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第4話

 一階のリビングへと戻ってくると、薬草の匂いが出迎えた。

 花々の甘い香りや柑橘類のような爽やかな香り。鼻を抜ける清涼感のある香りといったものが、混ざり合っている。

 けれど、嗅覚に敏感なルカであっても嫌なものではなく、むしろ心地よいものであった。

 落ち着いた色合いのソファに飛び乗ったルカは、先程のヴァルトの姿を思い浮かべる。


「あの様子だと、皿に手を付けないと思うのにゃ」


「そうね、そうかもしれないわ。焼き立てを食べさせてあげたかったのだけど」


 アプフェルの長い耳が下を向いており、残念に思っていることがひと目で分かる。

 けれど、残念に思っているのはルカもだった。


「それならボクが食べたかったのにゃ〜」


「もう。ルカってば、食いしん坊さんなんだから」


「だって、あのふわふわのパンケーキなのにゃ! そんなの食べたいに決まってるのにゃ〜」


 主人の手作りスイーツ。

 絶品であると知っているだけに、食べられないのは悔しい。加えて、少年が出来立てに手を付けないなら尚更だった。

 駄々を捏ねるルカの様子にアプフェルは苦笑を浮かべる。そして、手入れの行き届いた毛並みに手を伸ばした。


「また作ってあげるから、今日は我慢してちょうだい」


「うぅ……分かったのにゃ。でも、大きいの作ってなのにゃ」


 ルカは優しく頭を撫でる手に擦り寄って、渋々ながらも頷いた。

 しかし、素直に聞き入れるのはやはり嫌なので、潤んだ瞳で甘えてみせる。


「ええ、いいわよ。トッピングにフルーツやクリームも付けましょうか」


「楽しみにゃ!」


 そのお願いにアプフェルも楽しそうに応え、ルカはイキイキと目を輝かせた。

 これで美味しいパンケーキを食べることができる。今からトッピングに、何を乗せようかと思いを馳せた。

 そこでふと確認したいことがあったのだと、ルカは隣に座るアプフェルを見上げる。


「アフィ、一つ聞いてもいいかにゃ?」


「なに?」


「あの子供の名前をすでに知っているのにゃ。それなのに、何故わざわざ尋ねたのにゃ?」


 昨夜の女性が息を引き取る間際、息子の名前を口にしていた。そのため、アプフェルもルカも、少年の名がヴァルトであることを知っている。

 だからこそ何故主人が少年に、名前を問い掛けたのか分からないでいた。


「坊やの意思を尊重したかったのよ。昨夜の反応からも、魔女に対して警戒心が強いようだったから」


「あぁ、なるほどにゃ。見ず知らずの人に名前を知られていたら、誰だって不信に思うのにゃ」


 少年の傷付いた心に負担を掛けないようにという理屈は分かる。だが、ルカとしてはヴァルトを慮る義理はない。

 ルカにとって優先すべきは、主人であるアプフェルであるのだから。


「だから、ルカも勝手に名前を呼んではダメよ。あの坊やは、私たちが名前を知っていることを、知らないのだから」


「分かったのにゃ」


 しかし、その主人が気に掛けているのならば、少年に対し少しだけ気遣う心を持つことにした。ルカにとっては不本意だとしてもだ。

 ルカを撫でている手が離れていき、徐ろにアプフェルが立ち上がる。


「私は少し家を空けるけれど、ルカは坊やを見ていてくれる?」


「どこか行くのかにゃ?」


「裏手の森よ。最後の仕上げがまだだから」


「そういうことなら、任せるのにゃ」


 リビングの上に当たる部屋が、ちょうどヴァルトがいる寝室であった。

 優れた聴覚を持つルカであれば、見えずとも相手の動向を知ることは出来る。

 ルカはちらりと天井へ見上げ、アプフェルに了承の意を込めて頷いてみせた。


「行ってくるわね」


「気を付けてなのにゃ」


 ルカは尻尾を振り、外出していくアプフェルを送り出す。

 広くなったソファの上で、悠々自適に身体を寛げて横になった。

 そばだてた耳に、苦しげに絞り出されるヴァルトの慟哭が聞こえてくる。


「……今だけは、気が済むまで泣くといい」


 ルカは少年の気持ちを汲んで、誰にともなく呟いた。

 しばらくすると、泣き声は規則正しい寝息へと変わる。

 気が緩んだルカも穏やかな時間の流れに誘われて、次第に瞼が下がってくるのだった。



 ■ ■ ■



 瞼越しに感じる光が、ルカの意識を引き上げる。

 部屋の中に目を向ければ、いつもと変わらない風景があった。

 木の温もりを感じられる内装に、テーブルやイスなどの調度品も木製の物で揃えられている。森で摘んできた花が、ひっそりと部屋を彩っていた。

 しかし、家主であるアプフェルの姿がどこにも見当たらない。


「アフィはまだ戻っていないのかにゃ?」


 上の様子に耳を立てるが、身じろぐ衣擦れはすれど、ヴァルトが起きている気配はない。

 考えを巡らせたルカは、音を立てることなくソファから降り立つと玄関を潜る。進む足取りに迷いはなく、家の壁に沿って裏手へと回った。

 普段アプフェルと共に手入れをしている林檎畑の間を抜け、森の中へ踏み入っていく。

 立派な樹が聳える道なき道を進んで行くと、少し開けた場所へと出た。


「ここに居たのかにゃ」


 樹々の隙間から降り注ぐ木漏れ日の中、アプフェルが一人佇んでいた。風に靡く柔らかな橙色の髪が、陽の光を反射して煌めいている。

 儚げに見えるアプフェルの背中に、眩しそうに目を細めたルカは声を掛けた。


「アフィ、魔力が漏れているのにゃ」


「え?」


 驚いたように振り返ったアプフェルは、ルカの指摘に足元へ視線を落とす。

 アプフェルを中心に、緑が芽吹き、蕾が花開いていく。

 草木が生い茂る森の中とはいえ、掘り返した跡のある大地に、本来なら有り得ない速度で草花が成長をしていた。


「あら、大変。気が緩んでしまっていたみたい」


 困ったような苦笑を溢したアプフェルは、左手を胸に添え、目を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。

