第2話
「厄介だな……」
星夜を駆けるルカの眼下には、暗い森がどこまでも広がっている。
月明かりが森に降り注いでいるが、生い茂った枝葉に遮られ、地上の様子を窺うのは難しい。
しかし、王都を襲撃する恐れのある魔獣を見逃すことはできない。ルカは苛立ちから顔を顰める。
「下の様子が分からないわね」
「この夜の森から魔獣を探し出すのは骨が折れそうだ」
「ルカ。どうにか位置を絞り込めないかしら?」
「少し時間をくれ」
ルカは瞼を閉じ、聴覚を研ぎ澄ます。
森全体から聞こえてくる風が木の葉を揺らすさざめき。動物の逃げ惑う足音。鳥が羽ばたく息遣い。それらの音をひとつひとつ聞き分けていく。
その中に動物の鳴き声と似ているが、明らかに違うものがあった。
「――東の方からだな」
妖しく光る紅い瞳が虚空を鋭く睨み付ける。
行先を告げたルカは、王都を背にして走る速度を上げた。
昼間見るのとは違う夜の森は、樹々の区別が難しく、変わり映えのしない景色が流れていく。そして、いつもより静寂な森は、どこか不安を感じさせる。
魔獣の咆哮が聞こえた場所に辿り着くが、すでに魔獣の影はなかった。
「この辺りのはずだが……姿が見えないな」
「王都からは距離があるわね。迷い込んだ魔獣が、狩りでもしていたのかしら?」
「それなら、人間たちに被害がなくていいんだがな。どうする? 追うか?」
「そうね、安全確認はしたいわ。少し地上に近付いてくれる?」
「あぁ」
姿が見えないからといって、このまま魔獣を野放しにするわけにはいかない。
アプフェルの指示に従い、闇の中でも視認ができるように高度を下げる。
生き物の気配が感じられない地上を、ルカは注意深く見下ろす。すると、王都へ続く街道から外れた車輪の跡を見付けた。
「まだ新しいもののようね」
「後を追うぞ」
「えぇ、お願い」
蛇行する車輪の跡を追い、人の手が入っていない鬱蒼とした森の中を進んでいく。
樹々や草花、土の匂いに混じって、鉄錆を纏った獣の臭いがルカの鼻を掠めた。不快な臭いに自然と鼻筋に皺が寄る。
樹々の間を抜けると、視界が急に開けた。その先には、切り立った崖が足元に広がっている。
「アフィ! あそこだ!」
ルカが声を張り上げた先には、崖下に一台の荷馬車が転落していた。そして、その荷馬車を取り囲むように、狼型の魔獣が十頭程の群れを成している。
「――グレーウルフの群れが、こんなところに!?」
普段、アプフェルの魔力が満ちた王都周辺の森で、魔獣が出現することは珍しい。群れから逸れた魔獣や、ふとした拍子に迷い込んだ魔獣が、時折姿を現すことがある程度だった。
だからこそ、獰猛なグレーウルフの群れの出現に驚き、アプフェルは目を見張った。しかし、荷馬車の近くに放り出された人の姿があり、事態の深刻さに表情を引き締める。
「ルカ。少し耐えてね」
「気にせず思い切りやれ」
突如として膨れ上がるアプフェルの魔力に、ルカの全身の体毛までもが逆立つ。
アプフェルが手を翳すと、地響と共に樹々の葉が揺れる。すると、グレーウルフの足元から複数の樹根が飛び出した。
飛び跳ねて回避するグレーウルフたちを、自在に動く樹根が追い掛けていく。そして、逃げ惑う魔獣の脚を絡め取り、三頭のグレーウルフを捕縛した。
――グルルルッ
グレーウルフは低い唸り声をあげ、殺意を剥き出しにした赤錆色の瞳がギラついている。
その瞳に臆することなく、ルカは魔獣の群れを正面から見据え、地上に降り立った。
アプフェルの纏った冷たく凛とした雰囲気に、先程までの動揺はない。
「ここから立ち去りなさい」
アプフェルの魔力を帯びた声が、静寂な空気を震わせる。
両者の間に睨み合いが続くが、獲物を前に飢えた魔獣が引く様子はない。
ルカは沈黙を破るように、捕らえたグレーウルフに鋭い爪を突き刺した。その爪で勢いよく引き裂くと、傷口から蒼い炎が噴き出す。
「去れ。さもなくば、貴様らも灰に変えてやる」
蒼い炎に包まれた魔獣は、断末魔の叫びを上げて燃え上がる。
グレーウルフの群れは、仲間の死を前に怖気付き、森の奥へと去って行く。その際、荷馬車を引いていた馬を持ち去っていくあたり魔獣も抜け目がない。
