第3話
「……んっ」
昼を過ぎた頃、昨晩から眠り続けていた少年ヴァルトが目を覚ました。
少年は寝起き特有の緩慢とした動きで上体を起こす。そして、見慣れない部屋に目を瞬かせながら、周囲を見回している。
「……ここは?」
「ようやく目が覚めたかにゃ?」
暖かな陽光が差し込むベッドの隅で、ルカは眠っている少年の様子を見守っていた。
丸まっていた身体を伸ばし、向き合うように座る。
そして、混乱している様子のヴァルトの呟きに答えた。
「――!?」
ヴァルトはくりっとした目を大きく見開き、ルカの姿を凝視している。
パクパクと口を開いたり閉じたりさせているが、そこから言葉が紡がれることはなかった。
いつまでも反応のない少年に、ルカの方が先に痺れを切らした。不機嫌を表すように、尻尾をシーツに打ち付ける。
「おい、何か言ったらどうなのにゃ? それとも起きたまま寝ているのかにゃ?」
「……な、なんで猫が喋ってんだよ!」
「声が大きいのにゃ……」
少年の発した声が思ったよりも大きく、ルカはぺしょりと耳を倒す。人より聴覚が優れている分、耳がキーンとしたのだ。
ヴァルトは咄嗟に口元を押さえ、決まりが悪そうに顔を伏せた。そして、黒髪の隙間から訝しげな視線を覗かせる。
「あっ、ごめん。……いや、でもなんで喋れるんだ? 本物の猫、だよな? それとも猫の形をした魔法具なのか?」
「一流の使い魔なのだから、会話ができるくらい当然にゃ」
「どういう理屈だよ……」
主人の使い魔として一流を自負するルカは、得意げに胸を張った。
しかし、驚きと困惑が隠せないヴァルトは、疑わしげに首を捻っている。
そんな百面相をする少年を、ルカは面白そうに目を細めた。堪えきれないとばかりに、クツクツと喉を鳴らす。
一方、笑われたことに頬を赤らめたヴァルトは、目尻を吊り上げる。
「……わ、笑うな!」
「悪かったにゃ。表情がコロコロ変わるから、ついにゃ」
「絶対、悪いとか思ってないだろ」
悪びれた様子のないルカに、ヴァルトは口を尖らせそっぽを向いてしまう。
その姿に、また溢れそうになった笑みを、ルカは飲み込んだ。これ以上機嫌を損ねるわけにもいかない。
ルカは尻尾で少年の拳を叩き、意識を向けさせる。
「拗ねないでくれにゃ。お前のように驚いてくれる人間が久し振りだったのにゃ」
「は? そんなワケないだろ。喋る猫なんて見たことも、聞いたこともないし」
「お前、外の人間だにゃ? 国の奴らはボクを猫可愛がりするだけで、面白い反応は返してくれないのにゃ」
王都の住人はルカが人の言葉を話し、コミュニケーションを取ることを不思議に思う者はいない。
しかし、稀に国の外からの来客には慣れ親しんだものではないらしく、皆一様に驚きの反応を見せるのだ。
そして、ルカはそんな人間たちの反応を密かに楽しんでいた。
「良かった、目が覚めたのね」
軋む音を立てながら開いた扉の先には、安堵の表情を浮かべたアプフェルが立っていた。
その手には焼き立てのパンケーキとティーセットを乗せたトレーが握られている。
バターの甘い匂いと茶葉の芳しい香りが部屋の中に充満していく。
「んん~、いい匂いにゃ。ボクの分はあるかにゃ?」
「お昼を食べたばかりでしょう?」
「デザートは別腹なのにゃ」
鼻腔をくすぐる匂いに食欲がそそられて、思わず涎が垂れそうになる。
ルカは目の前の魅惑的な食べ物に、尻尾が自然と揺れてしまうのを止められない。
「――あんたは、魔女の!?」
だが、穏やかな雰囲気は続かなかった。
アプフェルを視界に収めたヴァルトは、肩を跳ねさせ、驚嘆の声を上げたのだ。ジリジリとシーツの上を後退り、背後の壁に行く手を阻まれてしまう。
「ええ。魔女のアプフェルよ。そして、こっちが使い魔のルカ」
「ルカ様と呼ぶことを許してやるにゃ」
ヴァルトの見開かれた瞳には怯えが滲んでいた。
それに気付きながらも、アプフェルはふわりと柔らかい笑みを向ける。
ルカも尊大に振る舞いながら、悪戯っぽく笑うのだった。
「……」
しかし、アプフェルとルカの姿を双眸に映すだけで、ヴァルトからの反応は返ってこない。なにより、ベッドの上の手が、怯えを隠すようにシーツを握り締められている。
