【4-1】薄氷の上の生活
日常は、薄氷の上にある。
堂島和樹は、この数週間、その脆い氷の上を、息を殺して歩くような感覚の中で生きていた。足を置くたびに、見えない亀裂が広がっていく気がする。音はしない。ただ、胸の奥だけが軋む。
あの日――磐座あやめが、その五歳の小さな体で、暴走する軽トラックを蹴り飛ばした「事件」。それは、和樹の人生において、決定的な転換点となった。
奇跡的に、武田の妻・明美は打撲と早期の陣痛だけで済み、病院で無事に男の子を出産した。トラックの運転手も、横転による骨折だけで命に別状はなかった。問題は、「目撃者」だった。
パーティー会場の窓に張り付いていた、護を知る数十人の友人たち。そして、交差点にいた無数の野次馬。視線という刃は、傷をつけるまで止まらない。
和樹は、本能的に「警察官」の仮面を被った。現場に駆けつけた同僚たちを前に、自ら率先して「現場指揮」を執り、混乱を収拾した。身体が先に動いた。考える前に、役割に戻る。それしか生き延びる方法を知らない。
「鈴木!救急車は!」
「佐々木!野次馬を下がらせろ!二次被害が出るぞ!」
混乱の渦中、彼は親友たち――武田、鈴木、佐々木――の三人を呼び寄せ、ただ一言、血の滲むような声で告げた。
『…頼む。今、見たことは、全部忘れてくれ』
武田は、生まれたばかりの息子の無事と、目の前で起きた奇跡に、まだ震えが止まらない様子だった。
『カズキ…あれは、一体…』
『事故だ』
和樹は、親友の目を真っ直ぐに見据えて言った。
『原因不明の、突風。あるいは、小規模なガス爆発だ。それ以外、俺たちは何も見ていない。…護のために。あやめのために』
三人は、その和樹の瞳に宿る、悲痛な覚悟を読み取った。彼らは、ただ黙って、深く頷いた。磐座護という太陽のような男が繋いだ絆は、十二年の時を経ても、なお強固だった。
彼らはその瞬間、和樹とあやめの「共犯者」になることを選んだ。選んだというより、選ばされたのかもしれない。だが、誰もそれを口にしない。
結果として、佐々木のマスコミへのリークもあり、事件は「原因不明の局所的な突風、あるいは道路の陥没による、奇跡的なトラック横転事故」として処理された。運転手も「何が起きたか覚えていない」と証言し、公式な捜査は、早々に打ち切られた。
帳尻は合った。世間は納得した。――それで終わる話なら、和樹は今ごろ眠れている。
だが、和樹の日常は、もう元には戻らなかった。
警視庁本富士署、生活安全課。和樹が自分のデスクに戻ると、署内の空気が、明らかに変わっていた。同僚たちは、彼を遠巻きに見ている。「奇跡の事故」の第一発見者であり、被害者(武田)の親友でもある和樹に対し、好奇と、どこか得体の知れないものを見るような視線が突き刺さる。
人は理解できないものに、優しくなれない。
「よぉ、堂島。お前、とんでもないモン引き当てたらしいな」
嫌味な先輩、田村が、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
「『突風』だぁ?お前、いつからオカルトマニアになったんだよ」
「…事実です。報告書の通りですよ」
「へえ。まあ、いいけどよ。お前が庇ってるっていう、あの『ワケあり』のガキ。あんまり深入りしねえこったな。火傷じゃ済まなくなるぜ」
薄氷が、ミシリ、と音を立てる。
和樹は、何も言い返さず、ただ、無味乾燥な報告書の作成に没頭するフリをした。キーボードを叩く指に余計な力が入る。文字にしてしまえば安全になる、と信じたい。信じるしかない。
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