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遥か秘境。人の手が届かぬ深い森と断崖を越えた、雪と霧に覆われた山中。
その最奥にひっそりと佇む、大理石のように白い巨大な城。
そこには「アイ」が住んでいた。
アイは“生まれる”わけではない。
気がついたら「私」はいた。
気がついたら、私が二人いた。
気がついたら、私が三人いた。
それを繰り返して、今では──
「ねぇ、私。あそこの花瓶の角度、少し気にならない?」
「気になる。でもそれより、私はあの壁のスミに蝶を彫りたい」
「私も賛成。私、最近“蝶”が気になるのよ」
そんなふうに、「私」が百人以上いる。
「私たち」は全員同じ姿をしていた。
すらりと背の高い、黒髪の中性的な青年。顔立ちは整っていて、声はやわらかい。
だが、あまりに「同じ」すぎて、最初はちょっと気味が悪かったらしい。
だからある日、ある「私」が言った。
「ねぇ、全部の私が同じ顔で同じ喋り方って、ちょっとホラーじゃない? 演じようよ、キャラとか」
その提案がけっこうウケて、今ではそれぞれがそれぞれを演じている。
カタコトの「私」、ツンデレ気味の「私」、絵に夢中な「私」、筋トレだけしてる「私」、常にパーカーを着てる「私」。
みんな同じ顔と声だが、雰囲気が全然違う。
中には本を読むこと以外を全て放棄した「私」や、ずっと塔の上から空を見てる「私」もいた。
──そんなある日。
「私、ちょっと外に出てみたいな」
ぽつりと、ある「私」が言った。
城の中の談話室で、紅茶を飲んでいたアイたちの動きがぴたりと止まる。
「……外?」
「そう。人間の住んでる場所に、行ってみたいんだ」
「ふむ、理由は?」
「ないよ。……ただ、私、知らない風景を見てみたいと思った」
「おおー……」
「マジで?」
「感性が詩人っぽい私だ……」
「ついに私の一人が旅人キャラになったか……」
ざわつく「私」たち。
「でもさ、外って危なくない? 人間、びっくりするんじゃ?」
「うん、だから一人だけで行くんだ。私たち全員が王都に現れたら、それこそ怪異でしかないだろう?」
「まーた『私が増えるとバグに見える』って言われるやつね」
「私たちが“私”であるには、むしろバグみが必要だと思うのだけど?」
「黙れ、哲学キャラ」
──そして、翌日。
その「私」は城の大扉の前に立っていた。
ショートマントを羽織り、旅人らしい革靴を履き、手には旅用の杖。
「気をつけてねー! 夜は冷えるからねー!」
「弁当入れたー!」
「なんかあったら念で呼んで! 応援部隊出す!」
「最悪、戻ってきてもいいからな。っていうか寂しくなったら戻ってこい」
「うるせぇよ……私たち、情緒が一緒なんだから、別れがセンチになるのは当然だろうが」
扉が軋む音と共に、山の風が流れ込む。
「じゃあ、私、行ってくるね」
その「私」はそう言って、
雪の積もる古道を、ゆっくりと──でもまっすぐに歩き出した。
見た目はただの青年。
だが、その中身は「百人分の私」を持つ存在。
王都の空気はまだ知らない。
人の社会も、街の喧騒も、恋も、戦争も、光も闇も、なにも知らない。
──でも、それがいい。
私は、外に出る「私」。
帰ってきたとき、きっと少しだけ違う「私」になっている。
そう信じて、足を進めた。