公務を制限する。外向けの式典への出席も取りやめ。今後の判断は国王陛下直轄とする」
ざわめきが堪えきれず、波のように広がった。
私は見た。カイル王太子の喉が動き、目が揺れた。あの応接間で、こちらの息を奪った淡々とした声は出てこない。かわりに、乾いた息だけが漏れた。
「……そんな」
聞こえるか聞こえないかの小さな音だった。
そこへ、もう一つの足音が重なった。軽く、速く、けれど焦りが滲んでいる。
妹だ。私の妹は、侍女に支えられながら廊下に入ってきた。顔は蒼白で、目元だけが赤い。泣いた痕だ。いつもならその姿だけで周囲の同情が集まる。けれど今日は違った。視線が、針のように突き刺さっている。
重臣が紙をめくる音がした。
「申告者について。王家の名を利用し、虚偽の申告で伯爵令嬢セリナ・アルベールに不名誉を負わせた。これは王城の秩序を乱したとして重大。よって申告者は王城出入りを禁ず。保護名目のもと、修道院へ移送し、外部との接触を制限する」
妹の口が開いた。声にならない息だけがこぼれた。侍女の腕から力が抜け、その場で膝が折れそうになる。支えがなければ倒れていた。
「ちが……私は……」
言葉にならない言葉が、何度も空気を掻いた。けれど、誰も助け舟を出さない。助ければ自分の足元が濡れる、そういう距離の取り方が、この廊下には満ちていた。
カイル王太子が妹を見た。見て、そして信じられないものを見るように目を逸らした。あの人は今、自分の手で作った筋書きが崩れる音を聞いている。私を切り捨てた瞬間の確信が、逆流して首を絞めている。
周囲の貴族たちが囁く。
「人格評価だと、あれほど言い切ったのに」
「記録が残るのよ、こういうのは。今度は殿下のほうに残る」
「王太子殿下は、誰を守ったのかしらね」
その囁きは、私の耳にも届いた。届いてしまう程度の大きさで、わざと流されている。
妹が、私のほうへ視線を投げた。泣き顔のまま、助けてと言っているように見えた。昔なら、その目に負けていた。私が悪くなくても、場を丸くするために引いた。けれど今日は、引く場所がない。一歩も動かなかった。
重臣が最後に言い切る。
「以上をもって、先の婚約破棄に伴う非は伯爵令嬢セリナ・アルベールにない。名誉回復は王城として公的に保証する」
保証。たった二文字の重さが、私の胸を静かに押し広げた。
その場で、カイル王太子が一歩下がった。後ろに壁があるのに、さらに下がろうとして足が止まる。逃げ道がないと気づいた顔をした。かつて私が味わった、あの居場所のなさが、今は彼の肩に乗っている。
妹は、侍女に引かれるようにして廊下の外へ消えた。泣き声は最後まで上がらなかった。上げられなかったのだと思う。ここではもう、泣いても守られない。
その背中を見送った。勝った気分にはならない。けれど、これでようやく終わったと分かった。私の名前を汚した言葉が、私のいないところで勝手に育った時間が。
そして、私を切り捨てた人たちが、その言葉ごと崩れる瞬間が。
◇
その後、呼び止められた。
振り返ると、レオン・グラントが立っていた。
「お時間、少しいいですか」
頷いた。彼に対して、身構える必要がなかったからだ。
人のいない回廊で、彼は一礼した。
「時間がかかりました。あなたが黙っていた分、確認する量が増えました」
責める調子ではない。事実を述べているだけだ。
思わず笑ってしまった。
「ええ。本当に、その通りです。言えばよかったんです。でも……言えなかった」
口に出してみると、妙にすっきりした。これまで、誰にも言えなかった言葉だ。
「争いになるのが怖かったんです。誰かが泣けば、私が悪者になるのが、いつもの流れでしたから」
レオンは少し考えてから、言った。
「だから、私が確認しました」
それだけだった。
でも、その一言が、胸に深く刺さった。
しばらくして、不当に断罪された令嬢として扱われるようになった。噂の向きが変わるのは早い。けれど、それに振り回される気力は、もう残っていなかった。
変わったのは、私自身だ。
数週間後、レオンが正式に訪ねてきた。伯爵家の応接間で、彼は背筋を伸ばして言った。
「結婚を前提に、お付き合いしていただけませんか」
あまりに真っ直ぐで、思わず目を瞬いた。
「……ずいぶん、唐突ですね」
「そうでしょうか」
彼は首を傾げる。
「あなたは、何もしていないのに、間違っていると決めつけられた。それを見過ごせなかった。それだけです」
派手な言葉はなかった。甘い台詞もない。
それなのに、胸がじんわり熱くなる。
「私……」
言葉が溢れそうになって、止まらなかった。
「あなたが、最初に私を信じてくれた人です。信じる前に、ちゃんと見てくれた」
それを口にした瞬間、視界が滲んだ。でも、俯かなかった。今度は、逃げたくなかった。
レオンは、少しだけ照れたように笑った。
「なら、これからは、選ばれる側ではなく、一緒に選びましょう」
はっきり頷いた。
嘘で切り捨てられた人生は、事実によって救われた。
そして、その事実を見てくれた人と手を取る。
あの日、選ばれなかった私が。
今日、確かに選ばれた。
それで十分だと思えた。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