ルカは走り去る魔獣の背を見届け、確認の意を込めて問う。
「追い払うことは出来たが、仕留めなくて良かったのか?」
「もちろん、放っておくことはできないわ。でも、今は人命が優先よ」
「そうだな。後程、騎士団に魔獣出現の報告と討伐依頼を出しておこう」
「お願いね」
見逃したグレーウルフへの対処を決め、周囲を探るが魔獣の気配はない。
そして、アプフェルとルカはそれぞれ倒れている人間の元へと駆け寄った。
ルカは足元の男性を見下ろし、その有り様に苦々しく顔を歪める。
「ルカ、その方の容態は?」
「残念だが、すでに亡くなっている」
「……そう」
アプフェルの問い掛けに、ルカは首を横に振る。
荷馬車を引いていたと思われる男性は、真っ先にグレーウルフの襲撃に遭ったのだろう。
引き裂かれた腹部からは、臓腑が飛び出していた。喰い千切られた首からのおびただしい出血の量から、即死であったことを物語っている。
「そちらの女性はどうだ?」
「辛うじて息がある状態だけれど、恐らく助からないわ……」
アプフェルの視線の先には、腹部から止めどなく血を流す女性が横たわっていた。
荷馬車が転落した際に、破損した金属片が運悪く突き刺さったのだ。その金属片は女性の急所を捉えていて、胸の上下する力が次第に弱まっていくのが分かる。
命の灯火が消えかけている姿に、アプフェルは唇を震わせながら口を開いた。
「――最期に、何か伝え残したいことはありますか?」
アプフェルは手やドレスが血で染まるのを気にせず、女性を抱き起こす。
その呼び掛けに女性は瞼を僅かに開け、ガラス玉のような瞳にアプフェルを映し出した。
弱々しく伸びる女性の冷えた手を、アプフェルはしっかりと取る。
「……息子は……無事……で、しょう……か……?」
「子供がいるのね?」
「……どう、か……息子を……。ヴァルトを……お願い、しま……す……」
「――えぇ、分かったわ」
「……あり……が、と」
女性の途切れ途切れの懇願に、アプフェルは頷いてみせる。
その言葉に安心したのか、女性は微かに口元を笑みの形へと変え、そのまま息を引き取った。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい」
女性を丁寧に横たえたアプフェルは、悲しげに目を伏せる。
華奢な背が震えているのを感じながら、ルカはそっと静かに寄り添う。
心優しい主人の胸中には、後悔と自責が渦巻いているのだろう。それが見知らぬ人であっても、自身の庭ともいえる森での出来事に責任を感じているのだ。
「アフィ」
「ありがとう、ルカ。でも、大丈夫よ。この方の最期の願いを聞き届けてあげましょう」
顔を上げたアプフェルは、ルカの頭をひと撫でする。そして、静かに立ち上がると、横転した荷馬車へと向かった。
ランプで荷台を照らすが、奥まで光が届かず中の様子を窺うことができない。
だがルカの耳には、微かに人の息遣いが聞こえている。
「中に人がいるのは間違いない。生存者だ」
「生きているのね。それなら荷馬車から早く出してあげなくちゃ」
ひとまず安堵した様子のアプフェルは、ランプに魔力を更に流し込む。すると、揺らめく炎が大きくなり、車内に散乱した雑多な荷物が露わになる。
そして、光が届かない更に奥の方から、憎悪と憤怒を宿した瞳がこちらを睨み付けていた。
「グレーウルフは去ったわ。そこから出てきて、手当をしましょう」
「――来るな!」
少年へ向かって差し伸べたアプフェルの手は、鋭い否定の言葉によって拒絶される。
行き場をなくした手を胸の前で握り、視線を合わせりるためにしゃがみ込む。
「怖がらないで。私たちは坊やを傷付けたりしないわ」
「信じられるもんか! あんたが魔獣に命令してたのを見てたんだ。オレのことも殺すつもりなんだろ」
「坊やには、私が魔獣を従えているように見えてしまったのね」
アプフェルは困惑したように眉を下げ、ヴァルトの言葉を受け止めていた。
先程のグレーウルフと対峙していた姿が、どうやら少年に誤解を与えてしまったようだ。