互いの間に沈黙が流れるが、先に口を開いたのはアプフェルだった。
「坊やは昨夜のことを覚えているかしら?」
「昨日……? そうだ。魔獣に襲われて……。オレ、隠れてることしかできなくて……」
昨夜の出来事を思い出したのか、少年の身体が小刻み震え出す。己の身体を縮こまらせ、ヴァルトは自身の震える肩を掻き抱く。
年端も行かない子供が差し迫る死に直面したのだ。その胸の内の恐怖は計り知れないだろう。
アプフェルは眉を下げ、静かにヴァルトへと歩み寄る。サイドチェストにトレーを置き、ベッドの脇で腰を落として膝を突く。
「辛いことを思い出させて、ごめんなさい」
少年の左手をそっと掬うと、主人は両手で優しく包み込む。
その触れられた温もりに、ヴァルトの肩が僅かに強張らせる。そして、虚ろな目がゆっくりとアプフェルに向けられ、振り絞るように薄い唇を開いた。
「母さんと父さんは……?」
「駆け付けた時にはご両親は、もう……」
首を振るアプフェルの意味を理解したヴァルトの目から、堪えていた涙が溢れる。
ポロポロと頬を伝う涙が、少年の握り締めた拳に落ちていく。
「なんで……なんでオレを助けたんだよ。父さんも母さんも死んだのに、オレだけ生き残ったって……。どうして、オレも死なせてくれなかったんだ……」
不運とはいえ、突然愛する両親を亡くしたのだ。その事実を受け入れられないのは当然だろう。
まだ己の生き方さえ決められない子供から、生きる気力を奪うには十分過ぎる。
ヴァルトが吐き出す悲痛な思いを、ルカは静かに耳を傾けるのだった。
「坊やのお母様は、最期まであなたの身を案じていたわ」
「母さんが……?」
「そうよ。だから、死にたいだなんて思わないで。きっとご両親は、坊やに生きていてほしいと願っているはずだから」
「――かあ、さん……とう……さん…………。ぁ、ああ……う……うぅ……」
泣き崩れてしまったヴァルトを抱き締めようと、アプフェルは手を伸ばす。しかし、その手は少年に触れようとして動きを止める。
主人の瞳には戸惑いの色が乗っており、少年に触れることを躊躇っているようだった。
昨夜の魔女に対する拒絶や、先程の怯えた様子を思い返してのことだろう。
白くなるほど握り込んだヴァルトの拳に、アプフェルは手を重ねる。そして、少年の傍らに寄り添うのだった。
しばらくの間、静かな空間に響く少年の泣き声だけが、時間の流れを刻んでいく。
やがて嗚咽が落ち着いたヴァルトは、黒髪を揺らし、俯いていた顔をゆるりと上げた。
泣き腫らした目元を赤くさせ、躊躇いがちにぽつりと呟く。
「――を……して……」
「うん? なにかしら?」
少年から声を掛けられたのが余程嬉しいのか、主人は特徴的な耳をぴょんっと跳ねさせる。
それから、上手く聞き取れなかったアプフェルは、柔らかく目元を緩ませ榛色の目を覗き込む。
その視線を受けてヴァルトは居心地が悪そうに、目を泳がせながらもう一度口を開く。
「――手を……放して、ほしい……」
「あっ、ごめんなさい。勝手に触れてしまって。もう落ち着いたかしら?」
「ん」
ハッとしたように、アプフェルは包み込んでいた手を開く。するりと離れていった温もりに、少し寂しさを感じているようだった。
代わりにと、ルカは空いた手に尻尾を絡ませる。
ヴァルトは引き抜いた手を胸に引き寄せ、小さく頷くのだった。
「ねぇ、坊やの名前を教えてはくれないかしら?」
「……いやだ。魔女には教えたくない」
「そう、残念……。でも、無理に聞き出そうなんてことはしないから安心してね。――そうだ、お腹は空いていない?」
少年との距離を縮めようと、名前を尋ねるが首を振られてしまう。そこには、魔女に対する強い嫌悪を感じられた。
けれど、ヴァルトの態度を厭うことなく、アプフェルは手を打つと笑みを浮かべる。
何か口にしてもらおうと、作ってきたパンケーキを勧めるのだった。
「魔女が作ったものなんて……」
「食べられない?」
「……」
ヴァルトの視線は、ふんわりと二段に重なったパンケーキへ向けられる。だが一瞥しただけで、すぐに逸らされてしまった。
