【1-1】窓際警官の憂鬱
十二年前、たった一人の親友が忽然と姿を消した。 残されたのは、何も語らない警察と、止まったままの時間。
くたびれた窓際警官・堂島和樹の日常は、一本の電話で終わりを告げる。 駅のトイレに突如現れたのは、親友の名を口にする、五歳の少女だった。
これは、「向こう側」へ行けなかった男と、「向こう側」から来た少女の、現代を舞台にした追跡と逃亡の記録。
警視庁、本富士警察署。 その庁舎の片隅に追いやられた生活安全課――通称『生安』のオフィスには、午前中とは思えないほどの淀んだ空気が沈殿していた。 寿命の近い蛍光灯が、神経を逆撫でするような羽音を立てて明滅し、黄ばんだデスクの表面を虚しく照らし出している。響くのは、誰かが気怠げにキーボードを叩く乾いた打鍵音だけだ。
「……はぁ」
何度目とも知れぬ深いため息が、そのデスクの主から漏れ、足元へと落ちた。 堂島和樹。今年で三十歳になる。 彼の目の前には、今日もまた、この国の平和と退屈を象徴する書類の山が築かれていた。
『地域住民からの騒音苦情(隣家の赤ん坊の夜泣き)』 『迷子猫の捜索願(キジトラ、小太り、抱っこ嫌い)』 『自転車盗難届(施錠なし)』
どれも市民生活には欠かせない案件だ。頭では理解している。だが、心がついていかない。 和樹はくたびれたスーツの袖を捲り上げると、給湯室の錆びついたヤカンで淹れたインスタントコーヒーを啜った。舌を刺すような苦い液体が、荒れた胃の腑に落ちていく。それが、彼の日常の始まりだった。
(これが、俺の『正義』かよ……)
自嘲気味に呟き、視線をデスクの死角へと移す。 書類の陰に隠すように置かれた、一枚の写真立て。決して他人には見せない、和樹だけの聖域だ。 そこに写っているのは、学ラン姿の二人の少年。 一人は、どこか斜に構えたような笑みを浮かべる、細身の自分。 そしてもう一人は――まるで太陽そのものが人の形をとったかのような、規格外の巨体を持つ男だった。
磐座 護。 同じ児童養護施設『ひだまりの家』で育った、たった一人の親友だ。
護は、和樹とは何もかもが正反対の男だった。 高校生にして身長は二メートルを超え、その肉体は鋼鉄の鎧のように鍛え上げられていた。そのくせ頭の中身は驚くほど軽く、口を開けば「モテたい」だの「筋肉は裏切らない」だの、中身のないことばかり叫んでいる。 お調子者で、暑苦しくて、単純で、どうしようもない馬鹿。 けれど、護は不思議なほどに愛されていた。 施設の子供たちは「マモ兄!」と歓声を上げてその広い背中によじ登り、男女問わず彼の周りに人が集まり、常に笑い声が絶えなかった。
ふと、十二年前の記憶が蘇る。 高校時代、上級生の不良グループに絡まれ、体育館裏に引きずり込まれた時のことだ。 多勢に無勢。もう駄目だと覚悟を決めた時、護がのっそりと現れた。 和樹は思った。護なら、その圧倒的な力で不良たちをねじ伏せるだろうと。 だが、護は違った。
『よぉ、先輩たち。俺の〝家族〟に、なんか用か?』
護は拳を振るわなかった。ただ、そこに立っていただけだ。 はち切れそうな学ランのボタン、薄暗い体育館裏でも圧倒的な存在感を放つ岩のような巨体。 不良たちのリーダーが、護の顔を見て怯んだ。
「い、磐座……! てめえには関係ねえだろ! そいつが先にガンつけてきやがったんだ!」
『へぇ』
護は、一歩だけ前に進み出た。 たったそれだけの動作が、場の空気を凍りつかせた。
『カズキは、俺の大事なダチで、家族だ。……もう一度聞くぜ。俺の家族に、なんか用か?』
怒鳴り声ではない。むしろ普段より静かな声だった。 だが、その瞳の奥には、仲間を侮辱された猛獣のような、冷たく鋭い怒りの光が宿っていた。 不良たちは、護が放つ純粋な「圧」――そして、学校中に轟く「磐座護」という男の人望に完全に気圧され、誰一人として動けなかった。 結局、リーダーが「……っ、なんでもねえよ! 行くぞ!」と捨て台詞を吐いて逃げ出し、その場は収まったのだ。
立ち去る背中を見送った後、護は呆然とする和樹に向かって、いつものようにニカッと笑った。
『わりぃ、カズキ! 俺、腹減っちまってよ! 早く帰って、ばあちゃん(施設長)の飯食おうぜ!』
力でねじ伏せるのではない。その存在そのものが、相手の敵意すら飲み込んでしまう。 それが、磐座護という男だった。 和樹にとっての自慢であり、唯一無二の親友であり、いつか超えたいと願う目標だった。
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