プロローグ
暗い森の奥深くで、一人の幼子が泣き叫ぶ
恐怖に包まれ泣き叫ぶ
助けを求めて泣き叫ぶ
黒く、暗い、闇に囲まれ
泣いて、哭いて、哭き叫ぶ
しかし、その泣き声は、闇に飲まれて消えていく
その声に答える者はどこにもいない
まるで、この世界には幼子しか存在していないかのように
誰にも伝わらず、消えていく
──いったいどれだけ泣いたのか
包まれている布を突き破り、涙で茶色い地面まで濡らした幼子は、体内の水を全て使いきる勢いで、幼子とは思えぬ程掠れた声で、なおも泣き叫び続けている
そんな、いつ命の炎が尽きてもおかしくない幼子に、一つの影が近づいていた
影が月灯りに照らされると、その輪郭がはっきりと分かる
燃え盛るような深紅の毛並み、それを突き破る白い角、四つの脚で支える体は、体毛に包まれても分かるほどの筋肉で満たされている
名をヴォディスと言うこの獣は、鼻を鳴らしながら幼子の匂いを嗅ぎ付ける
幸か不幸か、幼子は自身の涙と声で、獣に気が付くことはなかった
端から見れば幼子が獣に食べられそうなこの状況
だが、そうはならなかった
獣が幼子の顔に鼻を近づけると、獣は幼子の額に向けて優しく、白い風を吹き掛ける
白い霧が幼子を包み、幼子の体に吸い込まれていく
吸い込まれた霧は幼子の体内を巡り、尽きようとしていた幼子の命に一筋の大きな希望を与えた
枯れたように弱々しくなっていた血管や、水分の切れた乾いた喉などに白い霧が入り込む
すると、みるみる内に幼子の体は力を取り戻していく
まるで獣が命の石炭を燃やしたかのように、幼子の顔は柔らかで美しい肌を取り戻していた
同時に、恐怖や憂慮に包まれていた幼子は、まるで母親に抱き締められているかのような安心感に包まれた
涙が止まり、その場で泥のように眠った幼子を確認すると、獣は幼子を包む布を慎重に咥えた
そして、獣は布を振りかぶり、幼子を布で包んだまま静かに獣の背に乗せる
まるで揺りかごの上にいるかのように、優しくたおやかな揺れであった
幼子は泣き叫ぶどころか、目を覚ます気配もなく静かに獣の背に乗っている
獣は背に幼子を乗せたまま、どこかへ向けて歩いていった
それは、乱雑に歩いているようにも、自身の住みかに向けて歩いているようにも見えない
たった一つの、まるで始めから向かうように躾られたかのように、そこへ向かって歩いていた
頼りは夜を照らす月明かりのみ
暗い暗い森の中を、一人の幼子を乗せた獣がゆっくり歩く
幼子はまるで時が止まったように眠っている
獣は幼子に刺激を与えぬためか一歩一歩丁寧に、まるで花畑を歩くかのように獣道を進んでいる
獣が幼子を連れ、たどり着くであろう場所
そこは、獣の集落でもなく、最も近しい村でもない、約200kmという遠く離れた一つの都市
そこに住むのは獣ではなく、そこらに多く住む平民でもない、心優しい貴族の一家
ヴォディスはそこへ行ったことはない、もちろん幼子の家でもない
何故そこへ行ったのか
何故連れていったのか
決して心優しいとはいえぬ野生の獣が、どうしてこの幼子を救おうとしたのか
それは、この時代に生きる者には決して、神でさえも理解する事は出来なかった