 無意識に発せられていた魔力が、次第に落ち着いていく。すると、広がり続けていた草花の成長が止まるのだった。


「アフィが魔力の制御を誤るなんて、珍しいのにゃ」


「私だって、たまには失敗することもあるのよ」


「ん〜、失敗自体はまたにじゃなくて、割りとあると思うのにゃ。いや、失敗というよりも、アフィのはおっちょこちょいかにゃ?」


 ルカはアプフェルの横に並び立ち、胡乱げな目を主人へ向けた。

 主人の少し抜けている性格を知っているからこそ、悪戯心が顔を覗かせる。

 疑わしげな視線を受けて、アプフェルは小首を傾げて曖昧に笑う。


「おっちょこちょいと言われるほど、ミスをしていたかしら……?」


「そうだにゃ。この間だって、完成した魔法薬の瓶を――」


「あっ、言葉にしなくて大丈夫よ。心当たりがなくも、ないかもだから……」


 誤魔化そうとしている様子に、最近の出来事を思い出しながら口を開く。だが、声を上げたアプフェルに遮られてしまう。

 その声が段々と尻すぼみになっていくあたり、どうやら自覚はあるようだ。


「思い出してもらえたようでなによりだにゃ」


「もう、ルカってば意地悪なんだから」


「ボクは事実を言ってるだけなのにゃ」


 アプフェルが拗ねたように頬を膨らませて抗議をしているが、ルカは痛くも痒くもない。

 むしろ、軽口を叩ける関係が楽しくもある。


「まぁ。ボクはそんな、アフィのおっちょこちょいなところも好きなのにゃ」


「そんな言い方はずるいわ。私だって、ルカの意地悪なところも含めて好ましく思っているのよ」


 しばらくの沈黙のあと、どちらともなく目元を緩めて、くすくすと笑い出す。

 共に過ごした時間が長いこともあり、お互いに長所も短所もよく理解している。なにより、ルカは短所も含めて、アプフェルの良さであると慕っているのだ。


「……で、アフィの気がそぞろだったのは、あの子供のことかにゃ?」


 ルカの問い掛けに、アプフェルは柳眉を下げる。

 そして、複雑な表情を浮かべながら、アプフェルは家がある方へ顔を向けた。


「えぇ、ルカにはお見通しね。坊やの様子は?」


「泣き疲れて寝てしまったのにゃ」


「そう。まだ心の整理がつかないものね。仕方がないわ」


 アプフェルの琥珀色の瞳が遠くを見詰めている。

 憂いを帯びた主人の横顔に、ルカは眉間に皺を寄せて仰ぎ見た。

 少しでも主人の煩悶を取り除きたくて、ルカは思考を巡らせる。ふと浮かんだ考えに、揺らしていた尻尾をピンっと立てた。


「いっそ、騎士団に保護してもらうか、孤児院に預けるのはどうかにゃ?」


「それも考えたのよ。でも、魔女に偏見を持つ今の坊やでは、住人たちと確執を生むことになると思うの」


「あぁ……あの国の人間は、アフィを慕っているからにゃ」


 魔女様と無邪気な笑顔を向けてくる孤児院の子供たちの姿が思い浮かぶ。

 今のヴァルトが王都で、アプフェルを魔女だからと悪し様に言うようなものなら衝突は免れないだろう。

 ヴァルトの扱いに困ったものだと、ルカはやれやれと肩を竦める。


「だから孤児院に預けるとしても、坊やの魔女に対する認識を改めてもらってからと考えているわ。その方が、お互いにとっても受け入れやすいでしょうしね」


「この国で生きていくなら確かに必要なことだにゃ……」