少年から投げ掛けられる言葉には不信と警戒で満ちている。だが、その声は恐れから震えていた。
「そこにいるのだって、さっきのヤツと違うだけで魔獣だろ?」
「そこらの魔獣なんかと一緒にするな。ボクは一流の使い魔だ」
「使い魔……? それこそあんたが魔女である証拠じゃないか! 魔女の言うことなんか信じられるか!」
ルカが使い魔であると知ったヴァルトは、より強い拒絶の反応を示す。
警戒心を剥き出しにした少年を刺激しないようにと、アプフェルは努めて優しい口調で語り掛ける。
「坊やが言う通り、私は魔女よ。でも、魔女だからといって坊やを傷付けたりしないわ」
「そんなの分かんないじゃないか」
「そうね。だから魔女を信頼してとは言わないわ。でも、今だけは信じてくれないかしら。坊やのお母様の願いを……傷付いた坊やを助けさせてほしいの」
「母さん――」
ヴァルトの小さな呟きを最後に、荷台の奥からバタンと大きな音を立てる。
先程まで強い光を宿して睨み付けていた瞳が、今は見えなくなっていた。
アプフェルの瞳に心配げな色が浮かぶ。
「坊や?」
「ボクが見てこよう」
ルカは再び全身を蒼い炎で包むと、元の小柄な黒猫の姿へと戻る。
身軽な身体を使って、散乱した荷物の山を越えてヴァルトの元へと辿り着く。
「おい。生きているかにゃ?」
夜目の効くルカは、ヴァルトの頭のてっぺんから足の爪先まで視線を走らせる。
全身の擦り傷や打ち付けた痣は、横転した際に壁や荷物で負った傷だろう。
ルカの敏感な嗅覚が、少年の血の臭いを嗅ぎ取った。しかし、安定した呼吸から死に至るものではないと判断する。
「ルカ。坊やの様子は?」
「大丈夫にゃ。多少の怪我や出血はあるけど、今は気絶をしているだけなのにゃ」
「そう、良かった。坊やを運び出せるかしら」
「任せるのにゃ」
胸を撫で下ろすアプフェルを目尻に、ルカは少年へと視線を戻す。
気絶したままのヴァルトの肩に肉球を押し付け、精霊石に魔力を込める。すると、少年の身体が重力に逆らい、ふわりと浮かび上がった。
ルカは宙に浮くヴァルトを引き連れて、月明かりの下へと戻る。
「荷馬車が横転した時にでも頭を打ったのね。見た目ほど傷は深くなさそうで良かったわ」
アプフェルは血で貼り付いた黒髪を払い、少年の額の傷口を確認した。そして、翳した掌から流れる暖かな光が、ヴァルトを包み傷を癒やしていく。
ルカは主人の横に控え、顔色の悪いヴァルトの様子を見守った。
「――これで止血は大丈夫ね。でも、額の傷は跡が残ってしまうかしら」
「命が助かったことに比べれば、傷なんて些細なことなのにゃ」
「そうね。それより心の傷の方が心配だわ」
アプフェルは眠っているヴァルトの頬を撫で、目尻に残った涙を優しく拭う。
その指先が震えていることに気付いたルカは、アプフェルの横顔を仰ぎ見る。主人の頬を静かに涙が伝っていた。
「アフィ、自分を責めたらダメにゃ。魔獣の出現なんて誰にも予測できないのだから」
「分かっているの。でも、私がもっと早く気付いていれば、誰も傷付かずに、誰も死なずに済んだかもしれないと。そう思ってしまうのよ」
突如として天涯孤独となった少年のため、助けられなかった者のために、涙するアプフェルの横顔は儚くも美しいとさえ思う。
けれど、ルカは悲しんでいる主人に言わずにはいられなかった。
「アフィがいかに偉大な魔女でも、全てを救うことはできないのにゃ。誰しもできることには限度があるのだから。それでも、人を一人救ったのです。それを忘れないで欲しいのにゃ」
主人は心根が優し過ぎるが故に、全ての痛みを背負おうとする。
傍から見れば美徳でも、それではいつかアプフェルが潰れてしまう。だからこそ、取り零した痛みより、その手に残った喜びを大事にして欲しいとルカは思うのだった。
「ルカの言う通りね。今はこの坊やを家に連れて帰りましょう。後のことはそれからね」
「はいにゃ。アフィもゆっくり休むのにゃ」
アプフェルは小さな温もりを大事そうに抱き寄せ、腕の中にある命の重みを感じている。
この少年が受けた痛みと悲しみを乗り越えられるようにと、頭上に見える月へ祈るのだった。