【5-2】食卓の死角
セダンが、西東京の閑静な住宅街にある、古びた一軒家の車庫に滑り込んだのは、午後九時を回った頃だった。
重い体を引きずり、玄関のドアを開ける。
廊下の奥から漏れる暖色系の明かりと、出汁の香りが、冷え切った神経を優しく撫でる。
「おかえりなさい、あなた。お疲れ様」
妻の美沙子の穏やかな声。
大山は自室で窮屈なスーツを脱ぎ捨て、首元の伸びたスウェットに着替えた。
それだけで、刑事という重い鎧をようやく下ろせた気がした。
リビングのテーブルには、湯気を立てるカボチャの煮付けと、焼き魚が並んでいる。
大山が指定席の座椅子に腰を下ろすと、二階からドタドタと慌ただしい足音が響き、勢いよくドアが開いた。
「ごっめーん! 課題終わんなくて!」
飛び込んできたのは、大学二年生になる一人娘の遥だ。
「遥、またそんなギリギリまで。ご飯、冷めちゃうでしょ」
「だーって、教授が鬼なんだもん! あ、お父さん、おかえり!」
三人が食卓を囲み、「いただきます」と手を合わせる。
他愛のない会話。テレビのバラエティ番組の笑い声。美沙子が作る、何の変哲もない家庭料理。
この「当たり前の日常」こそが、大山が泥を啜ってでも守りたいものだった。
だが今夜は、その温かさの中にいても、胸の奥の氷が溶けない。
「……そういえば、お前ら」
大山は、白飯をかき込みながら、努めて何気ない調子で切り出した。
「磐座 護って男、覚えてるか?」
その名前に、食卓の空気が一瞬、止まった。
「護くん? ええ、覚えてるわよ」
美沙子が箸を止め、懐かしそうに目を細める。
「あんなに大きくて、熊さんみたいで……でも、笑うと子供みたいな顔をする子でしょう? 忘れるほうが難しいですよ。昔、一度だけ署のバーベキューに連れてきたじゃない。あの子、一人でコンロ三台くらい占拠して、ずっとみんなのためにお肉を焼いてくれてたわねぇ」
「そうそう! 超懐かしい!」
遥が身を乗り出した。
「護、マジでカッコよかったよね! あの時、私が川で足滑らせたのを、片手でひょいって助けてくれてさ! マジで王子様かと思ったもん」
「……お前、あの時、あいつに惚れてたもんな」
「ち、違うわよ! ただの憧れ! っていうか、お父さん、なんで急に護の話なんかするの? まさか……」
遥の瞳が、期待に輝いた。
「護、見つかったの!?」
「……いや。本人は、まだだ」
大山は言葉を濁し、茶を啜った。
「だが、護の娘が、見つかった」
「「えっ、娘!?」」
二人の声が重なった。
「護くんに……子供が……?」
美沙子の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「まあ……! そう、そうなの……あの子、ちゃんと生きて、家庭を築いていたのね……! ああ、よかった……! 本当によかった……!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
遥が混乱したように叫ぶ。
「娘って……! え、護、結婚してたの!? いつの間に!? っていうか、相手は誰!? 母親は誰なのよ!」
「……それは、分からん」
大山は短く答えた。
「だがな、護ほどの男が、自分の娘を放っておくような、そんな無責任な真似をするとは思えん」
「そうねぇ……」
美沙子も涙を拭いながら頷く。
「護くんって、いつもガキ大将みたいだったけど、誰かが困っていると一番に駆けつけてくれたものね。そんなイメージ、無いわねぇ」
「まあ、頭は驚くほど悪かったけどね」
遥が憎まれ口を叩きながらも、その表情は柔らかかった。
「でも、優しかった。……そっか、護、パパになったんだ……」
その時、テレビ画面が切り替わり、例の不倫議員の話題に戻った。
『親子二代で不倫! まさに蛙の子は蛙!』という下世話なテロップが踊る。
それを見た遥が、ふと、独り言のように呟いた。
「……そういえばさ。護のお父さんとかお母さんって、どんな人だったんだろうね? お父さんも、やっぱり護みたいに、すっごく大きかったりして」
その、娘の何気ない一言が、大山の脳天を、ハンマーで殴りつけたかのように揺さぶった。
(……そうだ。護の、親……?)
十二年前、護が失踪した時も。
和樹が必死に捜索願を出していた時も。
一度たりとも、彼の「親」や「親族」が現れることはなかった。
施設育ちだということは知っていた。
だが、その「経緯」までは、深く考えたこともなかった。
「……お父さん、何か知らないの?」
「……いや。そういえば、詳しく調べたことはなかったな……」
大山は喉の渇きを覚え、茶を飲み干した。
「確か、養護施設の芳江社長からは、『警察から、赤ん坊の時に預かった』としか聞いていなかったような……」
「ふーん。そうなんだ」
遥はすぐにテレビに興味を戻したが、大山の中には、消えることのない火種が残された。
「護の親」という、新たな、そしてあまりにも巨大なミッシング・リンクが、黒い口を開けて待っている気がした。
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