 ヴァルトに身寄りがなければ、独り立ちするまではローゼンシュタットで生きていくことになるだろう。であれば、ヴァルトの魔女に対する差別意識を取り除かなければならない。

 けれど、ここにいるのはその差別対象の魔女と使い魔だけなのである。


「坊やの心に寄り添うには、どうすればいいかしらね」


「……アフィがそこまでして心を砕く必要はあるのかにゃ?」


「ルカ……?」


 アプフェルの戸惑った声音が上から降ってくる。

 ヴァルトの境遇を不憫には思う。そんな少年をアプフェルならの親身になって支えようとするだろう。

 けれど、魔女を嫌っている相手に、心を痛めてまで接する必要があるのか分からない。


「正直、ボクはあの子供のことが嫌いにゃ」


「どうして?」


「アフィの優しさを否定したのにゃ。それに、折角助かった命を粗末にしようとする奴を、好きにはなれないのにゃ」


 ルカはヴァルトに抱いていた不満を打ち明ける。

 アプフェルが魔獣を退け、傷を癒したからこそ、ヴァルトは今を生きていられるのだ。

 それなのに両親と一緒に死ねば良かったなんて言う少年に、ルカは腹を立てていた。

 救われた命の重さを、どうしてそんなふうに軽んじられるのか。


「そうね。私も命を大切にして欲しいと思うわ」


 アプフェルはルカの訴えに頷きながら相槌を返す。

 不機嫌を隠さずにいれば、アプフェルが屈み込んで腕を伸ばしてくる。ルカはその優しく温かい主人の手に、頭を押し付けるのだった。


「しかも、アフィを悪い魔女と一緒にされたのにゃ」


「でも、私は人の言うところの魔女であることに違いはないわ」


「だとしてもにゃ。元々は自分たちと違うことを忌避した人間たちが、勝手に魔女だと差別したのにゃ。そのことを、アフィだって知っているはずなのに」


 ルカが一番許せないのは、主人を魔女と一括りにされることだった。

 種族や容姿の違いや魔力の有無で、大切な主人が疎まれなければいけないのだろう。


「この国にいると忘れがちだけれど……魔女という存在を快く思っていない人たちが、まだこの世界には大勢いるものね」


「そうにゃ。王都の人間たちがアフィを魔女様と呼ぶのとはわけが違うのにゃ。だから――」


 主人に抱き上げられたことによって、ルカの主張は遮られてしまった。

 同じ高さに合わさったアプフェルの双眸に、耳を倒したルカが映し出される。


「ルカ、あなたは優しいわね。いつだって私のことを一番に考えてくれている。でも、私なら大丈夫。伊達に長生きしていないわよ」


 アプフェルは長寿種のエルフである。だからこそ過去にもヴァルト以外に、魔女を忌み嫌う人間と出会ったことがある。

 微笑みを浮かべているアプフェルの姿は、確かに傷付いている様子は感じられなかった。


「それに、今はあの坊やの方が傷付いているのだから、ね?」


「それは、分かっているのにゃ」


「目に見える傷は治癒できても、心の傷を私では癒やしてあげられないわ。だから、坊やのために何ができるか、一緒に考えてくれる?」


「はいにゃ。アフィが望むのならにゃ」


 鼻先同士が触れ合う熱に、ルカは少しだけ溜飲を下げた。

 見ず知らずの人の子であるはずのヴァルトに、アプフェルは真摯に向き合っているのだと伝わってくる。

 そのひたむきな姿にルカは、力になれることがあるならばと頷くのだった。

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