アプフェルからの問いに沈黙なのは、恐らく肯定を意味している。
子供だというのにも関わらず、随分と警戒心が強い。
「アフィの好意を無下にするなんて、我儘な奴なのにゃ」
「いいのよ、ルカ。無理強いは良くないわ」
敬愛する主人の優しさを拒む少年に対して、ルカは呆れたように肩を竦めた。
不満が見え隠れするルカの頭をするりと撫でたアプフェルは、ヴァルトへと向き直る。
「坊やは魔女が嫌いなのね」
「当たり前だろ。魔女は悪いヤツなんだ。子供のオレだって知ってることなんだからな」
「お前の言う悪い魔女ってどんな奴なのにゃ?」
ローゼンシュタット王国以外の国だと、魔女の存在を受け入れている人間は少ない。
だから、外の人間が魔女に対してどのような印象を抱いているのか、ルカは純粋に気になった。
「どんなって……実験や生贄のためとか。欲望のまま血肉を食べるって……。自分たちの都合で人間を殺すのが魔女という存在だろ」
「大分偏った認識をされているのね」
「風評被害もいいところにゃ」
ヴァルトから紡がれる魔女像の残虐さに、思わず唖然としてしまう。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
しかし、本来人間にとっての魔女とは、そういうものであると認識されているのだった。
「父さんが行商人だから、オレもいろんな国や街を回ってる。そこで魔女の話だって聞いたんだ」
「何を聞いたのにゃ?」
「森一帯を焼き尽くした狼を連れた魔女の話や、巻き起こした風で大地を抉った大鷲を連れた魔女の話を。だから、魔女は災いの存在なんだ」
諸国を巡っているだけあり、ヴァルトの挙げる魔女の話は具体的であった。
だが、話の中に思い当たる節があったルカは、主人の耳に顔を寄せる。
「どうしましょう。私、坊やの言う魔女に心当たりがあるわ」
「多分、ボクも同じ人物も思い浮かべているのにゃ」
小声で言葉を交わすアプフェルとルカには、同じ人物が脳裏に浮かんでいた。
ヴァルトの抱いている魔女像を否定したいが、知り合いの魔女たちであればやりかねないことを知っている。
「確かにそういう魔女がいることは知っているわ。だからって、全ての魔女がそんな惨たらしいことをするわけじゃないのよ」
「魔女にも色々いて、そいつらが悪目立ちしているだけにゃ。アフィは絶対そんなことしないのにゃ」
「そんなこと言われたって……」
戸惑ったように口籠るヴァルトたが、その瞳は信じられないと物語っている。
表情に哀しげな影を落としたアプフェルは、真っ直ぐにヴァルトの双眸を見詰めた。
「そうよね。急には信じられない話だと思うわ。でも、私はただ坊やの助けになりたいだけなの。決してあなたを傷付けたりしないと約束するわ」
「そんなの知らない! 口だけかもしれないじゃないか!」
ヴァルトが声を荒らげて、アプフェルをキッと睨み付けた。
少年の疑心を正面から受け止めて、それでも主人は優しげに微笑みながら問い掛ける。
「何故、そう思うの?」
「昨日の魔獣だって、本当はあんたがけしかけたんだろ!」
「いいえ。決してそんなことはしていないと、精霊に誓って言えるわ」
「嘘だ。じゃなきゃ魔獣が、魔女の言うことに従うわけない。だから、父さんも母さんもっ……出てけ!」
再び涙を滲ませたヴァルトは、言葉を詰まらせた。そして、震える唇を引き結んで、手元にあった枕を投げ付けてくる。
受け止めた枕から顔を覗かせると、ヴァルトはシーツを頭から被ってしまっていた。
会話を拒む姿に、アプフェルはこの場に留まるのは難しいと判断し、立ち上がる。
「分かったわ。このパンケーキは置いておくから、気が向いたら食べてね。あと、この部屋は好きに使ってくれて構わないわ」
「何かあったら声を掛けるのにゃ」
ルカは盛り上がったシーツを軽く尻尾で叩くと、主人を追うようにベッドから下りる。
反応のないヴァルトを目の端に、アプフェルと共に寝室を後にした。
「今はそっとしておきましょう」
「それがいいにゃ」
そっと頷き合ったアプフェルとルカは、扉に目を向ける。
この一枚隔てた扉が、少年との心の距離を表しているようだった。