【4-2】小さな約束と、脆い枷
あやめとの生活も、微妙な変化を見せていた。
和樹の狭いアパートでの「二人暮らし」は、相変わらずだ。和樹は、慣れない手つきで、朝はあやめの髪を三つ編み(という名の、ただの縄)にし、夜は仮面ライダーの図鑑を読み聞かせる。
その繰り返しが、奇妙に救いでもあった。手順がある。ルールがある。やれば終わる。――事件には、それがない。
あやめは、あの事件の後、自分の「力」が、和樹を困らせるものだということを、子供ながらに察していた。
だから余計に、静かになった。大人が一番怖いのは、子どもが遠慮を覚える瞬間だ。
「…おじさん。アヤメ、わるいこ、だった…?」
テレビのヒーローが怪人を倒すシーンを見て、あやめが、不安げに和樹の服の裾を掴んだ。
「なんでだ?」
「…だって、キックしたら、おじさん、こわいかお、した」
和樹は、胸が締め付けられる思いで、あやめの小さな頭を、乱暴に撫で回した。撫で方が雑なのは、優しくすると自分の声が震えそうだったからだ。
「馬鹿野郎。お前は、悪くない。お前は、明美おばちゃんと、タケおじちゃんと、生まれてくる赤ちゃんを助けたんだ。お前は、パパと同じ、『ヒーロー』だ」
「…ヒーロー?」
「ああ。だがな、ヒーローってのは、目立っちゃいけねえ時もあるんだ。お前のその『キック』は、強すぎる。だから…おじさんが『いいぞ』って言うまで、人前で使っちゃダメだ。分かったな?」
「…うん。やくそく」
和樹は、再び「約束」という名の、脆い枷を、この五歳の少女にはめた。守らせるための言葉が、いつも首輪みたいに聞こえる。けれど、他に方法を知らない。
(護…お前なら、こんな時、どうしたんだろうな)
答えのない問いが、タバコの煙と共に、夜空に吸い込まれていく。
そんな歪な平穏を、一本の内線電話が、あっけなく切り裂いた。
『堂島か。部長室まで、すぐに来い』
受話器から聞こえてきたのは、本富士署署長に次ぐ実質的ナンバーツー、生安の部長、大山の、ドスの効いた低い声だった。
和樹は、受話器を置いた手で、思わず額の汗を拭った。冷や汗は、乾く前に次が出る。
大山 剛。
元・捜査一課の叩き上げ。和樹が士官学校を出たばかりのヒヨッコだった頃、捜査のイロハを叩き込まれた、鬼軍曹のような男。そして――和樹と護が高校生だった頃、所轄の刑事として、護が起こす他校との喧嘩のたびに、その現場に現れては、二人まとめてゲンコツを食らわした、恩師とも言える人物だった。
(…大山さん?なぜ、今…)
嫌な予感しかしない。
大山部長は、和樹が、署内のデータベースに不正アクセスし、護の失踪事件を個人的に追い続けていることを、黙認してくれている、数少ない理解者の一人だった。その大山さんが、俺を呼ぶ。
理解者に呼ばれるのは、助け舟か、取り立てか。そのどちらも、覚悟がいる。
部長室の重いドアをノックする。
「…失礼します。生活安全課、堂島です」
「おう。入れ」
部屋の中は、大山の趣味である古いジャズのレコードが、低く流れていた。針の擦れるノイズが、妙に落ち着く。彼は、デスクで山のような書類に目を通しながら、和樹に一瞥もくれずに言った。
「堂島。例の『奇跡の事故』。お前、現場にいたそうだな」
「…はい。非番でしたが、偶然、知人のパーティーで」
「そうか」
大山は、ペンを置くと、椅子を軋ませながら、和樹に向き直った。その顔は、深いシワが刻まれ、長年の刑事稼業の疲労が滲んでいたが、瞳の奥の光だけは、若い頃と変わらず、鋭く輝いていた。
目は嘘を嫌う。嘘が嫌いだから、嘘を見抜く。
「提出された報告書と、現場の状況があまりにも違いすぎる。鈴木と佐々木…お前のダチの証言も、武田の証言も、揃いも揃って、『突風が吹いた』だぁ?」
「……」
「堂島。俺を、誰だと思ってる」
大山は、立ち上がると、窓辺に歩み寄り、ブラインドの隙間から、下の往来を眺めた。
「俺が、お前らのケツを何回拭いてやったと思ってる。護が、他校の連中、三十人近く病院送りにした時も、あれを『喧嘩両成敗』で収めたのは、誰だ?」
「…大山さん、です」
「そうだ。…お前が、何かを隠してる時、お前は、昔からそうやって、黙り込む」
大山は、和樹を振り返った。
「…磐座 護の、娘。あの子が、何か関係してるんだな?」
和樹は、図星を突かれ、息を呑んだ。刑事の勘、というには、あまりにも鋭すぎる指摘だった。
「……」
大山は、大きなため息をつくと、「来い。タバコ、付き合え」と、和樹を促した。
それは尋問じゃない。だが、助け舟とも言い切れない。和樹は、胸の奥の何かが、ゆっくり冷えていくのを感じた。
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